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第58話 翠黛
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廃教会の丘。
この場所は特殊な力場が存在している。かつての文明の遺産が、このお椀をひっくり返したような土塊の下に眠り続けている。
車を降りると、星屑を両手いっぱいに集めてばらまいたような空が拡がっていた。今度こそ眠りこけた姪を背負って、舗装されていない砂利と土くれの道を踏みしめていく。
足下には既に三つの足跡があった。向かう方向は同じだった。
「……断頭台への道、か。こう見れば錆び付いた暗いだけの道だ。ぼくは、ずっとこんなものを怖がっていたのか」
左右に覆い被しリースのような木々の間を抜けて、拓けた平地に出る。
そこには新しくやってきた一木以外の影が既に二つあった。
「おじさん……! 悠里も」
「――篠沢、さん」
礼香は相変わらず一木を訝るようにオーバーサイズの端を指先でも握り込んで睨み付けていた。
一木は一つため息をつき二人に近付くと、ポケットに入れてきた飴を差し出した。
「緊張してるね、レモンキャンディはどうだい。甘い味覚と爽やかな香りは人間をリラックスさせてくれる」
「いい。もうちょっとピリピリしてたい」
「……要りません」
「つれないな」
一木はわざとらしく首を振ると、促すように口を開いた。
「では移動しようか、タイムマシンのある場所に」
「待ってください」
幼い体躯が一木の前を遮った。
その瞳は何かを訴えるように赤く煌めいて峻厳な趣を放っていた。
「お父さんは、本当に悪人だったのでしょうか」
「……君はこの世界が今どうなってるか、しづるくんに聞かなかったわけじゃないだろう。それを聞いてもそう思うのかい」
「思います」
礼香は断言し、舌鋒鋭く言葉を続けた。
「お父さんは、そんな人じゃなかったから――! あなたたちは知らないでしょうけど、お父さんは――」
礼香は言葉にする度錆び付いた錠前で閉じられた記憶の扉に罅が入り、懐かしい触覚と目の当たりにした光景が閉じられたアルバムを開くように湧き戻ってくるのを感じていた。
毎日手を繋いで湖畔を散歩したこと、一緒に魚釣りをして糸を絡ませたこと、夜中に空を見上げてお祈りをしたこと――そのどの光景も、カリナは静かに微笑んでいた。幼い礼レイカの手を引いて、抱きしめて愛と祈りの言葉を囁きながら、決して豊かではなかったなりに必死で愛してくれていた。そしてその父のことを最も愛していたのは礼香だった。
「家族を愛した人だったんです、物静かだったですけど、私もお母さんも――誰よりも大事にしてくれてた。村に置いてきてしまった友人のことをずっと心配してた! そんな人が、そんな人が世界を滅ぼすなんて、できるわけがない、ないじゃないですか……!」
嗚咽混じりに言葉を繋いで、その瞳は敵意で一木を睨み付けていた。一木は礼香を睥睨し、その表情から何かが揺れた痕跡は読み取れなかった。
「おじさん、一つ、策があるんだ。聞いてくれないか」
「……なんだい、しづるくん」
「タイムマシンの先で、カリナと話をしてみようと思ってる」
「しづるくん、抗うための力を持っていない君では真正面からいくのは余りにも危険すぎる。容認できない」
「違うんだ。逆なんだ」
しづるには職業的直感があった。
状況は煩雑だ。とても片面的な対処は求めるべくもない。しかし聞くに、そのカリナという人はそも適切な社会性を獲得しているのだろうか――?
