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歩き出すために ~高階透は語り出す

誘惑とは言わない

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 それでも触れなかったのは、ショーティの中にアーネストがいたから。
 その姿勢も好きだと思えたから、だから友人でもいいと思った。それ以上望むこともなかった。
しかし。

 顔を上げた透が見たものは、笑みの消えてしまったショーティであった。驚いたような表情を訴える茶系の瞳が真っ直ぐに注がれ、瞬時、息を飲む。
 自分が何を言ってしまったのか。
 自覚した瞬間、赤くなるより先に青くなっていた。いくら酔っていると思われても相手はショーティ・アナザーである。
 一を聞いて十を知る彼にそのような言葉をぶつければ、透の思いなど簡単に把握してしまうだろう。

「いや、だからと言って、」

 フォローのつもりもなく、何を言いたいのかさえわからずに、透は口を開いた。
 支離滅裂に飛び出す言葉は、ショーティがいつもと違うからいけないんだ、とさえ思い始め、年下に振り回されてどうするとも思う。

「へ、変な意味は…」

 ないはずもないだろう。
 動揺している透は、間近まで歩いて来たショーティにようやく気づき、

「ごめ…」

 素直に謝罪を口にしようとした。が。

「!」

 言葉を遮ったのは、ふわりと口元を覆う柔らかな感触であった。
 —————キス。
 目の前に近づき、頬に触れた栗色の髪は、瞬時離れていく。

「sorry」

 そして小さくつぶやくように告げるショーティは、そのまま歩き出した。

「ショーティ!」
「ごめん。今日は送っていかない。ここで」

 呼びかけに振り返ることもなく、歩を進める。
 瞬間、ダメだ、と透の中で何かが訴えた。
 捕まえないと、二度と会えないような。そんな危険な予感。

「ショーティ!待って!」

 慌てて駆け寄り、腕を掴もうとするが身を引かれ、思わず空を掴んだ透は軽く横を向くその視線を捉える。

「抱いてくれるなら、触れてもいいよ。そうじゃなければ、触れないで。中途半端な人肌は欲しくないんだ」

 淡々とした言葉が透の心に突き刺さる。視線は軽く反らされ、人並みに紛れるように歩き出す。けれど—————。

「そう言えば僕が引くとでも思っているのかい?ショーティ!」

 突き放すように告げるショーティの言葉は、彼の本心を隠している。
 透は真っ先にそう思った。

 とりこぼされたくない願い事。初詣のために来た日本。5件ものハシゴ酒。真冬の中の考え事。それもこれも彼らしくない行動に、透自身をはねつけるような言葉に、透はその本心を漠然と感じ取った。そんな気がしていた。

 ショーティが本当に欲しがっているだろうもの……

「文章はあんなに素直なのに…」

 彼の心の奥にある物を探るように告げ、駆け寄った透はそのままショーティの肩越しに両腕を回し、抱き寄せる。

「透!」

 驚いたように叫ぶショーティの抗議よりも先に、栗色の髪にキスを落とす。
 誰の物とも知らない煙草の匂い。そしてアルコール臭。
 ホテルを押さえたと言われて逃げてきた、との言葉が脳裏に蘇る。その相手がアーネストではないことが腹立たしく思われ、透はつい意地の悪い思いに駆られた。

「口は達者なくせに本音を語ろうとしなくて、本当は優しい腕が欲しいのに、いざ差し出されると撥ね付ける?何も言わないで慰めて貰おうなんて虫が良すぎない?」

 これがアーネスト・レドモンならば…?と考えて打ち消す。
 自分はアーネストではないのだから、彼にはなり得ないのだから…。
 そして、今、ショーティがいるのは自分の腕の中だ。少なくとも、今だけは………。

「透!」

 離れようとするショーティを強く抱きしめた。
 名を呼ぶ声がせつなく感じられ、しかしそれ以上にショーティの心を思うとつらい。
 本当に甘え下手。

「一人っ子のくせに……」

 思わず皮肉を交えて言ってしまう。それとも……。

「君の方こそ僕を嫌ってるんじゃないの」
「!…透!……離れないと…皆が見てるよ」

 じろじろと不躾に見ていく視線に、言われて気がついた透は途端我に返り、腕を離した。ショーティの言葉に半分きれたとはいえ、公衆の面前でとった自分の言動に思わず赤面してしまう。けれど歩き出すその姿を認め、腕が自然とコートの袖口を掴んでいた。放っておけるはずがない。

「送ってくよ!」
「……いい」

 振り切る事もなく答え、そのまま立ち止まっているのは自主的に離すことを待っているからか、何か思いを巡らせているからか、透は無理やり自分の方を向かせようとショーティの腕を引いた。

 ふわりと栗色の髪が揺れるが、瞳が透を捉えることはない。

「ショーティ…」

 呼びかけても、その口から零れるのは白い息だけ。

「あのね、ショーティ。つらかったり落ち込んだり泣きたかったり、その思いを表に出すのは悪いことじゃないよ?つらいのに自分をいじめてどうするの?追い込むまで追い込んでそれで答えを出すのがショーティのやり方だってわかっているつもりだけど、それでもたまには自分を解放しなくちゃいけないと思う」

