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第38話 眼目
しおりを挟む「はっ……」
随分気を遠くに投げていたらしい、意識を半分ほど失っていたようだ。
「おうよ、生きてたか――よかった」
少年たちはぼくを抱き上げて、安堵した表情を見せた。
「ごめんよ、怪我しちまったよな。もっとしっかり言っとけばよかったか……」
「ちょっと染みるが、良い子にしててくれよ!」
清潔な白いガーゼに消毒液を付けた冷たい触感が太ももと顔を順になぞっていく。
「くっ……」
「それにしても、よく生きてたな――ほんとに。あのバケモンに襲われたんだろおまえ」
「ああ、違いない。アイツの持ってる酒瓶の色だ。くそっ」
「……手当してくれてありがとう。昨日はぼくに忠告してくれたのか……ごめん、気がつかなくってさ」
「なに、生きてて良かったってことよ。何事も、まずは生きて生きて、とにかく生命してこそだろ!」
「そうだぜ、坊主。俺たちはこんなところに押し込められているがよ、いつかは大事しでかしてメインストリームになるんだ……その時の為にこんなことをしてるんだぜ。仲間は多い方が良いからな!」
彼らはまた彼ら独自の文脈で会話し、手荒くもガーゼをマスキングで留めた。
ぼくはその様を眺めて、ぼんやりと外の太陽を眺めた。
風がぬるい……残暑というには暑すぎる熱の渦が瞼の内側に飛び込んできている……。
饐えた汚臭――洗われていない人間の獣……。
夜半に見たあの現実は、本当に人間の見せた光景だったんだろうか。
ぼくが眩しさと追想に酷く顔を蹙めていると、ひょろ長い方がぼくを背負いあげた。
「な、行こうぜ」
「え、どこに?」
「ボスがおまえを見つけたら連れてこいって言ってたのさ」
「命令だよ、珍しいこった」
彼がぼくに何の用があったのだろう。昨日の態度を思えば、ひょっとするとかなり怒られるのかもしれない……。
「何、ボスはああ見えて結構優しいんだぜ。そう邪険にはしねえよ」
表情を読まれたのか、背負われたまま旧駅舎の長い階段を降りていく。
すり切れた靴裏のゴムがこすれる音が、打ちっぱなしになったコンクリートの壁面に水音じみて反響している。
「なあ、おまえ、名前はなんて言うんだ?」
「ああ、聞いとかないと呼びにくくて仕方ねえや」
「ぼく、ぼくは……蕾っていうんだ」
「ライ、か。呼びやすくてイイ名前だ」
「そうだな、俺たちの名前よりかはいいかもな! ぎゃは!」
「君たちは?」
二人は顔を見合わせる。
「背の高い俺がコスガで、低いそっちがオオスカだ」
「そう、名は体を表すって言うけどよ、ここまで凸凹だと神様もなんか間違えてやがる! ぎゃはは!」
「いや、神様はなんもかんも間違えてるのさ! だってそうだろ? こんな育ちの良さそうな坊ちゃんをこんな汚えとこに追いやってンだからさ!」
「そーだそうだ! ぎゃはは!」
「あは、はは」
彼らはとにかく明るい。
ずっと何が嬉しいんだか分からないのに、ずっと笑っている。思わず頬の硬直が解けてぼくも笑っていた。
沈んでいた気分が少しマシに思えてくる――。肉体の傷も痛みはあるが、それだけだ。
どこか疼くような心根の寒さがマシになって思える。
盛夏激しい一面の青空は抜けるように世界を照らしていた。
「――連れてきたか」
ボスは負われて来たぼくのことを一瞥すると、コスガに降りさせるよう指示した。
「僕に用があるんですか?」
「ああ、お前、生き残ったみたいだな」
「生き残った?」
物騒な単語が出てきて視界が白黒としていた。けれど彼の表情には濁りはない。
