婚約破棄された無能は王太子に拾われる

桜井ことり

文字の大きさ
12 / 30

12

しおりを挟む
「……殿下、執務を開始してから四十五分が経過しました。そろそろ一度起立し、腸腰筋(ちょうようきん)を伸ばすべきです」

王太子の執務室。

山積みになった書類を前にペンを走らせるアリステア殿下に対し、私は背後に立って厳格な「健康管理タイム」を告げた。

「あと少しなんだ、ロア。これが終われば君と一緒にお茶が飲める」

「ダメです。その『あと少し』が椎間板(ついかんばん)への負担を蓄積させるのです。ほら、肩が内側に入っていますよ。このままでは巻き肩からくる偏頭痛を誘発します」

私は殿下の背中に手を添え、グイと胸を張らせた。

殿下の手が止まる。

彼はペンを置くと、ゆっくりと椅子にもたれかかり、私を見上げてニヤリと笑った。

「そんなに私の体が心配かい?」

「当然です。殿下の健康は国家の資産ですから。あ、今、腰を浮かしましたね。やはり腰椎(ようつい)に違和感が?」

「ああ、少しばかりね。……だが、立ってストレッチをするよりも、もっと効率的な解消法があるんだが」

「効率的? なんです。ぶら下がり健康法ですか? それとも最新の牽引(けんいん)魔法?」

「いや。……ここに来なさい」

殿下はそう言うと、自分の膝の上をポンポンと叩いた。

私は首を傾げ、いつもの「取り立て屋のような険しい表情」でその膝を凝視した。

「殿下、冗談は体調が良い時だけにしてください。私がそこに座れば、殿下の大腿骨(だいたいこつ)に過度な負荷がかかります。私の体重を舐めないでください。骨密度を測定したことはありませんが、標準よりは重いはずです」

「いいから。これは王太子の命令……いや、患者としての切実な願いだ」

そう言われては断れない。

私は「失礼します、医療的措置として……」と呟き、恐る恐る殿下の膝の上に腰を下ろした。

(……!? この安定感、そして反発力……!)

「どうだい、ロア。座り心地は」

「……驚きました。非常に優れたクッション性です。殿下の大腿四頭筋(だいたいしとうきん)、相当鍛えていらっしゃいますね。この硬さと弾力、人間工学に基づいた高級オフィスチェアにも引けを取りません」

私は真面目に殿下の脚の筋肉を評価した。

殿下は満足そうに鼻を鳴らすと、私の腰に両腕を回し、すっぽりと抱きかかえるような形になった。

「殿下? これでは私の腰椎が殿下の胸板に密着して、可動域が制限されるのですが」

「これでいいんだ。君の体温を感じると、不思議と脳内のストレスホルモンが減少して、作業効率が上がる気がする。……ほら、次の書類を読んでくれ」

殿下は私の肩越しに手を伸ばし、再びペンを取った。

私は殿下の膝の上という「特等席」で、彼の健康状態を至近距離で監視することになった。

(殿下の体温、三六・八度……。やや高めですが、集中状態にあるなら許容範囲内。呼吸は安定。……ただ、心拍数が先ほどから一定のリズムでドクドクと伝わってきますね。これは、集中によるものかしら?)

私が殿下の胸の鼓動を背中で数えていると、不意に殿下が私の耳元で囁いた。

「……ロア、そんなに動かないでくれ。私の忍耐力が、筋肉の限界を超える前に」

「忍耐力? もしや、尿意を我慢していらっしゃるのですか!? それは膀胱炎の原因になります! 今すぐお手洗いへ!」

「……違う。君は本当に……健康以外の情報が脳に届かない仕組みになっているのか?」

殿下は深い溜息をつくと、私の首筋に顔を埋めて、深く息を吸い込んだ。

「いい香りがする。……薬草の匂いと、君自身の……なんとも言えない、安心する匂いだ」

「それは、今朝使った『ドクダミとヨモギの配合ミスト』の香りですね。殺菌効果に優れています」

「……ロア。少しだけ、黙って私に抱かれていてくれないか」

「……三分間だけですよ。それ以上は、殿下の足が痺れますから」

結局、その日以来、執務中の私の「定位置」は殿下の膝の上に決定した。

部屋に出入りするテオドール様たちが、顔を真っ赤にして「失礼しました!」と即座に扉を閉める光景が日常茶飯事となったが。

私は「皆さん、目の保養も大切ですが、瞬きを忘れるとドライアイになりますよ」と、冷静にアドバイスを送り続けるのであった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

