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「……ロア、やはり左手の感覚が全くないのだが」
「ですから申し上げたでしょう? 橈骨(とうこつ)神経の圧迫は禁物だと。さあ、力を抜いてください。今から私が、秘伝の『血流改善もみもみ』を施します」
朝の光が差し込む王太子の寝室で、私はアリステア殿下の腕を、プロの整体師のような目つきで揉みほぐしていた。
殿下は上半身を起こし、乱れた髪をそのままに、なんとも言えない表情で私を見つめている。
「昨夜、あんなに甘い雰囲気だったのに、翌朝に受けるのが『リハビリ』だとは予想していなかったよ」
「甘い雰囲気よりも、末端の血行不良の方が重要です。ほら、指先が少し温かくなってきましたよ。これなら今日も元気に書類仕事に励めますね!」
私が満足げに頷くと、部屋の扉がバタンと勢いよく開いた。
入ってきたのは、アリステア殿下の側近であるテオドール様だ。彼は手に大量の羊皮紙を抱え、息を切らしている。
「殿下! 大変です! 例の『ロア様の追放』の噂を聞きつけた平民たちが、城門の前に押し寄せています!」
「何だと? 暴動か?」
アリステア殿下が鋭い声で問う。
私は手を止めて、首を傾げた。
(平民の方々が? もしや、私が以前教えた『乾布摩擦』のやり方が間違っていて、皮膚炎でも起こしてしまったのかしら……!)
「いえ、暴動ではありません! 『聖女様を返せ』『ロア様をいじめる奴は私が噛み殺す』と言って、山のような野菜や果物、手編みの靴下を献上しに来ているのです!」
「……靴下?」
テオドール様は、一枚の報告書を広げて読み上げた。
「曰く、三年前の流行病の際、正体不明の令嬢が炊き出しに現れ、栄養満点のスープを振る舞い、衛生指導を徹底させたおかげで村が救われたと。その令嬢の似顔絵が、ロア様に酷似しているのです」
「……ロア、心当たりは?」
アリステア殿下の視線が私を射抜く。
私は、当時を思い出して指を立てた。
「ああ、あれはただの『ビタミン摂取推進運動』です。皆さんの顔色が悪かったので、余っていたパセリと大根の葉を煮込んだだけですよ。あんなの、捨てればゴミ、食べれば血肉です」
「さらに!」と、テオドール様が言葉を重ねる。
「下町の孤児院からは、『庭に不法投棄されていたガラクタを、一晩で最新の筋トレ遊具に改造して去っていった鉄の女』への感謝状が届いています!」
「……不法投棄は景観を損ねますし、子供たちの基礎代謝を上げるにはスクワットが一番ですから」
「さらにさらに! 王都の清掃ギルドからは、『側溝の泥詰まりを魔法で一掃し、悪臭による公害を未然に防いだ女神』への永年名誉会員証が!」
「……あれは、ボウフラが湧くと伝染病が怖いので、ついでに排水溝の掃除をしただけです」
次々と明かされる私の「悪行」ならぬ「奇行……もとい、善行」。
アリステア殿下は、顔を覆って低く笑い出した。
「ふ、ふふふ……。パセリの炊き出しに、スクワット遊具、果ては側溝掃除か。君というやつは、本当に……」
「殿下、笑っている場合ではありません。皆さん、お仕事の時間でしょうに。早く帰って踵(かかと)上げ運動でもするように伝えてください」
アリステア殿下は、笑いすぎて少し涙目になりながら、私の腰をぐいと引き寄せた。
「いや、これは絶好の機会だ。ロア、これだけ国民に愛されている君を、ただの客として置いておくのは忍びない」
殿下はテオドール様に向き直り、堂々たる声で宣言した。
「全土に布告せよ。ロア・エル・アヴィールを、わが国の『王太子妃候補』として正式に迎えると。文句がある奴は、彼女が掃除した側溝にでも顔を突っ込んでいろとな」
「畏まりました!」
(……王太子妃、候補?)
