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15話
王宮の深淵、日の光も届かぬ地下牢は、湿った土と罪人の絶望が混ざり合った、この世の墓場であった。
かつて絹の衣を纏い、薔薇の香りに包まれていたアラスターとリリィは、いまや錆びた鉄格子の向こう側で、一欠片のパンを巡る野良犬のように対峙している。
「……リリィ、貴様。よくも、よくも父上の前で私を売ったな。あの執念深い毒婦め」
アラスターの声は、喉にこびりついた泥を吐き出すような、低く、濁った響きを持っていた。
彼の顔は汚れ、自尊心の欠片もない無精髭が、かつての王太子の威厳を無残に塗り潰している。
「毒婦? それは聞き捨てなりませんわ、アラスター様。わたくしをこのような冷たい場所に引き摺り込んだのは、あなたの無能でしょう?」
隣の房から響くリリィの声には、かつての愛らしさは微塵もない。
「真実の愛、ですって? 笑わせないで。わたくしが愛していたのは、あなたの背後にあった王座であって、あなたという抜け殻ではありませんわ」
彼女は、泥の付いた指先で自身の乱れた髪を掻き上げ、狂気を含んだ笑いを漏らした。
人間の本性というものは、極限の寒さと飢えの中でこそ、その醜悪な真実を露呈させる。
「……あの日、スカーレットを捨てなければ、私は今頃暖かい暖炉の前でワインを飲んでいたのだ。貴様という泥沼に足を取られたのが、私の人生最大の汚点だった」
「あら、後悔しても遅いですわよ。スカーレット様は今、この国を文字通り『買おう』としておいでなのですから」
リリィの言葉通り、王都の地上では、歴史が音を立てて塗り替えられようとしていた。
灰色の空を切り裂くように、漆黒の馬車が王宮の正門を潜る。
それはヴァレンティーヌ公爵家の紋章ではなく、北方の魔導鉱石を象徴する、紫の光を放つ蛇の紋章を掲げていた。
「……お嬢様。王宮の門が、まるで敗北を認めるように大きく開かれております」
セバスチャンの声には、抑制された愉悦が籠もっていた。
「当然ですわ。彼らは今、誇りよりも暖かさを、権威よりも明日の一食を求めているのですもの」
スカーレットは馬車から降り立ち、凍てつく王都の石畳を踏み締めた。
彼女が身に纏うのは、北方の魔導糸で織られた、冷気を全てエネルギーに変換する漆黒のドレス。
その姿は、かつての「悪役令嬢」のそれではなく、この冬の時代を統治する「氷の女王」そのものであった。
王宮の広間では、国王を筆頭に、震える貴族たちが一列に並んで彼女を迎えた。
かつて彼女に石を投げ、嘲笑った者たちが、今や彼女の足元に跪き、慈悲を乞うような眼差しを送っている。
「……スカーレット・ヴァレンティーヌ。よく……よく戻ってくれた。……我が国の窮状は、既知の通りだ」
国王の声は、枯れ葉が風に舞うような、脆い響きを持っていた。
「まあ、陛下。わたくしはただ、隣国の商会連合の代表として、滞った『利息』の回収に参っただけでございますわ」
スカーレットは、玉座の前で深々と、だが傲慢なまでの優雅さでカーテシーをして見せた。
「利息……だと?」
「ええ。アラスター殿下が我が領地を不当に侵そうとした際、周辺諸国に多大なる不安を与えました。その補償として、王室の直轄地の半分、並びに鉱山管理権のすべてを、わたくしの商会に譲渡していただきます」
貴族たちの間に、凍りつくような沈黙が走った。それは実質的な、国家の売却宣言に等しい。
「……貴様、正気か。それでは、王家はただの飾りになってしまうではないか」
一人の侯爵が震える声で異を唱えた。
「あら、飾りにすらなれないゴミよりは、幾分マシだと思いませんこと? ……嫌なら、どうぞお捨てになって。わたくしからのこの、最後の救いの一手さえも」
スカーレットは扇を広げ、その瞳に宿る冷徹な炎で広間を一掃した。
「そうなれば、明日から王都の火はすべて消え、皆様は歴史の闇に凍えて消えることになるでしょう」
誰も、何も言えなかった。
人間のプライドというものは、命の火が消えかける瞬間には、これほどまでに無価値で、軽いものになる。
スカーレットは、エリオットが差し出した契約書を、国王の前の机に無造作に置いた。
「どうぞ。サインを。……わたくし、冷めたスープを啜るのは趣味ではありませんの」
国王の震える手が、ペンを握る。
その瞬間、この国の「真の主」が誰であるかが、明白に定義された。
スカーレットは、窓の外で降り止まぬ雪を見つめながら、地下牢の方角へ冷ややかな視線を向けた。
「アラスター、リリィ。……あなたたちが捨てたのは、わたくしという女ではありません。……自らの未来という名の、唯一の希望だったのですわ」
彼女の唇から溢れたのは、勝利の咆哮ではなく、静かな、そして残酷なまでに澄んだ吐息であった。
人間のエゴイズムが作り上げたこの地獄に、スカーレットは自らの意志で、新たな秩序という名の氷を敷き詰めたのである。
