私を婚約破棄して、どうされるおつもりですか?

桜井ことり

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母に全てを打ち明けた翌日、私は王都の東地区に足を運んでいた。

貴族街の華やかさとは無縁の、古びた建物が立ち並ぶ一角。

その中でもひときわ古く、しかし人の出入りが絶えない小さな教会が、私の目的地だった。

教会の扉を開けると、子供たちのにぎやかな声と、温かいシチューの匂いが私を出迎えた。

中は、負傷した者や病を患った者、そして身寄りのない子供たちで溢れかえっている。

椅子や長机は大きさも形もバラバラで、とても教会とは思えない雑然とした様子だった。

(……まるで、孤児を扱う施設のようだ)

私の口から、思わず心の声が漏れた。

だが、それは侮蔑の言葉ではない。

この場所をたった一人で切り盛りしている、一人の女性に対する、畏敬の念から来るものだった。

施設の奥、傷だらけの腕に慣れた手つきで包帯を巻いている女性の姿が目に入る。

亜麻色の髪を無造作に束ね、質素な灰色のワンピースに身を包んだその人こそ、私が会いに来た相手だった。

「エンティ」

私の呼びかけに、彼女は顔を上げた。

柔らかな光を宿した栗色の瞳が、私を捉えて大きく見開かれる。

「エデン様……!」

彼女の周りにいた子供たちが、一斉に私の方を向いた。

好奇心と、少しばかりの警戒心が入り混じった、純粋な瞳。

エンティは手当てを終えた子供の頭を優しく撫でると、静かに立ち上がり、私の元へと歩み寄ってきた。

「どうして、こちらに……。侯爵家での御用は、もうよろしかったのですか?」

心配そうに私を見上げる彼女に、私はできるだけ穏やかな声で告げた。

「ああ、すべて終わったよ。……クーシー嬢との婚約も、正式に解消された」

「まあ……!」

エンティの表情に、安堵の色が浮かぶ。

だが、それも束の間、すぐに憂いを帯びた顔で尋ねてきた。

「それで……クーシー様は、大丈夫なのでしょうか?私が、あの方の未来を奪ってしまったのでは……」

どこまでも心優しい人だ。

自分のことよりも先に、他人の身を案じる。

私が彼女に惹かれた理由も、そこにあった。

「心配はいらない。彼女も、納得の上でのことだ。……彼女には彼女の、進むべき新しい道がある」

クーシーが自ら悪役を演じたという真相は、伏せておいた。

この優しい人に、余計な心の負担を背負わせる必要はない。

それは、クーシーと私の、二人だけの秘密だ。

「少し、外で話せないだろうか」

私の提案に、エンティはこくりと頷いた。

私たちは、教会の裏手にある小さな庭に出る。

手入れされているとは言えないが、健気に咲く野の花が、荒んだ土地に彩りを添えていた。

私は、エンティの、仕事で荒れたその小さな手を取った。

彼女はびくりと肩を震わせたが、振り払うことはしなかった。

「エンティ。改めて、君に伝えたいことがある」

私は彼女の瞳をまっすぐに見つめ、決意を告げた。

「私は、君と共に生きていきたい。そして、君がこうして慈しんでいる人々が、何も心配することなく、笑って暮らせるような領地を作りたいんだ」

私の言葉に、エンティは息を呑んだ。

「そのために、私は強くなる。父から受け継いだだけの辺境伯ではない。アールクヴィスト家を、誰にも頼らずとも立つことのできる、豊かな家にする。……どうか、その道を、私の隣で歩いてはくれないだろうか」

これは、ただの求婚の言葉ではなかった。

クーシーの覚悟に報いるための、そして、この国で虐げられている人々を守るための、領主としての私の誓いだった。

エンティの栗色の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

しかし、その口元には、凛とした笑みが浮かんでいた。

「……はい、エデン様」

彼女は、私の手を強く握り返す。

「未熟な私でお役に立てるのなら、喜んで。どこまででも、お供します」

その答えは、私が聞きたかった、何よりも力強い言葉だった。

遠くで、子供たちの笑い声が聞こえる。

この温かい場所を守りたい。

そして、私の領地を、辺境の地を、このような温かい場所にしたい。

「ありがとう、エンティ」

私は彼女の手を優しく引き、その額にそっと口づけを落とした。

「ここから、始めよう。私たちの、本当の物語を」

王都での役目は、すべて終わった。

あとは、故郷へ帰り、領主としての務めを果たすだけだ。

クーシーが与えてくれたこの未来を、私は必ず、実り豊かなものにしてみせる。

彼女がいつか、私の噂を風の便りに聞いた時、「ああ、上手くやっているのだな」と、微笑んでくれるように。
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