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第71話 羇旅

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 隻腕となった男は哭いていた。
 心の内から湧き上がるむなしさと絶望、無駄な努力、その全てを恨んでみっともなく吼えて、暴れていた。
 業火と言ってもよかっただろう。
 その男は混濁のまま唇を噛み切ると遠吠えした。口から少ない鮮血の飛沫が飛び散った。
 咆哮に内包されていたのは恐怖だった。閉じたひよめきが拍動しているような気味の悪い浮遊感が意識を空に投げて慟哭していた。
 押し込めていた恐怖が、避けてはならない死の前についに決壊を起こしていた。感情を堰き止めていた重く寡黙な石塁の壁は、一木の無慈悲な宣告によって壊されていた。
十年余、カリナという魔法使いは想像外を征く艱難、駝を懸けて石に就くような努力をただ直に続け続け、もう二度と戻れぬように魂を焼き続けた。腕だって要らなかった。痛みも必要ならそれが代償だ。それが愛しい者達と再会するために必要な犠牲ならと、喜んで差し出しただろう。
 だが今これはなんだ。
 鏡を覗き込む。そこには土気色の肌と落ち窪んだ眼窩、そして首には鈍い切れ味の鈍器めいた刃物がかかっている。
 娘の為に積み上げた星空はなんだ、今全てがその肌を貫いて墜ちようとしているというのだから。
 信じるか、信じたならどうだ?
 そう、俺の今までの道のりは全て、無駄。
 だが、どうだ。
 信じなければ、信じなければ。
 ヤツを殺せば。そうだ、そうだ。
 今まで通り、進めば良い。
 不死身だろうと、殺して。ヤツを殺す手段はある。あるはずなんだ。無限に再生するなんてあり得ないんだ。あり得ない、俺に殺せない人間なんてあるはずがないんだ。
 この世の真実は誰が決める?
 ヤツの言葉なんて誰が保証する?
 俺が死ななきゃならない理由なんてどこにもない!
 俺は寧ろ、生き続けねばならない! そうだろう?
 そうだろう? 妻よ、娘よ。
 今、俺が解放してやる。
 今、この、瞬間――!

「イチキ。人間はなぜ生き続けるのだろうな」
「お前の衝動は破壊だ。お前の意味は破壊だ。今その手に握ろうとしているのは娘へ向ける鋒だろう。いや……未来に向けた、の方が正しいかな」
「……」
「受け容れたくないんだろう。自分が間違っていたと」
「騙るなッ……お前だけが正義のようにっお前はただ生きていただけだ! 漫然と、生きていることを赦されていただけだッ俺はただ、妻と娘と、生きていたかっただけなのに!」
「僕は誰かを助けるために、正義の為に戦ってきたつもりだ。だが、その行動が正しかったとは思わない」
「……っ!」
「だから、やめるんだ。それを自らの娘に向けるなんて馬鹿なことを考えるな」

 その言葉に、躓いたように勢いを削がれたのはカリナだった。
 手元からは槍がこぼれ落ちていた。横たわった悪意の槍は、砂のように舞って消えていく。
 それを確かめ、一木は言葉を続けた。
 
「きっと正しくはなかったんだろうと思う。多くの人を殺した。お前と同じだと思う。この手のひらで――愛しい子供達の額を撫でるのと同じ手のひらで、同じくらいの年の子供を殺した。何人も、何人も、何人も。……気が狂いそうだった。お前だって、そのはずだ。だから自分の正気を失うために人を殺すのはやめろ。自分が人間であれる最後の一線を断ち切ろうとするな」
「じゃあ、どうすればいい!!! なめたことをぬかすなッ!!! 俺は、どこにいけばいい。俺の役目は、俺の使命は? その為にここまで歩いてきた! 故郷から遠く離れたこの場所へ、全てを棄ててやってきた! その結果が、無駄、だと?」

 カリナは一木の肩を掴むと、瞳の焦点を分厚い灰色の瞳の奥に据えてがなった。土塊で汚れた頬を涙が洗って、淀んだ汚水のように濁り下って首から伝った。

「仮那。僕が辿り着いてもお前が辿り着いても同じ結果だった。その時は……僕がそちら側だっただろう。きっと同じことを思うだろう。きっと同じように言うだろう。だから僕がお前にできる最大の敬意は、今ここでお前を諦めさせることだ。けれどお前は諦めなくていい。その手を僕から離せ、そして槍を持て。殺し合う必要は無い、さっきそう言ったが、これには例外がある」

