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第28話 赫々
しおりを挟むイーゼルには布がかけてあった。
指は少しずつそれを剥がしていた。
布が羽の様にふわりと浮いて、三日月のように形を変えながら埃を舞い上げていく。
昼間の月がはたりと音を立てて地平に落ちた。
あたしは一つため息をつくと、最低限の身支度を用意して無言で部屋を飛び出した。
「あれ、コンタクトないや……」
外は青天井の夏空だった。
明るすぎて眼の前が白んで揺れている。自分の周りに半円を描くようにだけ視界が許されている。懐かしい光景だった。外に出る時は遮光コンタクトを付けて、視界を確保するようにしていたから。
ここから少し揺れて見える山に向かって歩こう。交差点の辺りを通るから、雨も降ってて視界はまだいい方かな。
体中に不快な感じはあったけれど、それはいずれも少し前まで断続的に起こっていた症状よりも軽い。
「……えへへ」
体調が良いわけではないけれど、あたしは随分嬉しくなっていた。今なら死んでもいいや。
ずっと秘密にして言えなかったこと、なんだか言えちゃったし。おじさんは『絶対助ける』って言ってくれたし……。
「――よかった。あたしが急に居なくなっても、おじさんやしーちゃんはもう理由を知ってる」
仰ぐ空は何も見えないほど明るくて高い。けれどそこには昼月があり、雲の先には宇宙があり星がある。
小さな頃、明るくて大きな空の下に立つのは怖かった。この先に何があるかなんてあたしにはちらりとさえ見ることができない。なのにこの靄は生き物のようについてずっとついて回ってイタズラをしてくるのだ。そこには何か大きな怖いものがいるような気がして、それが空を覆う白い光の靄全体のような気もして。
同級生に『おい、後ろにデカい虫いんぞ。お前追いかけられてやんの』なんて言われて怖くて泣いちゃった時もある。けれど、泣きそうな時は決まって先回りしてしーちゃんが待っていて、お手々を繋いでお家まで連れて帰ってくれてた。思えば、あの頃からしーちゃんは気難しそうな顔してたなあ。お家にはお父さんもママもいないから、そのまま一緒にしーちゃんのお家で毎日一緒にいて、夕方になったらおじさんがお家に迎えに来てくれてたんだっけ。
夜になるとおじさんが近くの公園でお空について教えてくれて――『悠里、人間はわからないものが怖いんだ。恐怖は常に自分の操作できない場所から訪れる。でも、怖いものをよく知ればその怖さがわかるようになる。すると、怖くなくなってくる。空はね、怖い場所じゃなくてすごく夢の詰まった自然の芸術なんだよ。ほら、適当な星を指さしてごらん。星の名前を教えてあげよう。ああ、アレはスピカ。太陽の何万倍も熱い星でね。乙女座の星だ』――それが終わるとお家でママがごはんを作って待ってて。お仕事が忙しくない時はおじさんも一緒に食べてくれてたし。寝る時はよくわかんない本で寝かしつけてくれて……遮光コンタクトもおじさんが買ってきてくれたんだっけ。そういえばあれから光の靄が消えてお外が怖くなくなったんだ。
「あたし……ほんとに貰ってばっかりだ」
早くお返ししたいな。おじさんにいっぱい、いっぱいお返ししたいな。幸せすぎて死んじゃうくらい――それくらいあげないとダメだよね。
でもどうすればいいんだろう。何をすればお返しになるんだろう。ここでいつも詰まってしまって、考えている内に眠くなるんだ。せめて今日くらいはちゃんと答えを出そう。
「よし。悠里ちゃん完璧です。できる子できる子」
大きな望遠鏡? でもおじさんは既にいっぱい持っているし、ごはんはもどるさんがとっても上手で全然適わないし。お菓子は……いっつもお土産買っていってるし特別感が……。
う~んう~ん。悠里ちゃんバカだから全然思いつかないや。世に生きるシャレオツな女子はどうやっておじさんを喜ばせているのだろう。手編みのマフラー……夏だぜ? いや冬に間に合わせる。でも編み物とか全然上手じゃないしなんか古くさい……。
そもそもおじさんくらいの歳の男の人って何が好きなんだろう。でもおじさんもなんていうか趣味一徹な人だし、そこら辺の人とはやっぱりちょっと違う気がするな。
どうやって同世代の女の子は、とっても大好きなおじさんを喜ばせているんだろう……。おじさんに何かあげたいなーって思った時、何をあげることにしているのだろう……。
悠里ちゃんは頭が悪くて全然何も思いつきません……。
「おやや」
頭上にぽたたと水滴が滴っていた。
どうやらもう交差点が近いようだ。暗い雲がかかっているおかげで視界が随分広い。
「えいっ」
傘を広げて、雨の中を進む。
その時、微かに視界の違和感があった。殆ど直感に近いような。
何かが来ている。あたしの中で何かが起こっている気がする。
瞬間、足下に絵の具が流れ込んだようにコンクリートの煮詰まった灰色と黒点の粒が現れた。その表面には透明な輝く水が塗り込められ、草木は瑞々しい滴のペンキに若草色に生まれ変わっていく。
空は複雑に白と黒が点描されて、雷鳴の走る稲妻の白色が激しいタッチで描画されていく。
「……これは」
視界はやがて一枚の絵画になり、視界のカンバスに納められ急激な完成を見せた。
瞬いた瞼の裏に血液の色が見える。見える。
見える見える見える! なんで!?
