婚約破棄された無能は王太子に拾われる

桜井ことり

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王宮の最上階、普段は使われない「開かずの迎賓室」へと運び込まれた。

殿下は私を羽毛のように柔らかいソファに下ろすと、満足そうに頷いた。

「ロア、ここが今日から君の部屋だ。……おい、入ってこい」

殿下の合図で、一糸乱れぬ動きで入ってきたのは、十名の侍女たちだった。

彼女たちは一様に顔を強張らせ、震える声で挨拶をする。

「お、お初にお目にかかります、ロア・エル・アヴィール様。……お世話をさせていただきます、マーサと申します」

(……大変だわ!)

私はマーサという年配の侍女の顔を見て、戦慄した。

彼女の額には薄っすらと汗がにじみ、指先がかすかに震えている。

これは間違いなく、更年期障害の初期症状か、あるいは慢性的な寝不足による低血圧。

「マーサ様……。無理をなさらないでください」

私が一歩近づくと、マーサ様は「ひっ!」と短い悲鳴を上げて後ずさった。

「も、申し訳ございません! 不手際がございましたでしょうか!?」

「いえ、そうではなく。……そんなに顔色が悪いのに、立っているなんて。今すぐこのソファに横になってください。私が代わりにそのティーポットを運びますから」

「え……? お、お客様にそんなことは……」

「いいえ、命に関わります! その震えは鉄分不足かもしれません。あ、それとも朝食を抜きましたか? バナナはありますか? バナナは万能ですよ!」

私は必死だった。

目の前で誰かが体調を崩しそうなのに、お嬢様面をして座っているなんて、私の辞書には「健康」という文字が二万回書かれているけれど「傲慢」という文字は載っていない。

「ロア。落ち着くんだ。彼女たちは君の顔が……その、あまりに威厳があるから緊張しているだけだよ」

アリステア殿下が苦笑しながら私の肩を抑える。

「威厳? いえ、殿下。マーサ様のこの脈拍、明らかに正常値を超えています。これは緊張ではなく、高血圧の兆候です。今すぐ玉ねぎの皮の煎じ薬を作らなければ!」

「……玉ねぎの皮?」

「はい! 血液がサラサラになります!」

私は侍女たちの間を縫うように歩き、一人一人の顔を覗き込んだ。

「あなた、目が充血していますね。ブルーベリーを食べなさい。あなたは……少し肩が上がっています。四十肩の予兆です。今すぐ肩甲骨を回して! ほら、グー、チョキ、パーで回すのがコツです!」

「あ、あの……ロア様……?」

侍女たちは最初こそ恐怖に顔を歪めていたが、次第に困惑へと変わり、そして……。

「……え、本当に、私の肩こり、楽になりました」

一人の若い侍女が、恐る恐る肩を回しながら呟いた。

「当然です! リンパの流れを意識すれば、世界はもっと輝いて見えます。さあ、皆さんも! まずは深呼吸から! 吸って、吐いて、カスピアン様のことは忘れて!」

「……最後の一言は必要だったかな?」

アリステア殿下が遠い目をしているが、私は止まらない。

三十分後。

そこには、ロア直伝の「王宮式・健康ストレッチ」に励む侍女たちと、彼女たちにテキパキと白湯を配って回る私の姿があった。

「ロア様……。私たちは、あなたが『氷の処刑人』という異名を持つ、恐ろしい令嬢だと伺っておりましたのに」

マーサ様が、感動で潤んだ瞳で私を見つめる。

「処刑人? 滅相もありません。私はただ、人類が等しく八十歳まで自分の足で歩ける世界を目指しているだけです」

「おお……なんと慈悲深い……」

「ロア様、私、さっきのストレッチで腰の痛みが消えました! 一生ついていきます!」

「私、さっきいただいた白湯が、今まで飲んだどんな高級茶より美味しく感じます……!」

いつの間にか、部屋の空気は「恐怖」から「崇拝」へと塗り替えられていた。

侍女たちの目は、まるで救世主を見るかのような熱を帯びている。

「……ロア、君は本当にすごいな」

壁際で腕を組んでいたアリステア殿下が、感心したように歩み寄ってきた。

「私の精鋭たちが、ものの三十分で君の信徒に成り下がるとは。……どうやら、私の出る幕はなさそうだ」

「何をおっしゃるのですか、殿下! 殿下のその猫背、これから私がじっくり矯正して差し上げますからね!」

「……猫背? 私は姿勢には自信がある方なんだが」

「無自覚なのが一番怖いのですよ。さあ、殿下。壁に背中をつけて立ってください。私が後ろから……」

私が殿下の胸板に手を当ててグイと押すと、殿下は一瞬だけ目を見開き、それから耳まで真っ赤にして顔を逸らした。

「……ロア。君は、自分がどれだけ無防備に男性に触れているか、自覚した方がいい」

「え? これは医療行為の一環ですが?」

「……いい。もういい。君のその天然なところも含めて、私が責任を持って守ることに決めた」

殿下はそう言うと、私の頭を乱暴に、けれど愛おしそうに撫でた。

その時、私は気づかなかった。

部屋の隅で、侍女たちが「殿下、頑張ってください……!」「ロア様、鈍感すぎて尊い……!」と、鼻血を堪えながら拝んでいたことに。
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