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第27話 発現

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 そのまま暫く走り続け、久那次湖の湖畔に辿り着いた。
 
  水面の上には大きな月明かりが白々と立っていて、湖には月世界に続くさざ波の道が通っていた。
 俺はふと世界の上部から俺たちの姿を俯瞰していた。余りにも矮小な人間が遠大な空に続く月明かりの前で標榜している。
 道は揺れて、時折消えては再び現れそこにあり続けていた。そしてその静かな水鏡には、無限の星群がその姿を余すところなく落としていた。

「……着いた」
「着いちゃいましたね、案外呆気ない」
「呆気ない?」
「はい、外の世界はなんだか一悶着ありそうな雰囲気だったので、ここまで簡単に着いてしまったな、なんて。不謹慎だったかな」
「いや……うん、そうだな」

 礼香は俺が廃教会に行ったことは知らないんだったな。

「そこのロッジの向こう側の道を歩いて行くと砂浜に出るから、そっちに行こうか」

 そういえば、参考までに時間を確認しておこう。アナログ時計はあべこべな時間を示していたが、……――電波時計ならどうだろう。
『0E淄縊sズ』
 文字化けか、予想の範囲内ではあるところだが。
 まあ使えないなら使えないでやりようはいくらでもある。
 持ってきていたコンパスを開いて、南の方角を向く。なくても空を見れば一目なのだがここは石橋を叩こう。
 方角を確認し、空を見上げる。夏の終わりの南の空は特徴がいくつかある。南西側にあがる切れ端の夏の大三角。アルタイルが名残惜しげにぶら下がり、その下に土星と木星が双子のように並んでいる。
 そしてそれに沿うように南斗六星があり、そこからずっと平行に東の空に視線を移していくと、水瓶座の辺りに月の影が見える。

「……そろそろだな」
「……? なにがです」
「空が12時近くを示してる。大体の星の並びで時間が計れるんだ。おおよそ星は一時間で15度動くんだけど、南の空だと星は右へ動いていく。低かった星は高くなって、そして頂点を迎えると今度は低くなっていく。それを知ってるから、星見をするとおおよその時間がわかるんだ。船乗りがやる方法だよ。今日は最初の形がズレてる可能性があったから、夜になった辺りで一度星を見てきてる。自転がズレてる影響がどこまで出てるかわからないが、大きくは間違ってはないはずだぜ」
「ほえ、なんだか小学生の時に授業でやったようなやってないような……」
「やるかもしれないな、実際に使うかは置いといて」
「……しづるさんは普段から使うんですか?」
「いや、使わない。少し話は飛ぶんだけど、俺のおじさんはさ、昔は結構世界中を飛び回ってる人だったんだ。その頃の話を良くしてくれてさ。その中の一つに海で流されて洞窟に閉じ込められた話があるんだけど」

礼香は顔を見上げると、しずるの目尻は弓を引くように遠くを見ていた。懐かしそうに口から言葉が続き、それを黙って聞いていた。

「数時間に一回ほぼきっかりで特定の薬剤を摂取しないと命に関わる病気の子が出てくるんだ。血中濃度が一定じゃないと、発作を起こして呼吸困難になって命を落とす危険があった。おじさんは時計を付けてたんだけど、海に流された拍子で壊れてしまうんだよ。なんとか薬は無事だったんだけど、時間がわからなくなってしまった。その子はパニックになるんだけど、おじさんは冷静に洞窟の中で星の見える穴を探すんだ。そしてその星の並びから時間を割り出して定期的に薬を飲ませ続けた。寝ずに星を見続けてようやく朝が来て、朝の日差しが見え始めて、急いで洞窟を出るために探索している時に助けが来た。……残った薬剤はたったの二個だったらしい。都合、あと6時間でその子は死んでたことになる――話し終わった後に時計は防弾防塵防水の時計に変えたって笑いながら言ってたよ」
「す、すごい、本当にそんな映画みたいなことあるんですね」
「本人は冒険譚として俺に聞かせてくれたんだと思うんだけどさ、憧れたな。同じ状況に追い込まれた時、一体何人がその子を救えるだろうってね。最初は1分間の脈拍数を180でかけて3時間辺りの脈拍数を数えて割り出そうとしたらしいんだけど、体が濡れて緊張もしてたしで碌に安定しないだろうって思って星の見える場所に切り替えたらしい。恐ろしい回転の速さと実行力だよ……。それに憧れたんだ。だから俺もそういうことができるようになろうと思ってさ……。そういう自分の中で知ってる特別じゃない情報をできるだけ応用して実用に変えることのできる機知に富んだ人――そうなろうとして使えるようにしたってとこかな。まあ目立ってできるのは本当にこれくらいだよ。遠く及ばない」
「そんなことないと思いますよしづるさん。言い表せないですけど、しづるさんはねぇ、なんだかいい感じ、です。シンプルにまとまってます」

