裏切りの騎士は悪役令嬢を溺愛していた

桜井ことり

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窓の外では、静かな夜雨が森の木々を濡らしていた。

暖炉の前で、ローレンスがアテナの長い髪を丁寧に梳かしている。
一本の絡まりも見逃さないという執念すら感じる、至福のひとときだ。

「……ねえ、ローレンス。前から気になっていたのだけれど」

アテナが鏡越しに、背後にいる彼の瞳を見つめた。

「貴方はなぜ、そこまで私に尽くしてくれるの? 幼い頃に雨の中で犬を助けた私を見た、と言っていたけれど……。それだけのことで、人生を棒に振るなんて、普通ではないわ」

ローレンスの手が、一瞬だけ止まった。
彼は愛おしそうにアテナの髪を一房手に取り、その香りを深く吸い込んだ。

「アテナ。貴女にとって、あれは数ある日常の一コマに過ぎなかったのでしょう。ですが、地獄の底にいた私にとっては……それが世界の全てだったのです」

「地獄……?」

ローレンスは梳かし終えたブラシを置き、アテナの肩に手を置いた。
その手は、いつになく熱を帯びている。

「私の実家は、貴女の公爵家が治める領地の隅にある、没落しかけた騎士の家でした。父は酒に溺れ、母は病で亡くなり……。私はただ、泥水を啜るような日々を送っていました」

「そんな……。貴方の出自は、王国の名家だと聞いていたわ」

「それは私が手柄を立てた後、王家が体面のために用意した偽りの経歴です。……あの日、私は空腹と絶望に耐えかねて、雨の中、道端でうずくまっていました」

ローレンスの琥珀色の瞳が、遠い過去を追うように細められる。

「そこへ、一台の豪華な馬車が通りかかった。泥を跳ね上げ、私のような汚らしい子供など目にも留めないはずの馬車が、止まったのです」

アテナは息を呑んだ。ぼんやりとした記憶の底に、小さな影が浮上してくる。

「貴女は、供回りの制止を振り切って馬車を降りました。そして、びしょ濡れになりながら、私ではなく……私の傍らで震えていた子犬に、自分の高価なショールをかけた」

「……ああ。そんなことも、あったかしら」

「貴女は言いましたね。『ごめんなさい、私にはこれくらいしかできないけれど。この子が凍えないようにしてあげて』と。……そして、私の方を向いて、優しい微笑みを浮かべた」

ローレンスの指先が、アテナの頬を震えるように撫でた。

「貴女は、持っていた金貨を私の手に握らせ、『貴方も、温かいものを食べてね』と言って去っていった。……自分の服が泥で汚れ、お付きの者に叱られながらも、貴女は最後まで私を心配そうな目で見つめていた」

「私は……ただ、可哀想だと思っただけで」

「その『ただ』が、私を救ったのです。誰もが見捨て、ゴミのように扱った私を、貴女だけは一人の人間として、慈しみの対象として見てくれた。……あの日、私は決意したのです」

ローレンスの瞳に、暗く燃えるような情熱が宿る。

「いつか必ず、この方の隣に立つに相応しい男になろう。この方を汚そうとする全ての理不尽から、この命を賭して守り抜こうと。……私は、貴女という光に、一生を捧げる契約を己の魂に刻んだのです」

「……だから、あんなに血の滲むような修行をして、騎士団長にまで?」

「ええ。全ては貴女の視界の端に入るため。……エドワード王子との婚約が決まった時、どれほど彼を殺したいと思ったか分かりません。ですが、貴女が望むならと、私はその恋路を支える『忠実な騎士』を演じ続けました」

ローレンスはアテナをソファに押し倒すようにして、その上に覆い被さった。
逃げ場のない腕の中で、アテナは彼の激しい動悸を間近に感じる。

「ですが、あの男は貴女を裏切り、傷つけた。……もう、我慢する必要はない。貴女を地の果てまで連れ去り、私だけのものにする正当な理由を、神が与えてくださったのだから」

「ローレンス……」

「アテナ。貴女を救ったのは貴女自身です。……私の狂気も、執着も、全てはあの日の貴女が生み出したもの。……責任を、取ってくださいますね?」

アテナは、彼の瞳の中に潜む底なしの孤独と、自分へのあまりにも深い渇望に、身震いした。
それは愛というにはあまりに重く、呪いというにはあまりに温かい。

「……勝手な人ね。そんな昔のこと、今までずっと抱えていたなんて」

アテナはそっと手を伸ばし、彼の頬を包み込んだ。

「いいわ。責任、取ってあげる。……貴方が私を離さないと言うなら、私は貴方の光で居続けましょう」

「……っ、アテナ……!」

ローレンスは子供のようにアテナの胸に顔を埋め、その温もりを確かめるように強く抱きしめた。
雨音に紛れて、彼が漏らした安堵の吐息は、長年彼を縛り続けた執念がようやく報われた瞬間でもあった。
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