白い夏に雪が降る【完結済】

安条序那

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第63話 欺瞞

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 月明かりが円を描く空洞の中には、突き刺さるほど張り詰めた空気が満ちていた。
 それはここに立つ全ての人間が過去に心を置き去りにしてきた人間達であるからなのか、それとも悍ましくも圧倒的な技術力を持ちながら天候の変化に飲み込まれ、或いは先祖返りによって全てを奪われたハイパーボリアの亡霊達の魂がそうさせているのか、それを問うても応えるのはのは打ち棄てられたコロニーの反射音だけだ。今は知る者などどこにも存在しない。しかし三者三様に振る舞うこの地の底には、足に絡みつく面影が糸のように張り巡らされているのだった。

「……」

 両者の間合いは十メートル程、一息に踏み込むには人間では足りない。しかしそのような理など、理から外れた者たちにとっては駆け引きの道具でしかない。だがこの間合は明確に一木達の有利に働いていた。

「――」

 音もなく仮那の影が消えて、空間が波紋のように唸って歪む。これは不可解に時間が引き延ばされて仮那が音速か、それ以上の速度で移動していることを示す嚆矢である。
 瞬間的に一木ともどるは背中を合わせて構えを取る。
 埒外の対策しようのない時間の引き延ばしにも、戦略的な点では対策がある。それは攻撃をこちらから仕掛けないことだ。例え仮那からの攻撃がどれもこちらの命を奪い去る一撃だとしても、二人という人数的な有利と一木が持つ再生能力は仮那にとって大きすぎる不安材料になっているのは間違いなかった。だからこそこうして仮那は飛び回りながら、こちらから仕掛けられないように攻撃をしてこない。もし仕掛けてくるとすれば――。

「甘い☆」

 もどるの構えた長い銃口から焔が迸った。
 爆発音と共に音もなく放たれていた黒槍が砕け散った。
 同時に一木はもどるの隣に波紋の収束点を見た。仮那は既にそこに現れている。
 遠隔から陽動し連射の効かない射撃を誘導の後、自らの攻撃で仕留める。組み立て方としては理に叶っていたし、一木もそれが読まれていることも知っている。しかしもどるが避けることは不可能だ、ましてや受けることなどなにをか況んや。であれば、ある程度の被害はあれども受けるのは一木でなければいけない。
 一木は蓄えた爪の残照一掬い残さず振り翳して波紋の収束に向かって打突した。当たれば間違いなく砕け散るだろう、頭蓋、内臓、表皮、血管、あらゆる人体を破壊するに十分だろう。決して外さない速度と威力、それを兼ね備えた一撃である。あくまでも空間及び時間魔術に傾倒している仮那もまた、これを『受けることはできない』。そもそも当たる想定をしていないのだ。当たるはずがないのだから。つまり一撃通すか、通されるか。それが勝負の分水嶺だった。

「――!」

 轟音の最中に一木の手が止まる。百分の一秒か、それとも千分の一秒、不穏な気配に水際で一木の直感は肉体を制止させ反転の構えを取った。
 止まった鋒の半紙一枚先にあったのはもどるの頭蓋だった――攻撃を見通した仮那が移動させたのだろう。仮那としては一木に触れることなくもどるを処理できればそれが最良だと考えているのだ。一木はこめかみに血液が集まるのを感じて吐き捨てた。

「くそっ!」
「イチくん!」

 反転の構えを取る一重を先んじてもう一撃の発砲音。もどるは既にこの先を読んでいたのか一木のフォローがなくなった背後に対して照準射撃を行っていた。丁度弾丸の先読み地点に仮那の影が現れて消える。仮那は相も変わらず高速で動作しながらも、その弾丸を避けるために斜め後ろ方向へ向かって跳躍し距離をとらざるを得なくなっていた。
 かくして再び距離は離れ、仮那を纏っていた波紋が解かれた。