まずしづるが立ち戻ったのが、そこであった。彼は少年時代を孤児院で暮らし、そして託される形で森に隠れ、礼香の母親と結婚し礼香を成した。そして運悪く戦いが起こり、その関係性も無に帰した――。
……その後、彼は憎しみから世界を滅ぼそうと画策する。自分の娘は殺されたと思い込んでいるのだろう――。
彼に会わずに彼を観察することはできないが、経歴からどのようなものが欠乏していたかを推測することは難しくない。
「例えば――『力を持っていないこと』の方が重要だと思うんだ。その頃の彼は、湖と住処を焼かれて、礼香と妻を失った頃なんだろ? じゃあむしろ、力のあるものが近付けば攻撃してしまう可能性が高い。穏便に話し合いができるとすれば――」
「力がなく、ヤツのやろうとしている計画も既に知っている――君たちのような存在が適格だと言いたいのだね」
「……ああ、わからないわけじゃないだろ? それにさ、多分。これは俺の予想だけど、カリナは恐らく何かしらの社会的関係性を求めてる。ターニングポイントは、推測するにここまで三つ。何かがカリナを変えたんだ」
「……続けたまえ」
堂に入った語りはじめに、一木はしづるに大きな気付きが現れていることを悟った。それは“変化”を予期させるものであることは間違いなく、それも今まではなかった可能性に言及するものであるに違いない。出尽くしたはずの可能性に対する考察である。耳を傾けるに値するだろう。
「これはまず一つ目、カリナの親が居なかったということ。これがなければまず孤児院に入っていなかったから未来は違ってた。同時に大人――抑圧する者――に対しての不信感の根底になる出来事である可能性が極めて高い」
「ふむ」
「そして二つ目は、友人達を犠牲に村から逃げ延びたこと。これは庇護してくれていた大人に対しての決定的な不信を確固たるものにしたはずだ。ただ幸運なことに、さっきの礼香の言葉を聞くに、カリナは最後まで友人達がどうされたかを知ることはなかったということだ――」
「最後は?」
「ああ、三つ目は言うまでもなくおじさんの率いる部隊に襲撃され、娘と妻を失ったこと。間違いなく組織の人間は彼の目に外部の人間の指標として映ったはずだ。じゃあ、彼の目に世界はどう見えているだろうか……と俺は考えるわけだ」
「……なるほど、彼は今も外の世界の人間全てが自分を攻撃するものだと思っており、娘も妻も失った自分には誰も味方がいない、と」
「そういうこと。なら、味方――操れる他人と同じ意味になっている可能性も大きいが――を作るにはどうすればいい?」
「世界をまるごと操ることができれば、か。確かに筋としては通っているね」
「ああ、だからこそ俺はカリナと話がしたい。もし彼の痛みを癒やしてやることができるなら、それは礼香だけだ。俺達の中で彼の世界を傷付けなかった属性を持っているのは子供で、更に実の娘である礼香だけなんだ。だから俺はカリナと話がしたいし、できると思っている」
しづるの右手は、礼香の左手を掴んだ。
驚いて視線を向けた礼香にしづるはこくりと頷いた。
「それにおじさん。俺は礼香も幸せにしてやりたい。寂しかったって思うんだ。だから勝てる確率が1%もない賭けに出て、最後は礼香が悲しまなきゃいけない未来より、俺は――誰も悲しまずに済む未来に賭けてみたい」
「誰も悲しまずに済む、未来か」
「ああ、未知数の未来。誰も予測できなかった、遠くて近い未来を」
逡巡するように空を見上げ、これまでの長い道のりを想う。
全てはカリナに奪われたものを取り戻すため、この子達の未来を繋ぐため。
そう思い続けていたはずだった。誰もが助けられる未来を、僕だって望み続けていたはずだった。
その為の道だったはずだった。
だから、疑うこともなかった。ただ進むことが出来た。
カリナを殺す。完膚なきまでに上回り、今度こそカリナの息の根を止める。連鎖する禍根の輪は僕が断つ――。
それでしか雪げない。
カリナは僕の映し身だ。両親を失い、世界との繋がりを失い、異端に身を擁されて立ち、大切なものを失った。
