白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第26話 残遺

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 ハンドルを握った俺は北の湖に行くはずだった予定を大幅に変えていた。
 北の湖に行く前に廃教会の地下へ向かう。幸いにも分岐一つで行き来できる――ポケットから見つかった黄色い布きれが、あの手術室になにかあると告げているような気がしていたからだ。
 久しぶりに動いて疲れたからか、礼香は助手席で眠っている。できれば起こさないでおきたい。

「……」

 自分でも何か馬鹿げていると思いつつも、迷いはほとんどなかった。両手を揺らして覆い被さる黒い山道をハイビームで駆ける。
 果たして俺の勘はどこまで当たっているだろうか。苦笑しながらも、暫く運転を続けると廃教会の丘に辿りついた。

「さて……」

 書き置きと車のキーを残して、車から降りる。こんなこともあろうかと車に携行しておいた1万ルクスの懐中電灯を引き出した。
 少し泥濘んだ斜面を足下に気を付けて進みながら行くと、一層開けた広場にたどり着く。三咲町を一望できる高台ではあるものの、今は目的地ではない。……海の方には随分雲が立ちこめている。あまり天気の予後は良くないかも知れない、急がなければ。
 奥まった小道を歩くと、教会はやはりそびえていた。
 一人で来ると余計に荘厳だ。内側の十字架が落ちている姿を想像すると、やはり身が震える。そのまま横道に折れ逆側にあった穴から侵入する。

「相変わらず陰気だな」

 段差に気を付けつつ、教会内に侵入する。ここは上部の礼拝堂の地下部分だ。前に入り込んだ悠里がどこかしらで礼拝堂から落下してここに辿りついていた。
 そして更に最奥部に入っていく。明るいライトで照らし付けているせいで、余計に壁がおどろおどろしくただれて見える――異世界の扉でもこの先に繋がっていると言われても信用できそうなくらいだ。
 心の奥底には払拭できない暗闇、それも物陰の多い空間の閉塞感が充満する。気分が悪くなりそうな埃の匂いを掻き分けながら、件の手術室にやってきた。

「……横だったな」

 ドアを捻りながら横に向かってスライドさせる――その時、何か金メッキで仄かに輝いているドアノブに違和感があった。

「――指紋」

 擦れていない――。ということは俺たちが来たときのように扉を開ける為の方法を知っていた人間が開けている!
 心拍数が急激に上昇するのを感じた。額には汗が噴き出している――。思わず息を潜め、ゆっくりと静かに手摺りから手を離す。身を屈め、扉越しにそっと聞き耳を立てる。全神経を集中して扉の奥の気配を探る。

「……」

 呼吸数にして130回……恐らく二分ほどの間息を潜めていたが、内部からは何一つ動いた音はない。

「今は開いている……」

 そっとノブを回し、横にスライドさせる。
 軋む床の砂を噛みながら、重たそうな扉はやはり軽い拍子で動いた。
 さっと部屋に忍び込むと辺り一面をライトで照らし、拾ってきたレンガブロックを扉と留め金の間に挟み込む。
 正面、右、左、上、下。

「誰も、いないか」

 ふう、と一つ大きなため息をつき、扉に背を預けた瞬間、肩に何かが触れた。

「ん」

 振り向いてライトを付けると、そこには大きな一つのまだらに褐色の深い隈取りの引かれた蛇のような瞳が大きく開いていた。

「うわっ」

 思わず出した声を手で抑える。

「……」

 冷静になれ、桜庭しづる。ここで叫ぶということは即ちお前をより不利な状態に追い込むのだ。今は静かに、状況を見極めて冷静になれ――!
 そう、あれはただの書き込まれた趣味の悪い絵だ。動いていない、そうに違いない、そうだ、そうだ。
 目を凝視する。動く気配はない。立体的には?――違う、平面だ。それでは水っぽさは? ない。ならばよし――アレは、あれはただの絵だ……。そう、驚く必要はない――。