「……はあ、はぁ――」
「ふ……は」

 両者ともが肩で息をしていた。一木にとっては極限まで精神を研ぎ澄まし、思考の限界で状況を判断しなんとか無傷で済んだ一局に対し、仮那は有利に見えこそすれ本来なら一度で済むはずだった試行回数を増やされ、一木の謎に対しての情報が足りないばかりに一度安全圏まで引き直しを強要されている。ハイパーボリアの結界がカリナの消費を加速度的に増大させ、更に補給を断たれている今、この戦局は長引けば長引くほど一木ともどるにとって有利に働いていた。

「……だが」

 現在の一合を見るに時間停止は疎か時間潜行深度までが限定されている。こちらの兵装は祝福を与えた晶石アムリタ六ヶ。限界値はあと現実時間十五秒分か――。

 仮那は調息しながら一歩、二歩とその距離を詰め始めた。

……奴らの戦力の基本はツーマンセルによる戦闘力を補う攻撃範囲と判断力である。こちらが一人に対してあちらは二人でようやく防衛と言ったところ。あの訳の分からない再生能力が気になるが、戦闘能力自体はそこまで恐るるに足りない。特にやはり脆い女の方は狙いやすいと見た。狙えば突き崩すのは容易か――否。真の鬼門はあの女の判断力だ。狙われることを分かっていてこちらを牽制しつつ既に俺の引く場所を予見していた。思い出す――時が止まっているにも関わらず俺の攻撃を防いで見せたあの女に似ている、しかしなぜここに――?

 それを受けるように一木はゆっくりともどると背中を合わせると躙るように下がった。

……そう簡単には通らない、か。当然だ。ヤツは時間停止を防いだからと言っても何十倍もの速度の世界で動いてくるのは必定。想定通りに動いたとしても最後まで完全にはなり得ない。もどるさんが傷付けられるのはまずいが、それは仮那だって想定済みの挙動であるはずだ。これからはより彼女を狙ってくるはず――。しかし奥の手を見せずにここまで来られたのは僥倖だ。間違いなく後の戦局に響いてくる。もう一度僕たちはアイツを罠に掛けねばならない、それもほぼ空手で――。

「イチキ――お前の目は、俺の時間を捉えているな。俺の世界が、そして世界の揺らぎが、時間が」
「……見えているさ。お前を殺すために完成させた目だ。異端を殺すために、あの日のように見捨てなくてもいいように」

 仮那の表情が険しくなり、纏う影は高く揺らいでいた。

「なぜそれほどまでにパシフィストでありながら、なぜお前はヒト共の味方をする。なぜ俺達のような異端を殺すために歩き回る?」
「誰もこれ以上傷付けないためだ。お前のような人間を一人でも減らすためだ。それを一度でも見失ったことはない」
「貴様――!!!」

 瞳が瞋恚に燃えた。仮那は我を忘れて跳んでいた。あれほどの過ちを侵しておきながら、なお絵空事の正義を振り翳すその生命は絶たねばならない。娘を妻を友人達を――自分から全てを奪い去ったその男はこうして臆面もなく眼前に立ち虚構を並べ諳んじている、許す訳にはいかない。許してはならない。思い出せない笑顔、思い出せない幸せな記憶、俺が人間であれた時間、遡って溢れる郷愁が俺を全て憎悪に駆るのだから――それは全てシノサワイチキこの男に奪われたせいなのだから。
 
「避け――て!」
「――!」

 もどるは叫んだ。一木の動きがおかしい。前のめりに爪を構えて明らかに臨戦態勢だ。速度の差がありすぎる。例え不死性があったとしても痛覚はあり、破壊された部位の再生には『ふさわしい』苦痛が再生の代償として支払われるのだ。それが篠沢家の不死の異端である。
 仮那が飛び出した瞬間、速度によって空間は収縮して世界が蒼く染まる。
 声が遅れて聞こえる。一木は仮那が捨て身の刺突をこちらに向けて放っているのを視認すると、あろうことかそれに目掛けて正面から突っ込んだ。