 礼香は俺の横に立って小さく柔らかな手で俺の手を握った。少し甘い香りが鼻孔をついた。

「……嬉しいよ。そう言って貰えると」
「むー! もう卑屈なんですから! しづるさんじゃないとダメなんです」

 礼香は素っ気ない態度に頬を膨らませながら身を寄せた。俺はそれが嬉しかった。
 この年になったら近親以外でこんな風に自虐癖を怒ってくれる人なんて殆ど居ない。

「……さてと、時間も時間だ」
「……自信、持ってくださいね。私、しづるさんに助けて貰ったんですから。しづるさんが助けてくれたんですよ、だからしづるさんがいいんです」
「……善処するよ」
「聞きましたからね。季布に二諾なし、ですよ」

 季布に二諾なし――季布とは秦から前漢にかけて活躍した義に篤いと後世にまで語り継がれた武将である。その篤実な人柄は『黄金百斤を得るは季布の一諾を得るに如かず』とまで例えられる。

「えらくマイナーな故事を引き合いに出してきたな」
「これでも古典と外国史は得意なんです。ふふん」
「意外だな、礼香はそういうの興味ないかと思ってた」
「意外ですか。でも受け手と取り手の兼ね合いもありますし、季布の一諾にするかちょっと悩んだくらいなんですよ」
「それって何か違うのか……? よくわかんないけど礼香は詳しいんだな」
「ふふん、ふふふん、ふふふふん。おねえちゃんですから。得意教科の成績は全部最高なんですよ」

 鼻高々な礼香は松葉杖をつきながらくるくると風に舞う花のように器用に回りながら進んでいく。
 おいおい足下気をつけろって、なんてごちながら俺たちは湖畔に足を進めていく。
 暗い中だが、礼香は特段怖がることはない。悠里も暗いところは得意だが、ひょっとすると通じるものがあるのだろうか。
 それとも修学旅行の子供のように暗闇に興奮しているだけだろうか。

「わあ」

 湖畔の砂浜は当然だが人影はなかった。
 そこにあったのは星を射影する大自然の大鏡であった。
 緩やかな波の表面を撫でるように星明かりがさざめいている。
 山間に位置する為か、気流も穏やかで名画の一瞬を切り取ったような精悍さが辺りに立ち込めていた。

「……これは来て良かったな」
「そうですね――」

 礼香は回るのを止めてぼんやりと湖を見つめている。
 水面の星明かりが礼香の宝石の瞳に映り込んで、凍った花びらが砕けたように冴えた色彩を作り出している。
 俺もせっかく清々しく感じられる場所までやってこられたのだ。さっきの嫌な汗を拭うためにも足くらいは浸かってみてもいいかもしれない。
 サンダルを脱ぎ捨てて、水際に立つ。指先を水に浸けると、海開きの日に一番に海に飛び込んだような懐かしい感覚が思い起こされた。

「なあ礼香、もう少しこっちに来たら――」

 どこか心が軽くなって、礼香を呼ぼうと振り向いた。
 しかし既に、そこには礼香はいなかった。

「え――?」

 背筋に電流が走る。
 どこに行った――!?
 目を離したのはほんの2、30秒程度のはずだ。
 礼香が立っていた場所に駆け寄る。地面には杖が転がっている。

「……嘘だろ」

 脳裏に走った映像は、あの蛇頭だった。

「そんな、そんな……そんなまさか――いや、落ち着け」

 砂浜である以上、絶対に足跡は残っているはずだ。
 あった――!
 これを辿れば、そこに……!