 ふわりとその栗色の髪をかきあげて瞳を覗きこむと、視線がするりと透を避ける。
 愛しさが、まるで父性愛のようなそれがこみ上げてくる透は、軽いため息をつくと、

「送っていくよ」

 有無を言わさぬ響きで告げていた。
 まるで手の掛かる弟だ、と苦笑さえ出てくるが…。

「いい…って」

 ショーティも負けずに言い放つ。

「ショーティ!」

 この頑固者!と叫ぶより先に、その口から飛び出した言葉は意外なもので…。

「まだ、ホテルを取ってないから!」

 瞬間、透は鳩が豆鉄砲を食らうと言うような表情をしていた。先程からの流れで、てっきりどこかに宿を取ったと思っていたのだ。

「……取ってないって…もう、23時回って…」
「なんとかなるよ」

 やや茫然としている透の腕からするりと抜け出したショーティは、アイスバーンをやや急ぎ足で歩き出す。すぐに我に返った透は慌ててその後を追い、

「なんとか……って。うちに泊まればいいじゃないか」と、当たり前のように促した。

 何の問題もない。しかし………。

「いやだ」

 振り返るショーティは一言、きっぱりと言い切った。拗ねているような、怒っているような表情で怪訝な様の透を置いてさっさと歩き出す。

「いやだって、何が」

 気に入らないと言うのか。
 いや、確かに触れてみたいなどと言ってしまったが、それよりも今はそばに居てあげたいと思っている。ショーティもそれを望んでいると思っているのに、違うのだろうか。それともやはり、あの夏の…ように—————?
 いや、と自分の考えをきっぱりと打ち消し、まさか…と一番あり得ない思いを抱く。

「今更!どの面下げて透の部屋に上がれると思う?どれだけ甘えて、迷惑かけて…」

 振り返り様、ショーティが言い放っていた。
 自覚していたのかと思う透は反面、初めて聞くだろうその本音に軽い笑みを零す。

「透!?」
「好きな子に…甘えて貰って嬉しくない人はいないよ。反対に避けられるとつらい。ね、ショーティ。家においで」

 言葉に赤面したショーティも初めて見るもので、透はやはり指だけでカメラを探る。しかし、すぐにくるりと背を向けるショーティは、

「バカ!透はほんとにお人よしもいいとこだよ!」と叫んでいた。

 透よりも小柄な背が余計小さく感じられ、照れているのだろうと思と妙な親近感に嬉しささえ感じる。その肩をトントンと叩き、

「ショーティにだけだよ」

 にっこりと笑みをこぼすと、振り返ったショーティは大きな瞳を更に見開き、呆れすぎて物も言えないというような表情を見せたが不意に思い立ち、透の腕に自分のそれを絡めるようにし腕を組んだ。

「シ!ショーティ!」

 優勢が突然劣勢になり、真っ赤になる透であったが、

「……甘えて、いいんでしょ?じゃあ、腕組んでて。逃げないで」

 ちらりと見上げるショーティに引っ張られるようにして歩き出す。
周囲の視線が小さく追ってくるが、彼の容姿のお陰でさほど不躾なものはなく、透は諦めのため息をついた。そして思い出したように、

「ショーティ、やっぱり彼と何かあった?」と尋ねた。

 らしくないショーティ。
 甘えてくれるのは勿論嬉しい。だが、このままにはしておけない。

「何もないよ」
「ショーティ……聞くくらいなら僕にもできるよ。経験不足は補えないけど。それでも」
「お人よし、って僕言わなかった?」
「言った…言ったけど」
「まぁね、それが透のいいとこでもあるよ。ほんと、うん。何もないよ。……ただ、大切な友人だって言われただけ」

 透の粘り勝ちと言うのだろうか。
 自身に軽く頷くショーティは真っ直ぐ前方を見据えたまま口を開いた。その言葉を聞いた透は、ああ、と小さく思う。
 世界でも五指に入るアメリカのトップ企業の代表取締役アーネスト・レドモン。
彼を好きだと言ったショーティ。

 大切な友人、皆が羨ましがるだろう場所さえも、彼の望む位置ではないのだ。

 図らずも先程自身が告げた言葉が蘇る。

“振られた?”

「ごめん」

 新年早々傷口に塩を塗り込むような真似をしてしまった事に、思わず謝罪が口をついて出るが、

「—————振られたわけじゃないよ」

 ちらりと茶色の瞳が透を捕らえた。まるで心を読まれたようで、透は身を竦める。

「振られたわけじゃないんだ。ただ……」

 珍しく言い淀むショーティは透の腕を引っ張るように歩を進める。
 しばらく黙々と歩いていた二人であったが……。

「あああ!もう!アルコールが切れた!お酒飲みたい!透、付き合ってくれるよね?」

 上目遣いに見上げてくるその視線に、誰が逆らえるというのだろうか。
 透は、真っ赤になったまま、幾度も首を縦に振るのだった。

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