「お前は生かしてはおけない――! 俺の時間に入り込んだ蟲、潰してやる――! 俺と妻の繋がりにさえ割って入ろうとする貴様のような者は! 世界と共に捧げてやる、お前はこの世界に捧げる供物だァアーーーッ!!!」
「ああ、ぼくは供物だ。誰かの目を楽しませる為にこれから見捨てられて死ぬ運命、ただの人形だ――。けれどそれはお前も変わらない。この場所にもう先はない。僕達はもう既に十年前から行き詰まった、そこからはもう落ちていくだけだった。違うか?」
 
 爪と槍が音と反応を越えた世界でぶつかり合う。鎬が削れて掘削音と火花がお互いの表情を歪めるほどの熱を放つ。
 目を見開いていたのは仮那だった。
 一木が完全に速度に対応している。誰にも破られることのなかった時間圧縮による反応速度を無視した突進を、あろうことか『反応』している。

「もう出し惜しみはしない。お前を倒すために、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度もやり直した! お前から奪うために! 僕の妻の敵を討つために――! 奪われたものを取り戻すために、そして僕らが終わりを迎えるために!」
「終わり、だと? 終わりなど来させない。俺達の世界は終わらない。復讐は終わらない、お前を殺そうと、世界を殺そうと、何を壊そうとも失ったものはかえってこない! だからこのまま、俺は壊し続ける、失ったものが再びかえってくるその日まで、この世界もお前も壊し続けてやる――! 最後の一日を無限に先延ばしすれば、いつかは極点を超えて届くはずだ。あの日に届くはずだ、そこでお前を殺せばレイカに会える、妻に会える――!」
 
 仮那の表情が初めて笑みに歪んだ。アルカイクスマイル、それは絶望と希望、無限に迫り来る時間の波に正気の影が失せたものの笑顔だった。

「ははっ……うぅは――! ははっ……! お前だけが障害なんだ。いつも、いつも、いつもいつも! お前さえいなければ俺の望みは叶えられるのに! お前さえいなければ――!」

 一木と仮那がぶつかり合う度に空間が爆縮めいた激しい膨張と収縮を繰り返して色と光が砕けて散る。速度は最早人体の目には一つとして確かな像は映らない、そこにはズレた光の帯が絡まり合って砕けたプリズムのように乱反射した光が埋め尽くされているだけだ。もどるがそこに立ち入る余地はもうなかった。ここから先は命のやりとりではない。分かっているのだお互いに。お互いではもう殺せない。殺し合いにはなり得ないのだ。

「ああ。僕も同じさ。仮那――けれど僕の結論はお前とは違う。俺達はお互いに壊し合おうとして壊せなかった。だから僕たちの因果はより激しくお互いに絡み合って、離れられなくなってしまった。だから仮那――」
「それ以上、は、黙れ――!!!」

一木と仮那はお互いに必殺の間合いを捨ててゼロの距離で組み合った。

「僕と一緒に、この世界から消えよう。跡形も残さずに。僕たちは憎しみあった。悲しみと恐怖と闇しかないこの世界に許された、ほんの少しだけの幸せをお互いに零し合った――。そしたら、どうなった? この世界は今僕たちの涙が沈めて壊そうとしているんだ。だから、消えよう。僕らにはもうそれしか許されていないのだから――!」
「俺は、捨てない――! 希望を、未来を、いつか、いつかレイカとあの子にもう一度だけ……! ぐ、おあああああーーーーーーッ!」

 再び浮き上がった羽根が一木を取り囲むように配置され、それが間髪入れずに射出される。一木は動けず、その羽根が断罪の槍で磔刑にされるように、何度も何度も突き刺し抉り削り取る。