「……」

 俺は礼香の足跡を辿って走っていた。
 しかし途中でその足跡は消えた。
 水の中だった。

「……水の中に消えた……?」

 あり得ない。こんな短時間で、それに足跡を発見してからまだ2分と立っていない。
 なにかに引きずられたわけでもない。足跡は一つだ。

「そんな――」

 視線を上げた。

「嘘だろ」

 俺は息を呑んでいた。
 呼吸を忘れ、呆然と湖を見ていた。
 いや、その表現は正しくない。
 最初は溺れているのかと思った。しかしそれは違った。
 確かに礼香は膝まで浸かってはいた。けれど決してそこから沈まなかった。
 浅瀬を歩いているのかと考えた、だがそこは砂浜からおおよそ10m程の地点だった、水深はゆうに5mを越えているだろう。
 淡鈍色に光る少女はそこにいた。
 膝まで湖に浸かりながら、どこか虚ろな目で湖に立っていた。
 俺の知らないコッペリアの表情が憑依し、天空を戴いてそこにあった。

「魔法、使い」

 俺は無意識の内に礼香から聞いた言葉を反芻していた。

 水面にゆらゆらと立ち上がった礼香は、ゆっくりと湖の内側に向かって歩を進めていた。

「礼香ー!」

 湖畔の闇の中に声が吸い込まれていく、礼香を包み込む淡鈍色の光は雲間の太陽のように仄かすぎる。そのまま闇に消え入ってしまいそうにさえ見えた。
 呼びかけて待っても礼香に反応はない。今のところ溺れる気配はないが、危険であるところに間違いはなさそうだった。
 俺は咄嗟に上着を脱ぎ、懐中電灯を腰に当てて上着をきつく結びつけた。
 暗中での水難救助で最悪なのは、助けに行った側が岸を見失ってしまうことだ。

「くそっ。こんなんばっかりだ」

 水の中に飛び込む。
 泳ぎには多少の自信はあるけれど、それも久々上手ではない。
 なんとか礼香の灯りに向かって泳ぎを進めていく。
 肌をゆすぐ冷たい湖の静水。 
 水面に鏤められた螺鈿細工のような星々を、俺と礼香の動く波紋が円形に拡がっては跳ね返り、歪めている。
 懸命に近付いていくと、礼香はぴたりと途中で止まった。
 俺は進行を止め、立ち泳ぎに切り替えて礼香の近くに近寄った。

「はあ……はあ……。礼香、礼香」

 服の袖を引いても反応はない。

「――!」

 袖を引いた指先が、礼香から離れない。
 指先がどこかで引っかかっているようになっていて、触れた部分にピリピリとした触感がある。

「この感覚は……凍ってるのか――! このままだとまずいっ」

 指先から更に凍結が拡がっている、指を離さなければもっと凍っていくのか――!
 思い切って手を引き剥がす。冷凍焼けしたような変色が指先にあった。

「ぐぅっ」

 離した指先の皮が何ミリか持って行かれて出血している。

「ほんの少し触れただけだぞッ! うおっぷ」

 足がもつれて沈んだ水面下は、ほぼ完全な暗黒だった。
 無音で完全な闇に包まれた人間は、生理的にその暗闇から脱出しようとする――どこかの本で読んだことのある反応だったが、俺は目の前の光景に気を取られ茫然としていた。
 黒い沼のような空間の先には、一つの茫洋と立ち尽くす光が見えた。それが礼香であることは、言うまでもないことであった。
 水の上に立つこと、それは伝承上では重要な意味を持っている。それはつまり――不可能の可能化、その存在が人の身を超えた神聖性を持っていることの証明であった。

「――」

 水の中に漂って彼女を望んでいると、足元が彼女を導くように凍り付いていることがわかった。しかしそれは氷塊として彼女を押し上げているのではなく、薄く張られた一枚氷がまるで根を張るように広がって巧みに浮力を制御し、最低限の厚みのみを携えて浮上している――形容するなら生きているように氷が張り巡っていたのである。おそらく俺があの氷に乗り上げようとしても足元が抜けて歩くことは不可能だと確信した。あの光と氷は、まさしく礼香の占有している”なにか”であった。
 肺に貯まった酸素が限界に達して水面へ浮上しようとした瞬間、礼香の胸辺りに仄かに動きがあった。それは浮き上がるように彼女の服の中を移動し、巧みに水面から消えた。

「ぷはっ」

 追いかけて水面に顔を出す。礼香は未だに湖の中心に向かって歩みを進めていた。
 件の膨らみは礼香の手に携えられて淡鈍色の光を放っている。

「……」

 どこかで見たことのあるその光に、俺はようやく思い当たった。
 病室の中で礼香が見せてくれたあの石――水晶のように透明で、種も仕掛けもなく小さなプラネタリウムを投影した、礼香の父親から継承された石――だ。
 とにかく近寄ろう――そう体を水中で捻った途端、辺り水面一帯が仄かな淡鈍色の光を湛え始めた。
 それだけではない。水温が下がっている。しかも少しずつではない、明確に肌を通してわかるほどに冷たくなっている。
 水温が一度下がると体感温度は三度下がると言うが、これはそれどころではない――下がり続けている、こうしている今もだ。
 人間は全裸の濡れた状態で気温20度の風が吹く環境に放置されると凍死する、しかしそれはあくまで常温の水に濡れている場合だ。