「あの化け物と立ち会って、怪我こそしているが――生きている。運が良いやつだ」
「見ての通りだけどね……それにしてもあの老人は一体? 木製の鍵を恐れてたみたいだけど」
「……正体不明――だが殺人鬼だ。夜になるとどこからか現れて、あの中にいる人間を探して殺して持って行く」
「殺して持って行く……? どこに」
アレはぼくに対して手加減をしている様子はなかった。加えて――足を狙った一撃、逃がすつもりがなかったのだろうか、それともただの偶然だろうか。持って行くというのであれば、相手が暴れないようにという意味合いもあるかも知れない。
「わからない。だけど俺たちが知っている内でももう既に二人以上は殺してる……何食ってるかも、やった後どこに消えるのかも分からねえ、どう見てもバケモンだよ」
「……! そんな、警察には言ったの?!」
凶悪犯じゃないか、二人も殺しているだなんて。
けれど警察、という言葉に反応したように後ろの二人は水に濡れた犬のようにブルブルと体を震えさせた。その表情には、深い皺が刻まれていた。笑ってばかりいる彼らの見せた最も悲痛な顔だった。
「言ったさ! 言ったとも、けど、掛け合ってもらえなかったんだ……だって死体も残ってねえんだ……それにだって、なんも証拠もねえしっていうか俺ら、いわゆる不良だしよ……あんなに勇気出していったのによぉ……チクショォ」
「ああ! ああ! いいヤツだったんだ……俺たちの仲間だったんだ。わかってたってのになんにもしてやれなくってよ、失格だぜ俺ァ――」
「中西ィ……不甲斐ねえ……俺たちのせいでよ……! たった四人の大事な大事な同志だったってのによ……!」
「黙れ!」
ボスが吠えた。それを期に二人は視線をあげた。その顔は、どこか待っていたような、儀式のような趣があった。
「――」
「今は悼む時間はない! 俺たちは仇を打つ為に計画を進めてきた。奴が恐れているものも突き止めた! その効果はこいつが生き残ったことで証明された!」
「あ、ああ! 一歩前進だ!」
「そうだ――!」
「ならすべきことはなんだ? せっかく今はバケモノとやりあって生き残ったガキがいるんだぜ? 俺たちの計画していた大事を解決したんだ、コイツは。これをチャンスだと思わないのか……? だとしたらソイツは相当フ抜けた阿呆だぜ」
三人の視線がすべてこちらへ向いた。
「あ……え……?」
「協力してくれるよな?」
急激に集まった視線には、精一杯の期待感と熱が籠もっていた。
「俺からもお願いしてぇ……」
「ああ、俺もだ。弔い合戦でさ、ボスもお前に戦えなんていやしねェ。だがアイツと立ち会ってさ、生き残ったのは今のところお前だけなんだ! できれば少しでも俺たちに情報を恵んでくれねえかな……」
「……」
「……ダメだよな。俺達みたいな信用のない連中じゃサ。いや、いいンだ。だってよ俺らが今からやろうとしてることは、全然お前にゃカンケーねえんだもんな。わかるよ。俺だってそうするかもしれねえ」
「ああ。でもせめてもっと安全な場所で寝泊まりしなよ、案内してやっからさ。ちょっと暑苦しいとこになるけどよ。それに暗闇に怯えなくって済む」
「――いや、協力させてほしい」
青年たちの目が見開いた。意外な申し出だったのだろうか、ボスのまぶたにも小さな痙攣があった。
「昨晩、君たちのおかげで助かった。ぼくにも関わらせてほしい。恩は返したいんだ」
「……驚いたな、無理矢理にでも入れるつもりだったが。名前は?」
「蕾、だよ。君は?」