「イチくん――!」

 もどるは組み合って動けない一木を狙う羽根を撃ち落とす為に射撃を開始した。 

「ダメだ、もどる!」

 一木はその気配を察知し叫んだ。今仮那の意識を引くということは、即ち攻撃されることを意味している。この羽根は例え並外れた状況判断能力を持っているとしても、到底避けられるものではない。
 一木は咄嗟に自らの腕をとかげが尻尾を切るように切断し背後に飛び退こうとしたがそれを防ぐように新たな羽根に貫かれた。

「当たるかっての……♪」

 もどるは曲芸のように半球を描く軌道から放たれ続ける黒槍を舐めるように一重で避け続ける。黒槍の発射タイミングはどんどん複雑に、真贋入り交じるというのにその表情には曇りはない。

「そんなもの? 甘い甘い」

 ポーチから弾薬の装填を済ませ、コッキングして銃口を仮那に方向に向ける。

「あれ――?」

 銃口が仮那に向いた瞬間、もどるは理解した。
 そこにヤツは、もういなかった。

「まず――い」

 自分の言葉が耳で聞こえた頃には、もう遅かった。
 腹部には、丸い空洞があった。赤い飛沫が水たまりになって、足下の赤黒く粘る水面に仮那の影が見えた。

「あ――あ」

 

「幸運だった」

 鉄錆びた影が三日月に微笑んでいる。槍の先には、捕らえられた獲物のようにもどるがぶら下がり、その肉体は軋みながら弾力で百舌の早贄のような歪な倒れ方をしていた。

「お前があの男と同じ俺の速度が視える眼を持っていたならこうなっていたのは俺だった。脳による即死を狙えなかったのは、単純に俺の時間が足りなかったからだ。これだけの時間的アドバンテージがありながら、お前を完全に封殺することはできなかった。誇れ」

 仮那は槍を持つ逆の手に、切り落としたもどるの左手を持っていた。
 もどるの白く美しい蕾のような指先は開き、安全装置の外れた無骨な黒いボタンのコントローラーが零れ落ちた。

「俺ごとこの爆薬でやってやろうとしていたんだろう? 環状に並べた熱と飛礫の衝撃波なら例えどれだけの速度で動けようと関係ない。時さえ停止められなければ。上手く免れたとしても俺が激しく損傷を負うことは避けられないわけだからな。そしてそんな虎の子をここで使うってことは、あの男が殺しきれなければ自分は殺されると予見できていた訳だ。正しいよ、何もかも正しい。運さえ悪くなければお前の勝ちだった」

 忌々しそうに仮那は腕を投げ捨てると、槍を引き抜いた。

「獲物は必ずこの手で仕留める、それが小さな誇りだった。お前が初めてだよ」

 ――。
 もどるにはまだ意識があった。好機を伺っていたのだ。
 仮那にはある癖がある。今この瞬間なら、その癖を捉えることが出来るはずなのだ。互いに消耗は激しい、今なら人間と人間の争いの範疇内になる。
 もどるはただ待っていた。体は動かしてはならない。動ける秒数はあとどれくらいか、一縷の望みをかけるためにはあちらが射程内に収まりに来てくれるしかない。
 あと二、三歩。心臓の拍動が弱まっていく。背筋に怖気めいた冷たさと震えが来た。動くな。私はまだ役目を果たしきっていない。たった数十センチ、たったそれだけ近寄りさえすれば――。
 仮那に動きがあった。緩やかに、足音がした。

「まるで俺の中身が見られていたような行動だった。恐ろしい、素直に思ったよ。あの男が羽根で押さえつけられなかったら、或いはお前の手の中に隠して握られていた『これ』に気が付かなかったなら、羽根の当たり所が違ったなら……俺の負けだった。だから、これ以上は近付けない」