「ふう、ふう……」

 胸に手を置いて、心拍が下がってきていることを確認する。

「くそっ、驚かせやがって……」

 胸をなで下ろしながら、当初の目的だった部屋の探索を開始する。
 部屋は手入れはされていないが良く照らして調べてみると、調度品の数々は極めて高価そうな物ばかりだった。まず地べたにはアラベスクに蜘蛛の糸のような装飾が加えられた幾何学模様の毛足の長い絨毯が敷かれている。汚れてこそすれ、分厚い生地で編まれているこれはどう見ても骨董の類であることは間違いはなかった。そして壁。四方の壁面には、鹿や熊、それに奇妙な魚のような面のトロフィーが飾られている。妙に豪華だ。まるで爵位のある家のリビングルームの様相――蒼然と立ち並んだ嗜好品の数々、その中でも異色なのはやはり手術台だ。指先で触れると埃のざらついた感触が指先に伝わる。誰かが掃除しているわけではないようだ、当たり前だが。

「これは……」

 手術台の周りを照らして回ると、やはり焦げ痕と黄色い布きれの破れた痕跡が点々と散らばっている。その様は捕らえられた小鳥が最後の力を振り絞り、羽が藻掻き狂って地に落ちたようだった。
 俺はあるものを探して、その辺りをうろうろと行き来していた。布きれは恐らく、やはり誰かの衣服のようだと思われた。ここが手術台だとして、何者かがこの台をその用途で使ったのだとしたら――何か緊急に衣服を破り捨てた可能性も無きにしも非ず、もちろんかなりあり得ないことであるのは承知なのだが――といったところだ。

「あった」

 衣服のタグだ。
 サイズはMで、『Kids Factory』……子供用のブランドだ。ということはこれを着ていたのは子供――。そういえばここでいつだったか、事件があったんだっけか。『蛇男が現れて子供を連れ去っていった』、そんな目撃情報があって実際に子供が何人かこの周辺からいなくなった。捜索は行われたが子供は結局見つからず仕舞い、廃教会は子供だけでは出入り禁止になってしまった。
 もしその時分、この地下室が見つかっていなかったとするなら――ここにあるのはその子供のものだろうか。

「いや――違うな」

 だとするならば、こんな風に『破かれたように散らばった状態』がいつまでも続くだろうはずはない。それに黄色は色が落ちやすい。何年か前の出来事だったはずだから、色がこんな風に残っていることはないはずだろう。
 手術台を確認する。
 黒ずんではいるが血液の痕ではない、ここはそういう目的で使われたわけではなかったのかそれとも処理したのか――もし使ったのだとするなら奇妙なことだ。なぜ手術台は処理したのに下は処理しなかったことになる。ということは手術台は本来の用途では使われていない可能性が高いだろう。
 そのまま部屋を隅まで歩いてみると、大きな黒塗りの薬品棚の下にトカゲの頭のような影があるのが見えた。

「!」

 動きはない。恐る恐るライトで照らす。
 そこには擦れてくすんだ黒の樹脂製品の表面があった。
 拾い上げると、それは子供用の黄色いスニーカーだった。更にのぞき込むが、その奥には何もなさそうだった。

「片方だけ」

 靴もかなり焦げ付いている、ひょっとするともう片方は焼失したのかも知れない。
 スニーカーのかかと側のソールには、子供の持ち物らしく名前が書かれていた。
 丸っこい女の子らしい文字で『御園蕾』と。

「――あの子は、御園蕾は」

 中には、一枚のぐしゃぐしゃになった紙が入っていた。
 そっと破れないように開く。

『ねえねへ
 もし誰かがこれを見付けたら、御園礼香という人のお家に届けてください』

 そこまで確認し、紙を綺麗に畳み直した。

「いたんだ。存在したんだ。御園蕾は……伝えてやらねば――ここで何かがあった」

 棚の前から立ち上がろうとライトを上に向けた瞬間、違和感があった。

「……今、ライトの光がどこかに吸い込まれたような」

 そっと手元を照らす。黒く塗られた棚は表面の塗装で黒く反射している。
 では、今の感覚はなんだ……?
 不審に思い、もう一度同じ軌道にライトを沿わせる。
 すると、同じ現象が起こった。よく目をこらして観察する。