「俺はジョー。よろしく。ボスと呼べ。お前は今から俺たちの仲間だ。困ったときはお互いに苦難を分け合い、問題があれば全員で当たる。ここは俺たちの『管轄』する場所だ」
ボスと蕾の間に、固い握手が結ばれた。初めてボスは口元を歪ませた。
「俺たちはこのグループの存続に関わる仕事を『大事』と呼んでいる。今の大事はあのバケモノに殺された仲間の仇討ち、そしてこの旧駅舎の治安を乱したバケモノに裁きを与えることだ」
「わかった。ぼくが役に立てることならさせてくれ」
「生意気な目をしてやがる。ライ、お前はなんでこんなとこに来た? そんなに悪ガキには見えねえが」
「ぼくは……そうだな、説明するのは難しいけれど人を探しているんだ」
「人捜しだ? 誰を探してる」
「わからない」
そう、分からないのだ。ぼく自身にさえ、あの記憶の答えがわからない。わからないからこそ探している。
「ただ……その人がぼくのことを起こしに来たんだ。ぼくに地図を渡して、ねえねのお家に帰したんだ。その人がどこにいるのかを探してる。ぼく、なんだか昔の記憶が曖昧で、それを知りたいんだ。だから家を離れてここにいる」
「うそつきねェ、そのねえねと喧嘩したんじゃね~のかァ?」
「そうだそうだ、きっと居辛くなったんだろぉ?」
蕾の頬をつつきながら、コスガとオオスカは小さな体躯を抱き上げた。
「む……そうだけど……」
「そうじゃねえとこんなとこには流れてこねえよ。心配すんな、お前の問題だって俺らの問題だ、協力するぜ。腹ァ減ってねぇか?」
「メシ作ってやるからそこで待ってな。もうお前は俺たちの仲間だからなァ、ぎゃはは! カワイイやつだぜ、どうやってこんなちんちくりんでアイツと渡り合ったんだ? ええ?」
頬や髪をまるで小型犬におもちゃを渡してやったようにこねくり回される。彼らなりの歓迎の仕方なのだろうか――? ボスに視線をやると、彼だけはそっぽを向いて何かを眺めるように立っていた。
「あったけェ風呂とクーラーはねェけど、最低限の生活くらいはできるようになってんだぜ、ここもな。安心しろ、ぜってェひもじい思いだけはさせねェ。みんな腹だけは俺がいっぱいにしてやる」
「へへ、コスガはメシを作るのがうまいんだぜ。変なモンは絶対食わせねえから」
彼らはカバーされているパイプの空洞に手を突っ込むと、中からガスバーナーや折りたたみ式のフライパンが現れた。
「びっくりしたか? 中を掃除してからパイプを切り取って、余ったパイプを上から刺しこんで蓋だけ回るようにして保存してるんだ。使う度にそこのぶっ壊した水道管で洗ってるから綺麗だぜ」
――驚くことに、彼らの生活水準は高かった。ここで寝泊まりしているワケではないが、ほとんどの時間をここで過ごしている彼らはほとんどの便利品を生み出す手腕を身につけていた。
それは何もアナログな編んだり組んだりという方法だけではなく、廃品の電子製品の修理、簡単な代替品の選定――バイクの分解組み直しなど多岐に渡る。
「昨日の木鍵、あれも俺たちで作ったんだ。そこらの鉄板切り取ってきて、鋳型を作ってそれに嵌める形で削り込んでいく、そうするといくらでも楽に増やせるだろ。元は中西が初期型を作ってくれたんだがな……アイツは無口だったもんで、なんでアレが効くのかどうかも伝えねえまんまこれだけ置いてやられちまった」
「よし、できたぜ。食いねェ!」
コスガの声が響いた。
「お、行くか」
「うん」
味噌汁、米飯、干し肉を炙ったもの、それに何かの葉っぱのお浸しと、こんな場所で作られるには勿体ないほど家庭的な料理が振る舞われた。
「さ、冷めない内にな」
「いただきます」