 深々と突き刺さった槍は右肺中部から脇腹を分断していた。気道には血液が逆流し、呼吸器は既に機能を停止していた。酸欠による意識の低下と激痛による意識の混濁は避けられない。だというのにもどるにまだ意識があるのは、過酷な訓練によって培われた極限状態での継戦能力がほんの少し、まだ肉体を活かしていたからだった。
 もどるの口からは赤黒い瀉血が力なく押し出され、肉体はだらりと垂れ下がった。
 
「かっ……」

 どしゃりと音を立てて肉体が地面に投げ捨てられた。
 思考を遮るノイズは波を打つように大きくなっていく。眼前に広がる世界を意味として構成する認識が崩れていく。それでももどるは待ち続けた。例え最後だとしても、こちらから仕掛けるのは無意味だ。緩やかになるはずの鼓動の音が余計に耳につく。空洞になっていく身体がわかる。血管の隅々が空で拍動を打っている。足音が遠ざかる。眠りが、そこまで近付いてくる。

――イチくん。ごめんなさい。ちょっとだけ、張り切り過ぎちゃったかも。折角あの頃みたいに暴れられるはずだったんだけど。けど、まだ策はある。そう、生きてさえいれば。大丈夫、きっとチャンスがある。眠っちゃダメだよ。わた■■■まだ、イチくんを■■■■■■……。

 仮那は一歩一歩と背後へ後退る。
 目を離してはいけない。目を離せばそのまま致命になる“なにか”を持って行かれる可能性がまだある。それがこの女の抜け目なさ、段取りの能力だ。まるで未来が見えている。誰よりも早く動けようと、気を抜けばたちどころに危険水域まで押し下げられる。こちらの脳は先の打ち合いで疲弊しきっている。これ以上の術の連続使用は魔術酔いを起こす自殺行為だ。少しでも時間を稼がねばならない。……それに投げ捨てた時、腕を身体の下にするように隠して倒れたような気がする。まだ何か策があってもおかしくない――。
 歯噛みしながらただ時を待つ仮那の胸中にあったのは、恐怖と清々しさの入り交じった斑紋の感情だった。戦士としての尊敬と、『まだ何かを隠していて、この死体でさえも囮ではないか?』というまるで偏頗へんぱな妄想である。死を確認できなかったこと、必ず自らの手で死を与えるというルーティンを崩されたこと、最初に見た一木の死を確認したにも関わらず復活されたこと、それが複合した神経毒のように仮那の思考を拘束していた。疑惑が暗雲重々に垂れ込めて、卓越した細やかな観察眼は封印されていた。繊細だからこそ気付けた疑惑が、そのまま繊細さによって自縛の軛になっていた。
 そろそろイチキを確認しなければならない。ヤツを今も拘束できているか、槍の雨を抜け出しているのか、仮那は分かっているにも関わらず、目の前の死体に槍の鋒を合わせていた。そして擲つために振りかぶった。

――もう一度穿てば今度こそ恐怖はなくなる。絶対に大丈夫だ。一秒でも早くこの恐怖から逃れなければならない。俺は二人と戦っているのだ。こちらばかりに気を取られていてはならない。俺が狭窄している事実がまずい。こんなことはあり得ないのだ。あり得ない、だからこの女を殺して安心しなければならない。確実に、確実に殺さなければ! さもなければ俺が死ぬ。負ける。あり得ないことが起ころうとしている。

 仮那はそれを振り下ろすに当たって、肉体が言うことを聞かないのを自覚していた。

「っ……なぜだ! なぜ俺は今、この女に近寄っているんだ? 擲てば間違いなく殺せるのに、どうして俺の足は――」

 一歩、一歩と近付くにつれ心音が大きくなっていく。取り返しの付かないことをしている。だがそうしなければ安心できない。病的な思考はみるみるうちに仮那に短絡的な行動を強制させていた。ほんの小さなものだった筈の不安は遂に大口で笑う三日月だ。水溜まりに映った自分を恐れるように仮那は歩み始めると、遂に禁を破りもどるの傍に立つと、引き攣った笑みで槍を振り下ろす。脳からの命令が伝わる。槍を放り投げる。手を上げる。