「うわーーーっ!?」
あたしはびっくり仰天してすっ飛んでいた。
もう何年も見たことがないくらいのフルカラー立体視界だ。しかも匂いまでついて感覚までバッチリ。温度も湿度も匂いもします。
ええ本当です嘘ではありません神に誓っていいでしょうウワーーーッ!
「ほんとに? なんでェ!? キエーーーッ! ってうるせえあたし。少し落ち着け
ばかものがよ。は? キレそうなんだテメー、一人で喋るな」
★※$/*+%&★~!!”#|――!
「は、はあ」
一通り騒ぎ終わると、あたしはここが礼香ちゃんの家の近くであることに気がついた。
雨はより勢いを増して、相対的にあたしの世界は広がった。
小さな赤い屋根の玄関に、車庫のついた広めのお家。
玄関の先には少し長い廊下があって、リビングを抜けるとキッチンが。裏に小さなお庭があって、その中には季節の織りなす一年草の花々――。
「あれ」
なんであたしこんなに仔細に思い出せるんだろう。
そんなにこの家の中は見回っていないはずなんだけれどな。
……家の電気はついてない。恐らく誰もいないのだろう。
雨の中を通り過ぎて、雨のヴェールが空から剥ぎ取られていく。
徐々に光が強くなって、あたしの世界は狭まっていく。
足下に小さな虹がかかっていた。今日は不思議な日だ。綺麗で不思議な、とってもいい日だ。
交差点を抜けて、傘を閉じる。光に反応してか切れかけの電球のように色彩がちらついて、再びぼんやりと世界が着彩されていく。
狐につままれたような顔をしながらぼんやりと歩いている中、一つ思い立った。
「……そうだ、ここってヴィシャップの近くか」
バー、『ヴィシャップ』はあたしがキャンバスを売っているバーの一つだ。
昼間からやっているほぼ二四時間営業の変わったバーなのだが、むしろキャンバスはそういう場所の方が売れる……気がする。マスターには気に入って貰ってるからワークショップも時折開いたりキャンパスを置いて貰ったりしているのだ。
特段寄る意味も無さそうだったが、少し顔を出してみたい気分でもあった。
一つ脇道に折れて、バーの分厚い木製の扉を叩く。
「……マスター、やってる?」
返事はなし。けれど鍵はかかっていない。営業はしているということだろう。
重くて軋む扉を開けると、ドアベルが一つ小気味良い音を奏でた。マスターはピクリ、と背を震わせたけれど一瞥もしなかった。
外の陽光を完全に遮断した陰湿な空間が一面を支配している。シックだとか大人とか色々言い方はあるけれど、この湿気っぽくて暗い空間を表す言葉をあたしは陰湿しか知らなかった。
「ちょっと奥借りるね」
返事はなかったが、そもそもここのマスターは返事をしない。無視してもいい。何かまずければ外につまみ出されるからわかる。
重苦しいカーテンで仕切られた一見ただの壁に見える小部屋に入っていくと、そこにはあたしの画材が雑多に積み込まれていた。
あちゃーなんて首を掻いてみるけれどそうです、これはあたしがやりました。ごめんなさいね本当に。
描きかけのキャンパスも放りっぱなしだ。しかもこれ、ちょっと前のヤツ。
堀っくり返してみるけれど、その度にあたしの指は震えていた。
理由はもうわかっている。
わかっているけれど、それは余りにも直視したくない事実だった。
「どうして。どうして」
この絵は、楽しげに笑っている人々の絵のはずだ。暖炉を囲んで――。
この絵は、マツリカとカラスウリの花。夜に咲く花をできるだけ淑やかに描いたはずだ。
この絵は、この絵は、この絵は。
どれも、違う。
描きたかったように描けていない。どれも色彩が壊れている――。
花は枯れた後に腐っていた。土留め色の絵の具を塗りたくったように。
人々は青ざめていた。手には赤よりも深く褥瘡の鬱血した色の液体を飲み込んでいた。
どれも、どれも。どれもが怖かった。あたしの描いたものを見て、あたしは胸の内に湧き上がる恐怖のような怒りのような、ただつっかえて溶かせない感情を抱えて蹲ってしまうことしかできなかった。
アンフォルメルや前衛芸術を劣悪にしたような洗練されてない絵。抽象にも現実にも沿わない半端物。線も所々震えたように無意味にうねっている。
「うぅ――う」
部屋のキャンパスを見た時、わかっていたことなのに。
わかっていたはずなのに。
頬に涙が伝った。自分の積み上げてきた時間が全部意味のないことだった。絵が自分にそう語りかけて聞こえた。悠里はここまで生きてきた殆どの時間をこの筆に賭けていたのに。辿り着いたのは『これ』だったのだと。
絵はあたしそのものだった。なのに、なのに――。
「あぅう……くそ、くそお。くそお。負けねぇ……悲しい時こそ――ぐすっ」
椅子を立てて、キャンパスを構える。
決めた。あたし、決めました。この少しの時間だけ持たせてください。神様。ほんの少しだけあたしから色を奪わないでください。
せっかく今、この目で描けるんだ。この時間は、全て捧げます。ここまで来させてくれた神様に捧げます。
だから、描かせてください。この絵をあげたい人がいるんです。きっと最高に喜んでくれる人が、いるんです。
だから、お願いします。
袖で涙を拭き潰すと、決心は既に固まっていた。
「あたしは絵が好きです。でももう二度と描けなくなってもいい。今この間だけでも、あたしを作ってくれた大事な人の為だけを思って描く絵、それだけの間だけ、見逃してください――」
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