「俺も食うか、まだ食ってなかったし」
「いただきます!」
オオスカは地面に薄いビニールシートを引いて、ぼくの隣に座った。
「……」
口に放り込んで咀嚼する。
「どうだ、ライ」
「おいしい。本当に上手なんだね」
どれもぼくが作るよりも上手だ……というよりもこれはかなり作り慣れたような味というか、どこかで習ったりしたのだろうか。店屋物の味と言った方が近い。
干し物の火入り加減もいい、風味を損なわない限りで香ばしい。味噌汁もわかめだけで寂しく感じるがちゃんと出汁の香りがある。細かいがきちんと基本に沿った芸がある。
「これ、本当にすごいね。予想してたよりも何倍もおいしい……ありがとう。びっくりしてる」
「よしなィ、てれらァ」
コスガは笑って、鼻を擦った。
「ああ、たまんねーやこれァ」
「おいあんまり食い過ぎるなよ。ライの為に作ったんだからな」
「いいよ、一緒に食べた方が、なんだか落ち着くし、ねえねとはいつも一緒に隣でご飯食べてたから」
「へへっ、じゃあいただくぜェ」
ライは誰かと一緒に食事するのが好きだった。賑やかでなくても、誰かがとなりにいて一緒に生活している体温があることが重要だった。
一人で出ると決めた時には、こんな風に温かい人に囲まれて食事を取るなんて、考えてもいなかった。それと同時に蕾の胸に去来していたのは、チクリと痛む姉への罪悪感だった。
「ありがとう、ごちそうさま。ボスは呼ばなくていいの?」
「ボスはいいんだ。あの人は何でもできることは一人でやって、一人で終えるのが好きな人なんだ。時々一緒に食ってくれるけどな。メシなんて好きに食えば良い。それがボスの考え方で、それがボスの自由なのさ」
「ああ、それでもボスはいなくちゃいけねえ。あの人が居ないとまとまれねえのさ、俺たちァ。それにあの人は何があっても仲間の為に尽くしてくれるし、計画立案もボスがやってる。ボスがいねえとはじまらねえ、だってあの人は真っ直ぐでさ、こんなとこに居るには惜しいくらいなんだ」
「そっか、かっこいい人なんだね」
「片付けるから食器は置いといてくれ」
「自分でできるよ」
「いいから置いときな、それよりそろそろ会議の時間だ、移動しよう」
「会議?」
「ああ。毎日やってる話し合いさ。さ、行くぞ」
二人を追って駅の三階に上っていく。
「今日の議題はライ、分かってると思うがお前の見た物についてになるだろう。いろいろ教えてくれ」
「ああ、そうにちげェねェ」
「うん。わかった」
廊下を三人分の足音が進んでいく。通路の先を右に折れると、ラウンドテーブルに椅子が四つ並んであった。
既にボスは席に着いており、二人に促されるようにぼくも椅子に腰掛けた。
「今日の議題は分かっていると思うが、ライ。お前の見たバケモノについてのことだ。それが俺たちの目的を果たすために重要な情報となることはわかっているだろう。細かく聞かせてくれ」
「ああ――」
三人の視線がぼくに集まった。ぼくは今夜のことについてを話し始めた。
夕凪に海鳥が羽を広げて進みもせず戻りもせず宙づりになったように浮いている。
砂浜の足跡はとうに真っ赤に染まって、迷ったように足跡だけが続いている。
「……こんな時間か」
昼頃まで彼らとの話し合いをして、それから当てもなく町へ出た。
結果は昨日の夜と一緒。茫洋として手がかりは見つからない。
倦まず弛まず続けたところで、こんな捜索にどんな意味があるだろう。きっといつまでも見つからないかもしれない。
そもそもこの町で起こったことではないかもしれないだろう――そもそもぼくの願いなど成就されて何になる?