「殺せェ――!!!」

 堪えきれずに振り下ろした手刀はもどるの頭蓋に突き刺さる。頭蓋から噴水のように溜まった血が噴き出し、噴水のように迸る。それを満足そうに仮那は立ち上がる。幻想が未来を脳裏に映した。

「ォぁがっ……!?」
 
 仮那の右手を掴んだ者が居た。
 醜く赤く腫れて鱗に覆われた凄惨なる爪、忘れもしない一木の左腕である。押しても引いてもびくともしない。その力は万力の如く不動で、山にでも押し潰されているような激痛が仮那の腕に走った。
 
「ここ……だ☆」

 紙一重で止められた腕に、小さな注射器が刺さっていた。中に入った薬液はみるみる内身体組織の中に吸い込まれていく。

「あああぁあーーーーーッ!!!!!!!!!!!!!」

 仮那はその事実に叫んだ。何をされたのかわからない。今の間に何が起こったのか、仮那の脳内にはもう冷静さを司る場所などひとつもなかった。

「ふ――」
 
 腰を落としたのは一木だった。右腕の爪は仮那の首を掴んで左手はぱっと離す。鬱血していた腕に血液が急激に流れ込み、ポンプに押し出されたように薬液が腕を通り体内に流れ込む。

「――!!!」

 土壇場で仮那は手刀を自らの腕に放ち腕を切り離すと、切り口を一木の顔に向けた。

「うっ」

 飛び出した血液が一木の視界を奪う。その瞬間に持ち得る限りの黒槍で一木の身体を再び針の筵にしようと刺突する。両目、鼻、耳、肺、心臓、頸椎、脳、あらゆる急所を狂いながら抉り穿ち抜き壊す。一木の肉体はぼろきれのようになりながら、尚も仮那を捉えた腕は放さない。

「無駄だ、カリナ。もうお前にこれを抜ける術はない。ぼくは死なない。もう死ねない」
「うぁああああああああああああああああああああ嘘だ嘘だそんな――そんなはずはない! お前は死ぬ。必ず死ぬ。ここで死ぬ。俺に娘と妻を殺した懺悔をしながら、生まれたことを後悔して死ぬ! 殺す、殺してやる!!!」
「仮那――! 聞け!」

 一木は仮那を地面が割れるほどの威力で叩きつけた。仮那は背中を跳ねさせ小さな呻きを上げると、為すがままに一木は馬乗りになった。

「ありがとう、もどる。頼む。もう少しだけ待ってくれ――」
「……」

 もどるは満たされたように仰向けに空を見上げて小さく、小さく頷いた。

「僕たちは、死なねばならない!」

 一木の瞳からは血涙が流れ落ちていた。それは仮那への宣告だった。
 お互いの運命を告げるただひとつの懺悔であり、いみじくも仮那の胸中に打つ象嵌として穿っていた。

「お前の娘と、僕の甥っ子達、そして皆の未来を紡ぐためには、僕らは死なねばならない」
「――娘、だと」

 仮那は一木の瞳を真っ正面から射殺すように睨み付けた。

「僕は、ずっとこの繰り返す世界の中でやり直して来た。未来を紡ぐためだ。僕の愛する人たちを救うためだ! どうすればいいかわからなかったから星辰を保存し、何度も記憶と魂を引き継いで同じ場所に戻り続けた。そして未来をずらし続けた。違う明日になるように、お前を倒して未来を得るために――でも。わかったんだ。遂に」
「レイカは死んだ! 嘘を吐くな! もう二度と、その忌まわしい甘言を吐くな――!」