きっとどちらも鳥の目から見れば蠱毒の瓶をのたうち回る毛虫に過ぎないのだろう。蝶にも蛹にもなれず、地を這い回り太り続けるだけの。
蠱毒の中で引き合えば食らい合い、またどこかから生まれ食らい合う。どこまでも無間地獄だと解りながら、それでも、それしか知らなかったから。ただ、殺し合った。
「僕の負けだ、しづるくん」
――ああ、そうか。
ぼくは可能性を収斂させ続けて結果を求め続けたけれど。
――これが、僕の求めていた可能性というものか。
違ったのかもしれない。無限に拡がるものにこそ、求めていた答えはあったのかもしれない。
「ありがとう。きっとおじさんなら解ってくれるって思ってたんだ」
この場所は特殊な力場が存在している。かつての文明の遺産が、このお椀をひっくり返したような土塊の下に眠り続けている。
車を降りると、星屑を両手いっぱいに集めてばらまいたような空が拡がっていた。今度こそ眠りこけた姪を背負って、舗装されていない砂利と土くれの道を踏みしめていく。
足下には既に三つの足跡があった。向かう方向は同じだった。
「……断頭台への道、か。こう見れば錆び付いた暗いだけの道だ。ぼくは、ずっとこんなものを怖がっていたのか」
左右に覆い被しリースのような木々の間を抜けて、拓けた平地に出る。
そこには新しくやってきた一木以外の影が既に二つあった。
「おじさん……! 悠里も」
「――篠沢、さん」
礼香は相変わらず一木を訝るようにオーバーサイズの端を指先でも握り込んで睨み付けていた。
一木は一つため息をつき二人に近付くと、ポケットに入れてきた飴を差し出した。
「緊張してるね、レモンキャンディはどうだい。甘い味覚と爽やかな香りは人間をリラックスさせてくれる」
「いい。もうちょっとピリピリしてたい」
「……要りません」
「つれないな」
一木はわざとらしく首を振ると、促すように口を開いた。
「では移動しようか、タイムマシンのある場所に」
「待ってください」
幼い体躯が一木の前を遮った。
その瞳は何かを訴えるように赤く煌めいて峻厳な趣を放っていた。
「お父さんは、本当に悪人だったのでしょうか」
「……君はこの世界が今どうなってるか、しづるくんに聞かなかったわけじゃないだろう。それを聞いてもそう思うのかい」
「思います」
礼香は断言し、舌鋒鋭く言葉を続けた。
「お父さんは、そんな人じゃなかったから――! あなたたちは知らないでしょうけど、お父さんは――」
礼香は言葉にする度錆び付いた錠前で閉じられた記憶の扉に罅が入り、懐かしい触覚と目の当たりにした光景が閉じられたアルバムを開くように湧き戻ってくるのを感じていた。
毎日手を繋いで湖畔を散歩したこと、一緒に魚釣りをして糸を絡ませたこと、夜中に空を見上げてお祈りをしたこと――そのどの光景も、カリナは静かに微笑んでいた。幼い礼レイカの手を引いて、抱きしめて愛と祈りの言葉を囁きながら、決して豊かではなかったなりに必死で愛してくれていた。そしてその父のことを最も愛していたのは礼香だった。
「家族を愛した人だったんです、物静かだったですけど、私もお母さんも――誰よりも大事にしてくれてた。村に置いてきてしまった友人のことをずっと心配してた! そんな人が、そんな人が世界を滅ぼすなんて、できるわけがない、ないじゃないですか……!」
嗚咽混じりに言葉を繋いで、その瞳は敵意で一木を睨み付けていた。一木は礼香を睥睨し、その表情から何かが揺れた痕跡は読み取れなかった。
「おじさん、一つ、策があるんだ。聞いてくれないか」
「……なんだい、しづるくん」
「タイムマシンの先で、カリナと話をしてみようと思ってる」
「しづるくん、抗うための力を持っていない君では真正面からいくのは余りにも危険すぎる。容認できない」
「違うんだ。逆なんだ」
しづるには職業的直感があった。
状況は煩雑だ。とても片面的な対処は求めるべくもない。しかし聞くに、そのカリナという人はそも適切な社会性を獲得しているのだろうか――?