「これはまずいぞ……このまま湖全体が凍るほどに冷たくなったら――そんなこと関係なく凍死する。時間の猶予はあとどれくらいある……? 湖の水の温度を20度だと考えておよそ5秒で1℃下がっていると考えればあと100秒――だが湖ほどの規模なら0度では凍らない、マイナスまで突入するとまずい」

 だがそれ以前に急激に血液温度が低下してそれが心臓に流れ込んでしまったなら急性心不全で先にお陀仏の可能性だってないわけじゃない。となるとやっぱり一刻の猶予もないってことか。湖畔まで泳ぎきれるだろうか――?
 辺りを見回した瞬間、俺は深い絶望に包まれていた。

「しまった――」

 一連の騒ぎに気を取られて湖畔の方向を見失った――。今から探して必死に泳ぐとして間に合うだろうか? それは激しく分の悪い運試しだ!
 真夏の凍死変死体――なかなか見出しにはいいタイトルだが、それは小説として読むならまだしも実際の被害者になるのは勘弁だ――!

「礼香ー!」

 礼香の方をなんとかしてこの冷却を止めなければ死ぬ。
 急げしづる、しかし焦るな。焦らず急げ。
 礼香には相変わらず反応がない――もう反応はないと割り切っていいだろう。
 近くまで寄ると、更に水温が下がっているどころか氷点下の空気が辺りに立ち込めている。
 喉に冷気が突き刺さるようだ、しかも時間を経るごとに強くなっているようにさえ感じる。
 金属を叩いたような音が水面に波紋を起こした。視線を向けると、右目に飛来したものが張り付いた。

「うぉあっ――!? 瞼が引っ付いている……凍ってるのかこれはっ! 目が開かねえ、まだ触れてもないんだぞっ!?」

 一瞬にして辺りの温度が下がっている。視界が奪われる――瞬きすらもできないのか。それどころか息をするのも痛い。
 礼香の周りにはいよいよもって激しく吹きすさぶ冷気の檻ができ始めていた。予想していた時間の半分も経っていない――判断を誤っただろうか。

「これ以上は耐えきれねえ……!」

 水面が急速に凍結を始めた時、思考はほぼ堂々巡りに陥っていた。
 痛みと温度差によって吹き付ける強風、周りにはじけ飛ぶ冷気の苛烈さに加え、右目が閉じたまま凍ってしまっているが為に視界情報がほぼアテにならなくなってしまっていた。
 意地で左目だけは閉じていなかったが冷気による痛みで分泌された涙液は凍っており、劣悪な視界情報と引き換えに激しい痛みを供給していた。
 判断を誤った――確信に近くなったその思考に対して、脳は無意識的に拒否を繰り出していた。
 時間の無駄だ、どうせ今そう考えたところで今切り開かねばならない状況に変わりはない。
 そしてそれ以上に、もう一つの道が俺の前にはあった。
 危機を乗り越える時の合理的思考。危険に陥った時こそあるはずなのだ。それを解きほぐす為の観察が。
 礼香は石を掲げたまま、荒れ狂う大蛇のような風に髪を遊ばせながら茫然としている。
 俺は息を整えながら、その時を待っていた。覚悟している――わかるはずだ、見えるはずだ。
 水温は体感でもう既に氷点下だ。実温度でもそろそろ凍り始めるに違いはない。そこまでくればおしまいだ。だが、まだそうではない。
 あとのことはあとのこと。今は俺のできる最大限のパフォーマンスをやるだけだ。
 空気中の水分は遂に見える形で固化を始めた。気温差によって辺りに霧が立ち込めた瞬間、ようやくそこに待っていたものが現れた。

「あと何秒あるか――もう幾ばくも無いことはわかる。だがようやく見えた……そこなんだな、温度の核は」

 待っていたのはこれだった。温度が限界まで低下しきり、空気中の水分が凍結を始める程温度が下がれば、空中にある最も温度の低い温度の物体の周りの水分は先に凍結してしまうから空気の層ができる。
 そして最も温度が低い場所が分かれば、それをなんとかしてしまえばいい――。
 水面の表面には既に薄氷が張っていた。拳を振り上げて叩き割ると、それを水に沈める。