  慟哭と共に時間は加速した。もう既に仮那は計算の外だった。冴えとリソースの管理が何よりも肝要であるはずの魔術を、ただ混濁した感情のままに振るっていた。誰も追い縋ることのできない時間の壁を破り、仮那は自分だけの世界を以て一木を壊さんと打擲ちょうちゃくした。一度、二度、三度、何度も何度も、数えることもできない痛みの数だけ時は加速した。脳は悲鳴を上げ、肉体は灼き切れるほど加熱していた。通じなかった攻撃を何度も、何度も繰り返す。ただ無残な肉が削げ落ち吹き上がる肉が再生するだけ。無為な時間だけが過ぎる。それでも何か希望があるはずだった。仮那には今まで殺せない人間など居なかったのだ。自分は人智を超えた存在だった。そうならなくてはならなかった。それこそが自負だった。比肩しうる者はおらず、故にこそできるはずだった。娘を、妻にもう一度会う。黄泉がえりでもなく、肉体の再生でも魂の培養でもなく、再び時間を繰り返し、一周して戻ってくればいい。そうすれば、あの日の続きをもう一度、繰り返せるはずだった。
 夕立のような血飛沫が収まって、血が地面を打つ音が響き渡っていた。けれど、一木はその爪で掴んだ首を決して離すことはない。どれだけ肉体が壊れようとも、どれだけの苦痛が蝕もうとも、どれだけの思いがぶつけられようとも、上回っていたのは一木だった。
 終わらない戦いに、決着が付こうとしていた。
 

「嘘じゃない。あの日、山の裏側の岩場に居た白い髪の女の子だ。お前の娘は。名前はレイカ。お前を待ってじっと隠れていたんだ。だけど僕は――お前は火事で死んだと勘違いして連れて帰った。生きていたんだ、今だって未来を変えるために戦ってくれている――」
「嘘だ、嘘を――」

 一木の表情に曇りは一点もなかった。仮那は言葉を飲み込みきれないままに、娘が生きていたなら、そう考えるだけで震えが止まらなくなった。

「嘘だと、言え。なら、俺は、今まで、何をして――」
「本当なんだよ。嘘はつかない。だが、カリナ、良い報告もある。聞いてくれ。これまでなら、君の娘は今朝に事故に巻き込まれて死んでいたはずだったんだ。……でも、今、今回だけは生きている。ぼくの甥っ子達が必死に救ってくれたんだ。だから仮那、僕らも報ってやりたい。頼む。お前の協力が必要なんだ。彼らを救ってやるためには」
「信じられない――そんなこと、娘は、どこにいるんだ! そんな言葉は信じられるか! お前が俺に何をしたのか、忘れたわけじゃないだろう。お前を俺は――」
「許さなくて良い。許されないことをした。悪かった。僕が間違っていた」
「謝るなァアーーーッ!!! お前は、謝るな!!! 罪を赦して貰おうなどと甘ったるい言葉をかければ! 時が遡るとでも思っているのかァーーーーッ!!!」
「そうやって、憎しみを糧にここまで歩いてきたんだろう、お前も。僕は赦して貰う気などない。お前も僕の妻を奪ったんだ。お前が嫌いだ。赦すつもりなど毛頭無い」
「ァ――、ア……」

 仮那は弱々しく嗚咽のような意味を為さない言葉を発した。
 一木はあろうことか仮那の拘束を解いた。

「殺せ、情けをかけるな……殺して、くれ。俺は、もう……」
「僕も同じだ。だからもう殺す殺さないの話をする必要は無い。無いんだ仮那」

 仮那は動けなかった。
 肉体は既に限界を超えて指一本動かず、もう何もできなかった。
 永遠と刹那の戦いは、終わった。永遠は刹那を飲み込んだのだ。
 興味を失ったように一木はぬるりと仮那に無防備な背後を見せた。視線の先にあったのは、息絶え絶えになったもどるだった。 