振り返ると、足跡は波にさらわれて消えていた。
今日は早めに帰ろう。彼らもそれほど長くは旧駅舎に居続けることはないだろうから。
堤防から町を見下ろすと、西日に照らされた向日葵畑が見えた。
「帰りたい……な」
ぼつぼつと呟いた言葉は、自分の耳にだけ届いた。
「おう、お帰り。俺たちもそろそろ出る準備してたとこだぜ」
旧駅舎に戻ると、二人は旧駅舎で屯っていた少年たちを追い出しているところだった。
「なんだったっけ、自分探しだっけか。うまくいったかィ」
ぼくは首を横に振った。
「まあそうだよな、ここに帰ってきたんだもんな。けど、気にすんなィそんなもンだ」
「ガキ共の追っ払いももう終わる。さ、俺たちも行こうぜ」
「? どこに行くの?」
コスガはぽかんと口を開けたぼくをひょいと小脇に抱える。
「夜の間自由に使っていいもう一個のアジトだ。ちと暑苦しい場所になるが、旧駅舎よりは清潔で安全だ。それとも今日もこんなとこで寝てェのか?」
「ま、俺たちはその後帰るがよ。ボスはきっとアジトにいると思うからなんかあれば後はボスに聞きな」
「……うん。ありがとう」
「んしょっとォ」
コスガはそのままぼくを肩車して、歩き出した。
高くなった視線が、夜の町の灯りを映している。空の夕日は既に役目を終えて、水平線の向こう側へ倒れ込んでいた。
「なあ、ライ。……一人で寂しくねえか? 家、やっぱ帰ってねえんだろ」
「……。そうだね。でも、ぼくは帰らない。もう決めたから」
「今朝言ってたことかよォ」
「ああ」
「けどよォライ、ずっと見つからなかったら? その人っていうのももう既にどっか行っちまっててさ、ずっと行方が杳としてしれなかったらどうするつもりなんだよォ」
――もしそうだったら、ぼくはどうするべきだろう。ぼくがぼくであることをしれなかったら? ぼくはどこに向かえば良いだろう。考えたくないことだった。
「……」
「ごめんごめん、困っちまうよな。コスガが悪いことを言っちまった。けど、俺も心配してるんだ。俺たち高校生くらいの年になりゃ、最悪なんとか自分で切り開いていけるがよ、ライはまだ小学生ってとこだろ? やっぱ心配さ」
「うん……ごめんね。君たちには世話になってばっかりだ」
「いいンだ、いいンだ。気にすんな」
「最悪よお、どこにも行けなくっても俺たちと一緒にいりゃいい。毎日メシも作ってやるしな」
「メシ作ってんのは俺だろォがァこの穀潰し!」
「あぁん? テメーの電気釜直してやったのは誰だと思ってんだこのべらんぼうめ!」
「それはもう随分前の話だろォ? おめェ俺たちの“ルール”を忘れたんじゃねェだろなァ」
「オアット、そうだったな――わりィ、じゃあこの言い返しはなかったってことで」
「おう。じゃあ今の言い合いは忘れたってことにしとくぜ」
「――フン」
二人は何やら勝手に言い合いをして、勝手に終わった。
旧駅舎から随分歩いて、町の灯りが近くなった頃、雑居ビルの前で二人は足を止めた。雑居ビルの一階は小さなネオンが光っており、怪しいピンクとブルーの蛍光の奥には制服の店主が見えた。
「着いたぜ、ライ。ここが俺らのアジトだ。地下だけどな」
肩車を下ろされて、二人に着いていくと、緑色の非常灯だけが光源になった廃れた一室があった。
コスガは目の前の部屋に鍵を差し込むと、それを回して扉を開けた。
「ほら、はいんな」
玄関で靴を脱いで框を踏むと、そこは十畳ほどで清潔に掃除された、あまりにも普通な畳張りの一室だった。
「昨日は風呂も入れてねェだろ。今日はゆっくりここで寝な。布団もある。ま、ボスと一緒だからお気の毒だが」
「だれがお気の毒だって?」
「ヒエッ」
洗面所の扉が開いて、そこにはボスが立っていた。
「いや、別にそういうわけじゃねェんですがね。いや、なに。あはは……」