私は驚きで口を半開きにした。
「あの、殿下。私のような悪役面の女が妃候補になったら、他国の王族を顔の圧だけで威嚇してしまい、外交問題になりませんか?」
「むしろ好都合だ。君が睨むだけで、不健康な生活を送っている他国の王を震え上がらせることができる。……ロア。これは、私のわがままだ」
殿下は私の耳元で、蕩けるような甘い声で囁いた。
「もう二度と、君を『ゴミ』のように扱う連中の元へは返さない。君のその手は、これからは私の筋肉を揉むため……いや、幸せを掴むためにだけ使ってほしい」
「……最後の方、本音が漏れていませんか?」
「気のせいだよ。さあ、正式に候補になったからには、今日から特別な訓練を受けてもらう」
「訓練! やはり、滝行ですか? それともスクワット千回?」
「……愛の囁きに耐える訓練だよ。まずは一時間、私の膝の上で大人しくしていなさい」
王太子妃候補への道。
それは、私のこれまでの「健康活動」よりもずっと、心臓に負担がかかる試練になりそうだった。
「ですから申し上げたでしょう? 橈骨(とうこつ)神経の圧迫は禁物だと。さあ、力を抜いてください。今から私が、秘伝の『血流改善もみもみ』を施します」
朝の光が差し込む王太子の寝室で、私はアリステア殿下の腕を、プロの整体師のような目つきで揉みほぐしていた。
殿下は上半身を起こし、乱れた髪をそのままに、なんとも言えない表情で私を見つめている。
「昨夜、あんなに甘い雰囲気だったのに、翌朝に受けるのが『リハビリ』だとは予想していなかったよ」
「甘い雰囲気よりも、末端の血行不良の方が重要です。ほら、指先が少し温かくなってきましたよ。これなら今日も元気に書類仕事に励めますね!」
私が満足げに頷くと、部屋の扉がバタンと勢いよく開いた。
入ってきたのは、アリステア殿下の側近であるテオドール様だ。彼は手に大量の羊皮紙を抱え、息を切らしている。
「殿下! 大変です! 例の『ロア様の追放』の噂を聞きつけた平民たちが、城門の前に押し寄せています!」
「何だと? 暴動か?」
アリステア殿下が鋭い声で問う。
私は手を止めて、首を傾げた。
(平民の方々が? もしや、私が以前教えた『乾布摩擦』のやり方が間違っていて、皮膚炎でも起こしてしまったのかしら……!)
「いえ、暴動ではありません! 『聖女様を返せ』『ロア様をいじめる奴は私が噛み殺す』と言って、山のような野菜や果物、手編みの靴下を献上しに来ているのです!」
「……靴下?」
テオドール様は、一枚の報告書を広げて読み上げた。
「曰く、三年前の流行病の際、正体不明の令嬢が炊き出しに現れ、栄養満点のスープを振る舞い、衛生指導を徹底させたおかげで村が救われたと。その令嬢の似顔絵が、ロア様に酷似しているのです」
「……ロア、心当たりは?」
アリステア殿下の視線が私を射抜く。
私は、当時を思い出して指を立てた。
「ああ、あれはただの『ビタミン摂取推進運動』です。皆さんの顔色が悪かったので、余っていたパセリと大根の葉を煮込んだだけですよ。あんなの、捨てればゴミ、食べれば血肉です」
「さらに!」と、テオドール様が言葉を重ねる。
「下町の孤児院からは、『庭に不法投棄されていたガラクタを、一晩で最新の筋トレ遊具に改造して去っていった鉄の女』への感謝状が届いています!」
「……不法投棄は景観を損ねますし、子供たちの基礎代謝を上げるにはスクワットが一番ですから」
「さらにさらに! 王都の清掃ギルドからは、『側溝の泥詰まりを魔法で一掃し、悪臭による公害を未然に防いだ女神』への永年名誉会員証が!」
「……あれは、ボウフラが湧くと伝染病が怖いので、ついでに排水溝の掃除をしただけです」
次々と明かされる私の「悪行」ならぬ「奇行……もとい、善行」。
アリステア殿下は、顔を覆って低く笑い出した。
「ふ、ふふふ……。パセリの炊き出しに、スクワット遊具、果ては側溝掃除か。君というやつは、本当に……」
「殿下、笑っている場合ではありません。皆さん、お仕事の時間でしょうに。早く帰って踵(かかと)上げ運動でもするように伝えてください」
アリステア殿下は、笑いすぎて少し涙目になりながら、私の腰をぐいと引き寄せた。
「いや、これは絶好の機会だ。ロア、これだけ国民に愛されている君を、ただの客として置いておくのは忍びない」
殿下はテオドール様に向き直り、堂々たる声で宣言した。
「全土に布告せよ。ロア・エル・アヴィールを、わが国の『王太子妃候補』として正式に迎えると。文句がある奴は、彼女が掃除した側溝にでも顔を突っ込んでいろとな」
「畏まりました!」
(……王太子妃、候補?)
私は驚きで口を半開きにした。
「あの、殿下。私のような悪役面の女が妃候補になったら、他国の王族を顔の圧だけで威嚇してしまい、外交問題になりませんか?」
「むしろ好都合だ。君が睨むだけで、不健康な生活を送っている他国の王を震え上がらせることができる。……ロア。これは、私のわがままだ」
殿下は私の耳元で、蕩けるような甘い声で囁いた。
「もう二度と、君を『ゴミ』のように扱う連中の元へは返さない。君のその手は、これからは私の筋肉を揉むため……いや、幸せを掴むためにだけ使ってほしい」
「……最後の方、本音が漏れていませんか?」
「気のせいだよ。さあ、正式に候補になったからには、今日から特別な訓練を受けてもらう」
「訓練! やはり、滝行ですか? それともスクワット千回?」
「……愛の囁きに耐える訓練だよ。まずは一時間、私の膝の上で大人しくしていなさい」
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