氷の女王の凱旋。
それは、愚かな男たちの時代の終焉であり、一人の女性がすべてを支配する、新しい冬の始まりであった。
かつて絹の衣を纏い、薔薇の香りに包まれていたアラスターとリリィは、いまや錆びた鉄格子の向こう側で、一欠片のパンを巡る野良犬のように対峙している。
「……リリィ、貴様。よくも、よくも父上の前で私を売ったな。あの執念深い毒婦め」
アラスターの声は、喉にこびりついた泥を吐き出すような、低く、濁った響きを持っていた。
彼の顔は汚れ、自尊心の欠片もない無精髭が、かつての王太子の威厳を無残に塗り潰している。
「毒婦? それは聞き捨てなりませんわ、アラスター様。わたくしをこのような冷たい場所に引き摺り込んだのは、あなたの無能でしょう?」
隣の房から響くリリィの声には、かつての愛らしさは微塵もない。
「真実の愛、ですって? 笑わせないで。わたくしが愛していたのは、あなたの背後にあった王座であって、あなたという抜け殻ではありませんわ」
彼女は、泥の付いた指先で自身の乱れた髪を掻き上げ、狂気を含んだ笑いを漏らした。
人間の本性というものは、極限の寒さと飢えの中でこそ、その醜悪な真実を露呈させる。
「……あの日、スカーレットを捨てなければ、私は今頃暖かい暖炉の前でワインを飲んでいたのだ。貴様という泥沼に足を取られたのが、私の人生最大の汚点だった」
「あら、後悔しても遅いですわよ。スカーレット様は今、この国を文字通り『買おう』としておいでなのですから」
リリィの言葉通り、王都の地上では、歴史が音を立てて塗り替えられようとしていた。
灰色の空を切り裂くように、漆黒の馬車が王宮の正門を潜る。
それはヴァレンティーヌ公爵家の紋章ではなく、北方の魔導鉱石を象徴する、紫の光を放つ蛇の紋章を掲げていた。
「……お嬢様。王宮の門が、まるで敗北を認めるように大きく開かれております」
セバスチャンの声には、抑制された愉悦が籠もっていた。
「当然ですわ。彼らは今、誇りよりも暖かさを、権威よりも明日の一食を求めているのですもの」
スカーレットは馬車から降り立ち、凍てつく王都の石畳を踏み締めた。
彼女が身に纏うのは、北方の魔導糸で織られた、冷気を全てエネルギーに変換する漆黒のドレス。
その姿は、かつての「悪役令嬢」のそれではなく、この冬の時代を統治する「氷の女王」そのものであった。
王宮の広間では、国王を筆頭に、震える貴族たちが一列に並んで彼女を迎えた。
かつて彼女に石を投げ、嘲笑った者たちが、今や彼女の足元に跪き、慈悲を乞うような眼差しを送っている。
「……スカーレット・ヴァレンティーヌ。よく……よく戻ってくれた。……我が国の窮状は、既知の通りだ」
国王の声は、枯れ葉が風に舞うような、脆い響きを持っていた。
「まあ、陛下。わたくしはただ、隣国の商会連合の代表として、滞った『利息』の回収に参っただけでございますわ」
スカーレットは、玉座の前で深々と、だが傲慢なまでの優雅さでカーテシーをして見せた。
「利息……だと?」
「ええ。アラスター殿下が我が領地を不当に侵そうとした際、周辺諸国に多大なる不安を与えました。その補償として、王室の直轄地の半分、並びに鉱山管理権のすべてを、わたくしの商会に譲渡していただきます」
貴族たちの間に、凍りつくような沈黙が走った。それは実質的な、国家の売却宣言に等しい。
「……貴様、正気か。それでは、王家はただの飾りになってしまうではないか」
一人の侯爵が震える声で異を唱えた。
「あら、飾りにすらなれないゴミよりは、幾分マシだと思いませんこと? ……嫌なら、どうぞお捨てになって。わたくしからのこの、最後の救いの一手さえも」
スカーレットは扇を広げ、その瞳に宿る冷徹な炎で広間を一掃した。
「そうなれば、明日から王都の火はすべて消え、皆様は歴史の闇に凍えて消えることになるでしょう」
誰も、何も言えなかった。
人間のプライドというものは、命の火が消えかける瞬間には、これほどまでに無価値で、軽いものになる。
スカーレットは、エリオットが差し出した契約書を、国王の前の机に無造作に置いた。
「どうぞ。サインを。……わたくし、冷めたスープを啜るのは趣味ではありませんの」
国王の震える手が、ペンを握る。
その瞬間、この国の「真の主」が誰であるかが、明白に定義された。
スカーレットは、窓の外で降り止まぬ雪を見つめながら、地下牢の方角へ冷ややかな視線を向けた。
「アラスター、リリィ。……あなたたちが捨てたのは、わたくしという女ではありません。……自らの未来という名の、唯一の希望だったのですわ」
彼女の唇から溢れたのは、勝利の咆哮ではなく、静かな、そして残酷なまでに澄んだ吐息であった。
人間のエゴイズムが作り上げたこの地獄に、スカーレットは自らの意志で、新たな秩序という名の氷を敷き詰めたのである。
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