しどろもどろのコスガを無視して、ボスはぼくを一瞥して目線で『止まれ』と告げた。
「お前らなら連れてくると思っていた。全くしょうがないバカ共だ」
「じゃ、じゃあボス、ダメなんです?」
「ここは仲間だけが立ち入って良い場所だろう」
「そ、そんな。でもまだコイツ、怪我も治ってねえんで……」
「そうでさァ、こんなの戻してきたらそれこそ死んじまいますぜ。それに協力してくれるって」
「協力することと仲間になることは違うだろう? そうじゃないか? 協力してくれるやつ全員がアジトに出入り出来るようになるのか? ええ?」
ボスは奥に並んだ冷蔵庫をどっかりと座って開けた。その背中は、頑として拒否を告げていた。
「でも、まだライは小学生ですぜ……あんまりでェ……」
「自分で望んで出てきたんだろう。俺たちは自分で自分の道決めて来た、そうじゃないのか。守られないと生きていけない軟弱者は俺たちの仲間に要らない」
「ううぅ……でも、ボスぅ……」
二人は俯いて呻き呻き、眉を蹙めた。
「ぼくは軟弱者じゃない。ボスの言うとおりだ。自分で出ると決めて、帰らないと決めて来た。それにボス、ぼくは昨日生き残っている。それが何よりの証拠じゃないのか? だから君はぼくに協力を求めた。そうだろう」
ライは一歩進んで恬として言い放ち、辺りは静まりかえっていた。
「……」
ボスは背中をぴくりぴくりと震わせて、二人は顔を見合わせて明らかに怯えていた。
「ぼ、ボス……今のは、きっと言い過ぎちまっただけですぜェ、き、きっと本心じゃ――」
「――気に入った。相変わらずガキの癖にいい物言いをするな。いいよ。使わせてやる。それでいいんだろ。お前らも」
「ええ! いいんですかィ!?」
「頼みます! 俺らからも」
二人は飛び上がって喜び、またもやぼくはもみくちゃにされていた。
「も、もう、やめてよ……くすぐったいよ」
「よかったなァライ、ここならゆっくり休めるぞ」
ボスはこちらを向き直って何かの瓶を煽り言葉を発した。
「よし、決まりだな。じゃあそういうことだ。ライ、すぐ風呂に入れ。今のお前、かなり汗臭いぜ。オオスカもだ。アジトで寛ぎたかったら清潔にしろ」
「ありがとう、ボス……」
「……後は勝手にしろ」
ボスは再びそっぽを向いた。
ぼくとオオスカはそれからかわりばんこにシャワーを浴びて、それからみんなで軽く食事を取った。
気がつけば西日に炙られたコンクリートの熱気は多少落ち着いて、風から潮の匂いはなくなっていた。
「じゃあ、俺らはここで失礼します」
「ああ、また明日な」
「ライ、しっかり休めよ」
「うん。今日はいろいろとありがとう」
「いいってことよ」
彼らが階段を上がって行って、部屋の中にはボスとぼくの二人だけになった。夜町の風はどこか淀んでいるようだった。
ボスとぼくは、やっぱりきっかり二人っきりになった。彼は二人がいなくなったのを見ると、どこからともなくちゃぶ台で薄汚く汚れたノートに書きなぐり始めた。
……彼は何を書いているのだろう。昼間にぼくから聞き出したことをまとめ直しているのだろうか。それとも彼なりに勉学をしているのだろうか。
ぼくは一日ぶりの柔らかい畳の感触に身を預けて肉体を休息させていた。
「ライ」
どれくらいの時間が経っていただろうか、外が静かになった頃のことだった。不意にボスは名を呼んだ。
「……なに?」
「冷蔵庫から赤いラベルの瓶を取ってくれ」
冷蔵庫の中には、所狭しと瓶とペットボトルが並べられていた。中には明らかに酒類もあった。
「どうぞ」
ぼくは言われた通りに瓶を彼に手渡すと、ん、と相槌してボスは受け取って振り返り際に冷蔵庫を指さした。
「お前もなんか取りな。少し休憩だ。一杯つきあいな」
「……いいの? ぼく、お金は持ってきてないよ」
「俺が取れって言ったろ」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