「ぐっ……うおおおおおぁぁぁあああッっ!!!」

 手に凍傷の灼ける痛みが迸る。しかし止まれば死ぬ――!
 そのまま氷をできるだけ水を掬うようにして勢いよく掲げる。
 水柱が立ち上るや否や凍り始め、それは一本の氷の彫像のように固まった。

「今しかないぞ、俺――! あああああッ!」

 右腕に張り付いた氷の柱を薄氷に叩きつけると同時に足を水中から引きずり出して氷を蹴る。
 薄氷は一撃分の跳躍には足るだけの強度を既に持っていた。
 体が宙高く浮かび上がる。
 飛び上がった空中から見た水面は、磨いた氷に星空を落としたようなどこまでも深遠で優美な魅力を持っていた。
 しかし今はそれどころではない。
 核となっている石は更なる輝きを放たんと高い音を発していた。

「ここだ――その石を叩き落とすッ」

 圧倒的な氷温に大気が凝縮されるその瞬間、凍らせた柱によって射程の伸びた右手を振るう。
 確かに届く――これで俺は生き残る――。

「はッ」

 急激に予感が訪れた。殆ど本能といっても差し支えないかもしれない。
 気が付けば、俺は右手に張り付いた柱から手を放していた。

「うおおおおおおおおおおおおおぁアあァああッ!?」

 手に張り付いていた氷が振るうに任せて空中に離れようとし、皮膚を破り去って持っていく。
 指先、手のひら、手首からガムテープを思い切り引きちぎる様な音が聞こえた。肌は裂け、紅蓮が滴る前に凍って羽のように覆っていく。
 何をしているのだろう――俺はもはや自分のしたことの意味が分からなかった。
 氷の柱は本来狙っていた場所を素通りし、奥に向かって30㎝以上も吹っ飛んでいく。
 水分が硬直し、目が完全に氷に覆われた。

「しまった――!?」

 深い絶望に背筋が凍った瞬間、弾けるような高い音が鳴り響いた。

「は――!?」

 その瞬間、冷気はぴたりと止まった。
 俺は空中の制御を失って薄氷の水面に向って叩きつけられていた。

「ぶっ」

 冷たすぎる水温の中で瞼の氷が解けた。
 水面に顔を上げると、礼香は気を失って小さな氷の島の上にできた水溜りに叩き落とした石と一緒に沈んでいた。

「礼香、起きろ」

 呼びかけても反応はないが、見た感じ呼吸も心拍も問題はなさそうだった。
 氷の島をリングブイのようにして、それを引っ張って岸までたどり着く。
 礼香を砂浜に横たわらせる。
 体温に異常はない。多少服に霜が張った場所はあるようだが、それ以外外傷も呼吸も異常はなかった。

「あれは――礼香の持っている石の影響だったのか」

 しかし、なぜなんだ。礼香は今まであんなことがあったとは一言も言っていないのに――。

「くそ、目が霞む――」

 俺の体温が明らかに下がりすぎている。低体温症だ……。
 心臓の鼓動が乱れて、妙に体が熱くさえ感じる。
 体力の限界を感じて仰向けに倒れこむ。
 空には流れ星があった。透明で――大きな――

「!!!」

 アレは雪星じゃないのか!
 体が跳ね上がろうとしたが、全身の筋肉が攣るようにして震えて動かなかった。
 声すら出せないまま、視界がぐにゃりと歪んでいく。
 く――死ぬぞ、これ。
 眩暈と寒気、そして何よりも瞼は開いているのに世界が暗くなっていく。
 光を感じるための器官がもう既に活動を停止している。動かなければ――車の中に行け――そうすれば。

「う、が、あ」

 震えるばっかりでなにも動かない。何も――。どうしてだ、どうして!
 こんなところで――こんな――!
 怖い――俺は震えていた。死ぬ。死ぬのか? 俺はここで。嫌だ。死にたくない。嫌だ――!

「しづるさん――! しづるさん!」

 視界が真っ暗に落ちていく中、礼香の声が聞こえた。
 俺は消えゆく眠りの中、恐怖から目をそらすために氷柱から手を離した瞬間のあの閃きの根拠を考えていた。
 片目で距離を見誤っていたのを直感で理解していたのか――? それとも、急激な温度差で蜃気楼が発生していたのを予測していたのか――?
――わからない。
 けれど手を離したのは確信があった。ああすれば生き残れる、と。それだけは事実だった。
 意識は緩やかに消えて行った。
 


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