「棚の奥、それも一部に空洞があるのか――」

 明らかに光の屈折が違う部分がある。その部分だけ反射光に違和感があった。だから光が吸い込まれたような感覚があったのだ。
 大きさは大人が中腰になればギリギリ通れそうなくらい、恐らく誰にも見付けられないための仕掛けであることは間違いない。
 棚を開けて、中にあるものをそっと外に出す。このチューブ状の通路はおよそ十メートル近くはあるようで、その先を確認することはできない。

「埃を被っていない」

 俺の手はぴたりと止まった。
 冷や汗が伝う。
 ドアノブの指紋――。
 これは明確な『誰かがこの先にいる証拠』だ。
 奥歯を噛み締める。

「……」

 俺は……俺は行くべきだろうか。
 脳裏で大天秤が揺れ始めた。
 この先に行けば、御園蕾について更にわかるかも知れない。
 けれど、ここを誰かが通った可能性は大だ。もしその誰かに見つかったら……?
 何ができるだろう、武器は携行していない。あったとして懐中電灯くらいのものだ。
 途中で懐中電灯が切れてしまったら? 壊されてしまったら?
 夜目が利くようになっているとはいえ、星明かりもない完全な闇黒を歩くのは無理がある。
 何かから逃げるとなれば余計にだ。でも――。
 できるだけ情報を吟味する、何かあった時の為の逃走ルートに目印はあっただろうか、隠れ込めそうな岩場の隙間は? けれどそんなのはここに俺よりも来ている人間の方がよく知っているんじゃないのか?

「……くそ」

 一刻も早く立ち去るべきだ。
 俺の脳は、冷静にそう判断した。
 ここで俺が動けなくなってしまったら車の中で残された礼香は無防備に俺の帰りを待ち続けることになる。足の悪いあの子はきっと俺を襲った何かが来ても逃げることも抵抗することもできない――!
 ここまで来たのに――! もう一歩で何かがわかるかも知れないのに……!
 湧き上がる悔しさを飲み込んで、戸棚を閉めて踵を返した。
 靴と手紙を持ち出すと、足音を忍ばせて部屋から出る。レンガを外し、教会の裏手に回る穴に急ぐ。
 広場に出た時、教会のどこかで空気が抜けるようなシューシューと音が聞こえた気がした。俺はどこからともなく響いたその音に震え上がると、車まで走った。
 息を切らせながら車のエンジンを入れると、そのままアクセルを踏み込んだ。
 車内では礼香はまだ起きていないようで、ゆったりとシートに体を預けて眠っていた。

「はあ、はあ」

 暗い夜道を急いで車を走らせる。
 そこでようやく人心地が戻ってきて、俺は自分の体が冷たい汗でびっしょりに濡れていることに気がついた。
 暫く走り続けて分岐の辺りまで辿り着くと、ようやく俺にも余裕が戻ってきた。
『野生動物注意』

「最悪だ、この看板」

 疲れからかなんでもない看板に毒づくと、分岐を折れて北の湖――久那次湖に向かい始めた。

「んむ……もうそろそろですか」

 ようやく礼香は目覚めたようで、目を擦りながら窓の外を眺めた。

「そろそろだよ……って言っても俺にとっては結構長く感じたんだがな」

 最後は小声でぼそりと呟きながら、なんとなくサイドミラーを覗いた瞬間だった。
 二足で立った赤い球体を二つ付けた太く長い生き物が、遙か後方からこちらを見ていた。
 縞のついた体は蛇のようだが、その流線型なままの躰は人間のような雰囲気を備えている。
 真っ赤な二つの亀裂が入った瞳――それが確かに俺とサイドミラー越しに目が合っていた。

「しづるさん?」
「ああ、いや、なんでもない」

 一瞬目を離すと、そこにはもうなにもいなかった。
 俺の恐怖が生み出した幻だ。そうに違いない。
 今はもう、そう思いたかった。

「それより、後で少し話したいことがある」
「……? わかりました」


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