まずしづるが立ち戻ったのが、そこであった。彼は少年時代を孤児院で暮らし、そして託される形で森に隠れ、礼香の母親と結婚し礼香を成した。そして運悪く戦いが起こり、その関係性も無に帰した――。
……その後、彼は憎しみから世界を滅ぼそうと画策する。自分の娘は殺されたと思い込んでいるのだろう――。
彼に会わずに彼を観察することはできないが、経歴からどのようなものが欠乏していたかを推測することは難しくない。
「例えば――『力を持っていないこと』の方が重要だと思うんだ。その頃の彼は、湖と住処を焼かれて、礼香と妻を失った頃なんだろ? じゃあむしろ、力のあるものが近付けば攻撃してしまう可能性が高い。穏便に話し合いができるとすれば――」
「力がなく、ヤツのやろうとしている計画も既に知っている――君たちのような存在が適格だと言いたいのだね」
「……ああ、わからないわけじゃないだろ? それにさ、多分。これは俺の予想だけど、カリナは恐らく何かしらの社会的関係性を求めてる。ターニングポイントは、推測するにここまで三つ。何かがカリナを変えたんだ」
「……続けたまえ」
堂に入った語りはじめに、一木はしづるに大きな気付きが現れていることを悟った。それは“変化”を予期させるものであることは間違いなく、それも今まではなかった可能性に言及するものであるに違いない。出尽くしたはずの可能性に対する考察である。耳を傾けるに値するだろう。
「これはまず一つ目、カリナの親が居なかったということ。これがなければまず孤児院に入っていなかったから未来は違ってた。同時に大人――抑圧する者――に対しての不信感の根底になる出来事である可能性が極めて高い」
「ふむ」
「そして二つ目は、友人達を犠牲に村から逃げ延びたこと。これは庇護してくれていた大人に対しての決定的な不信を確固たるものにしたはずだ。ただ幸運なことに、さっきの礼香の言葉を聞くに、カリナは最後まで友人達がどうされたかを知ることはなかったということだ――」
「最後は?」
「ああ、三つ目は言うまでもなくおじさんの率いる部隊に襲撃され、娘と妻を失ったこと。間違いなく組織の人間は彼の目に外部の人間の指標として映ったはずだ。じゃあ、彼の目に世界はどう見えているだろうか……と俺は考えるわけだ」
「……なるほど、彼は今も外の世界の人間全てが自分を攻撃するものだと思っており、娘も妻も失った自分には誰も味方がいない、と」
「そういうこと。なら、味方――操れる他人と同じ意味になっている可能性も大きいが――を作るにはどうすればいい?」
「世界をまるごと操ることができれば、か。確かに筋としては通っているね」
「ああ、だからこそ俺はカリナと話がしたい。もし彼の痛みを癒やしてやることができるなら、それは礼香だけだ。俺達の中で彼の世界を傷付けなかった属性を持っているのは子供で、更に実の娘である礼香だけなんだ。だから俺はカリナと話がしたいし、できると思っている」
しづるの右手は、礼香の左手を掴んだ。
驚いて視線を向けた礼香にしづるはこくりと頷いた。
「それにおじさん。俺は礼香も幸せにしてやりたい。寂しかったって思うんだ。だから勝てる確率が1%もない賭けに出て、最後は礼香が悲しまなきゃいけない未来より、俺は――誰も悲しまずに済む未来に賭けてみたい」
「誰も悲しまずに済む、未来か」
「ああ、未知数の未来。誰も予測できなかった、遠くて近い未来を」
逡巡するように空を見上げ、これまでの長い道のりを想う。
全てはカリナに奪われたものを取り戻すため、この子達の未来を繋ぐため。
そう思い続けていたはずだった。誰もが助けられる未来を、僕だって望み続けていたはずだった。
その為の道だったはずだった。
だから、疑うこともなかった。ただ進むことが出来た。
カリナを殺す。完膚なきまでに上回り、今度こそカリナの息の根を止める。連鎖する禍根の輪は僕が断つ――。
それでしか雪げない。
カリナは僕の映し身だ。両親を失い、世界との繋がりを失い、異端に身を擁されて立ち、大切なものを失った。
きっとどちらも鳥の目から見れば蠱毒の瓶をのたうち回る毛虫に過ぎないのだろう。蝶にも蛹にもなれず、地を這い回り太り続けるだけの。
蠱毒の中で引き合えば食らい合い、またどこかから生まれ食らい合う。どこまでも無間地獄だと解りながら、それでも、それしか知らなかったから。ただ、殺し合った。
「僕の負けだ、しづるくん」
――ああ、そうか。
ぼくは可能性を収斂させ続けて結果を求め続けたけれど。
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