「君らしくない無茶を……ありがとう。お陰で助かった。少しだけだが楽にできる。ほら」

 一木はもどるの無くなった腕の切り口を縛ると、赤黒く変質した鱗の腕に大きな傷を付けて血液を流し込むように垂らした。

「……ぐっ……ふふ、がんばっちゃっ、た♪」
「もう治せない。痛みが楽になって暫く最期が伸びるだけだ。ごめん、もどる」
「いいの。それよりも先に彼を――」

 振り返ると、仮那にぽいと布を投げ渡した。

「これで止血をしろ。人間は四肢の一本を欠落させると失血でショックを起こす手前まで行く」
「一木、お前は――」
「僕らはもう争うべきじゃない。待ってくれ、彼女たちを連れてくる。触れることは出来ないが」

 一木は端に置いておいた箱を取り出すと霧のように消えて、十秒ほど後に再びもどってくると、その手の中には光の膜があった。

「この中に娘達がいる。彼女たちは今、過去を変えるために僕らが二度目に出会ったこの場所に戻っている。地球に雪星が到来するのを防ぐ為だ。中を映す。触れるなよ」

 透明なガラスの膜の奥に、眠る三つの影があった。
 仮那は一際小さなその少女に手を伸ばそうとして、我に返ったようにその手で宙を掻いた。

「本当に、レイカなのか」
「ああ。お前の娘だ。見間違えないだろう。この距離なら」

 ぼんやりと触れられない光に向かって仮那は吸い込まれるように見つめていた。

「けれど、このままだと未来は変わらないまま終わる」
「なぜだ」
「僕らがいるからだ。理由はわかるんじゃないか。カリナ。お前も不正に時を操っていたはずだ」
「――」
「僕らがこの世界を本来から遠い場所まで持っていった。お前は世界を引き延ばし、僕は巻き戻し、好き放題本来あった因果を破壊しまくった。だから繰り返す度に僕もお前も、その理から外れて規格外に強くなっていった。本来なら人間がここまで来るなんて、あり得ないんだよ。そのせいで世界は本来辿るべき場所から離れすぎている。これでは、例え過去を修正したとしても開始点には戻れない。僕たちの存在が楔として残っている限り、この世界は変えられない」
「――だから、消えなければならない、のか」
「ああ。だから僕らは死に消える。未来を託すために」
「レイカに明日は、来るのか」
「ああ。来るよ。ここに未来が眠ってるんだ。信じているんだ。明日を」
「――」

 仮那は空を戴いた。
 いっぱいの空気を肺に押し込んだ。
 叫びたいほどの思考が脳裏に澎湃する。
 
――まわって、廻って、たった独りぼっちで繰り返し続ける永遠の日々。
 どこまでいけばいい? 狂えば良いのか? 狂えば、時間の感覚さえ失ってしまえば、望む日々にどこかで辿り着くことができるのか? いや。辿り着かない。わかっている。分かっているけれど、それでも一つだけ、拳の中に握り込んでしまった希望を離せずに進み続けてしまった。もう引けなくなってしまった。だから絶対唯一の敵が必要だった。ヤツがいた。敵があった。それが憎しみに火を点し続けてくれた。無限の時間を縮めてくれる。忘れればいい。目的なんて。ただ憎しみで生き続ければ良い。それでよかった。けれど、今、理由を無くした。続ける理由が、無くなった。
だから、それでいいのか?

「あ、ああ……」

 嫌だ。終りたくない。そんな綺麗な理由で終りたくない。俺は今まで、無限にも思える時間の渦を、どうしてここまで歩き続けた? 娘に会いたかった。妻に会いたかった、もう一度でいい、その温もりをこの肌に焼き付けたかったからじゃないのか? 明日? 明日なんて来て何になる? そんなもの、なにになる? いらないじゃないか。なんの役にも立たないじゃないか。どうしてヤツは俺を言いくるめる? ヤツは俺に何をした? イチキは、俺の妻を奪った男じゃないか――! 俺は、俺は――。




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