恋は、母をやめてから始まる――正体を隠したまま、仮の婚約者になりました

あい
恋愛
両親を失ったあの日、 赤子の弟を抱いて家を出た少女がいた。 それが、アリア。 世間からは「若い母」と呼ばれながらも、 彼女は否定しなかった。 十六年間、弟を守るためだけに生きてきたから。 恋も未来も、すべて後回し。 けれど弟は成長し、ついに巣立つ。 「今度は、自分の人生を生きて」 その一言が、 止まっていた時間を動かした。 役目を終えた夜。 アリアは初めて、自分のために扉を開く。 向かった先は、婚姻仲介所。 愛を求めたわけではない。 ただ、このまま立ち止まりたくなかった。 ――けれどその名前は、 結婚を急かされていた若き当主のもとへと届く。 これは、 十六年“母”だった女性が、 もう一度“ひとりの女”として歩き出す物語。

私の容姿は中の下だと、婚約者が話していたのを小耳に挟んでしまいました

山田ランチ
恋愛
想い合う二人のすれ違いラブストーリー。 ※以前掲載しておりましたものを、加筆の為再投稿致しました。お読み下さっていた方は重複しますので、ご注意下さいませ。 コレット・ロシニョール 侯爵家令嬢。ジャンの双子の姉。 ジャン・ロシニョール 侯爵家嫡男。コレットの双子の弟。 トリスタン・デュボワ 公爵家嫡男。コレットの婚約者。 クレマン・ルゥセーブル・ジハァーウ、王太子。 シモン・グレンツェ 辺境伯家嫡男。コレットの従兄。 ルネ ロシニョール家の侍女でコレット付き。 シルヴィー・ペレス 子爵令嬢。 〈あらすじ〉  コレットは愛しの婚約者が自分の容姿について話しているのを聞いてしまう。このまま大好きな婚約者のそばにいれば疎まれてしまうと思ったコレットは、親類の領地へ向かう事に。そこで新しい商売を始めたコレットは、知らない間に国の重要人物になってしまう。そしてトリスタンにも女性の影が見え隠れして……。  ジレジレ、すれ違いラブストーリー

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

貧乏男爵家の末っ子が眠り姫になるまでとその後

空月
恋愛
貧乏男爵家の末っ子・アルティアの婚約者は、何故か公爵家嫡男で非の打ち所のない男・キースである。 魔術学院の二年生に進学して少し経った頃、「君と俺とでは釣り合わないと思わないか」と言われる。 そのときは曖昧な笑みで流したアルティアだったが、その数日後、倒れて眠ったままの状態になってしまう。 すると、キースの態度が豹変して……?

将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!

翠月 瑠々奈
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。 侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。 そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。 私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。 この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。 それでは次の結婚は望めない。 その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?

水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。 日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。 そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。 一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。 ◇小説家になろう、ベリーズカフェにも掲載中です! ◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

虚弱で大人しい姉のことが、婚約者のあの方はお好きなようで……

くわっと
恋愛
21.05.23完結 ーー 「ごめんなさい、姉が私の帰りを待っていますのでーー」 差し伸べられた手をするりとかわす。 これが、公爵家令嬢リトアの婚約者『でも』あるカストリアの決まり文句である。 決まり文句、というだけで、その言葉には嘘偽りはない。 彼の最愛の姉であるイデアは本当に彼の帰りを待っているし、婚約者の一人でもあるリトアとの甘い時間を終わらせたくないのも本当である。 だが、本当であるからこそ、余計にタチが悪い。 地位も名誉も権力も。 武力も知力も財力も。 全て、とは言わないにしろ、そのほとんどを所有しているこの男のことが。 月並みに好きな自分が、ただただみっともない。 けれど、それでも。 一緒にいられるならば。 婚約者という、その他大勢とは違う立場にいられるならば。 それだけで良かった。 少なくとも、その時は。

処理中です...