ぼくは中から一本適当にまさぐり出してその蓋を開けた。
「夜更けだけど、ボスは帰らなくて良いの?」
「二人で居るのは気まずいってか?」
「そういう意味じゃないけど、二人は帰ったわけだしボスも家に帰らないのかなあって」
「……家ってなんだよ」
突拍子もなく、彼はぼくにそう聞いた。
「何って――十分に休める場所のこと、だと思うけど……」
「それなら、ここがそうだ。俺にとっての家はここだ。お前にとってもそうだろう? ならここは家になるだろう」
瓶を大きく傾けると、彼の顔は赤い瓶の底に見えなくなった。
「どうだ、じゃあライにとってはここが“家”ってことになるか?」
ライはどこかでそれは違う、そう思った。けれどそれはどこかが違うだけで、根本的にどこが違うのかは言葉で表せそうになかった。
何かが違う、けれどそれがなんなのか、それは何よりも難しい答えな気がした。
「……なんだか、違う気がする。言い表せないけど、どこかが違う気がする」
ボスを真似て、適当に取った赤い飲み物を喉に押し込んでみる。
一口飲んだペットボトルの中身は舌先がバチバチした。初めて飲む味だ――。
「こぶっ……ごほっ」
「オイ、それ結構炭酸キツいんだぜ。ほら、背中」
「げほっ、ごめん、げほっ」
彼に背中を撫でられる内に喉の痛みは治まった。
「大丈夫か?」
「うん。大丈夫。初めてだったからびっくりした。これが炭酸の味なんだね」
「……ああ。お前、本当につくづく……なんだ、クソ。気になる奴だな。友達とかいねーだろ」
「? そんなことはないよ。友達はいるよ」
「そうかい。じゃ俺の了見の問題だ」
ボスは押し入れから布団を二つ引っ張り出すと、それを地面に転がしてぼくをそこに連れて行った。
「布団はある。好きに使え」
それっきり、ボスは再び机に向かい始めた。
彼は再び何かを書いたり虚空を見つめたり、或いは眠りそうになりながら異様な執念でそれに向かい合い続けていた。
「寝たか? 寝たことにしておく。これは独り言だがな。一つだけ言っておく、俺たちの間で過去の話は厳禁だ。みんな理由があってここにいる。そしてここでようやく笑って生きられる方法を探してる。俺たちに過去は要らないものだ。だから、コスガにもオオスカにもくれぐれも昔の話はするな。以上だ」
彼は背中を向けたままそう告げると、洗面台に歩いて行った。
「お前もさっさとその人捜しが終わって、その“家”に帰りやがれ。調子が狂って困るんだ。ああ、さっさと帰って、また不抜けて幸せに暮らしやがれ。お前の知ってる本当の『家』ってやつでよ。ああ、忌々しい」
ぼくは目を瞑ったまま、彼の声色が微妙に上下するのを聞いていた。
けれどその声色の上下は、家というものを忌々しく思っている人間のそれではないように思えた。彼が本当にぼくのことを思って言ってくれている……強い語気や口調で場を支配する彼の仕草や態度、それにそぐわないと感じるほどに優しく、それでいて落ち着くようなものだった――。けれどその様はどこかもの悲しい含みを持っているようにも感ぜられた。
禁じられてはいるものの、それでも彼の寛大でなお緊迫した絶妙な均衡は、なるほど少年である蕾の身にして興味惹かれるところではあった。彼がどうしてこんな精神性を身につけたのか、彼がどのようにして彼になったのか……どうして一人でいようとするのか。いつか聞いてみたい――そう思わせる魅力があった。
電灯の灯りが落ち、となりの布団へ倒れ込む音が聞こえた間もなく彼の寝息が聞こえた。
『おやすみ、ボス』
労りの気持ちを込めて、蕾は心の中で呟いた。願わくば、明日には光明の刺さんことを。
応援ありがとうございます!
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