 一木の言葉の意味することはわかっていた。
 砂時計にこぼれ落ちてゆく砂のように、その刻限が徐々に迫ってきていた。
 
「僕らは憎しみあわないといけない」

 一木は構えた。仮那も呼応していた。

「消えるか? この奪い合いが、奪われあいが。僕らの失ってきたもの全ての感情が。僕は今だってお前を殺したくて仕方が無い。だから、意味なんて無くても殺し合えば良い。だって、僕はお前が許せない、嫌いなんだから。綺麗事なんて捨てて、嫌いだから殺せばいい。そうだろう」

 カリナの頬が歪んだ笑みを作った。
 それは、理性を奪うに十分だった。
 死ぬ理由に、殺す理由に、十分すぎた。
 憎しみは、憎しみ以外にはならない。
 それだけが二人を繋ぐ言語だった。

「――ああ。そうだったイチキ。初めてお前と意見が合った。お前は俺から全てを奪った。お前を憎んでいる。だからもう意味なんてなくたって、許さない」
「お前は、僕から幸せな暮らしを、未来を奪った。そして愛する子達の未来を奪おうとしている。ここで消えろ」
「もう何も要らない。お前は俺から妻と娘、そして使命さえも今奪おうとする。俺は得る。その為に、ここまで来た」

 この二人はかの湖の事件の頃より対極の運命を辿る者となった奇しき者達であった。
 お互いに妻と居場所を失い、そして新たな使命を付与されて新生した二人に、運命は真逆の目的を付した。かたやカリナは自らの契約を守るために奔走しその旅路に精神を失調し絶望の中ただ使命の為に己を奪われたのに対して、かたや一木は各地で起こる事件を収めるため奔走しつつ、姉の子供という失いがたい宝を得ていたのであるから。勿論、一木がカリナに持ち得ないものを持っていたのはそれだけではない。それだけではないからこそ、始まりが同じ場所だったのがより際立っていた。二人の行動原理は悍ましいことに一致していて、だというのにこの遠い場所に二人は立っている。これこそが二人を分けた偶然であり非対称性だった。失ったものと得たものの総量の決定的な差、一木とカリナを分けた必然であった。
 そして神の仕組んだ必然はそれ以上のものを現実世界に投影した。それがこの二人の境遇そのものだった。抗いようのない冷たい水の底、それが二人を包む必然の温度であった。恵まれた一木は尚も振り向いた。自分が過去に置いてきてしまった幸福の影を。恵まれないカリナは振り返った。己の手が届かなかった、救えなかった者達の墓標を。
 二人はそれを自覚していた。そして互いに自らがもしそうだったなら――そんな無為な思考が脳裏を駆け巡らざるを得なかった。
 救えなかった者達の影、いくつも、いくつも積み重なっていく骸の山。守ると誓った幸福の形が為す術もなく崩れていく。やっと手に入れた人の心が崩れていく。
 愛情も愛着も、その場所にあったからこそ手に入れることができた。蜃気楼ゆめのように消えていった者たちが心を分けてくれた。自らが人間であることを赦してくれた。冷たく凍りつめた悍ましいバケモノの自分の為に――。
 だが、二人とも振り返れば気付くのだ。
 自らの鏡に映った姿が、最初から人のそれではなかったことを。ただ環境がバケモノに人として存在らせただけだったことを。
 もう一つの可能性が目の前にある。
 目を離せないホンモノの自分がそこにある。

「お前が、敵でよかった」

 茫と呟く唇は幕切れを予感させた。
 カリナの手に再び殺意が握り込まれる。
 一木の爪に終幕へ向かう歩みを進める覚悟が宿る。
 足音が聞こえない。
 間合いはなかった。互いに一撃で決まる距離だった。
 互いに武器を下ろして、肉体の緊張は最早どこにも感じられなかった。
 弛緩とも、緊張ともなく、肉体よりも逸る風の方が力んで感じられる。
 それはこれより動く肉体の収縮が一瞬で決着すること、二の太刀がないことの証左であり、契約であった。
 意識を超えた反応の境地、明晰夢の中に二人だけが世界に在ってそれ以外は消えてしまった。
 音もなく、光もなく、ただ時が満ちれば重力に導かれるままに結論に向かって時間が移動を始めるだろう。
 そこに駆け引きはどこにもない。ただ惹かれ合うように同じ破壊が訪れる。
 もし時間が、物理現象が、波が全てが噛み合って然れば、窮極の須臾はただ一振るい前に壊れる直線でしかない。
 もし打突が、生理現象が、精神が全てが噛み合って然れば、窮極の永遠はただ一突きの前に破れる曲線でしかない。
 水を切り、空を切り、それのみならず二度と戻らない断絶を生むだろう。
 もう既に腕に載った“動き”はそこに『何か』を内包させるには研ぎ澄まされすぎていた。
 ここから先に振るわれるのは現実に即することをやめた、全てを削ぎ落とした一振りとなる。その先端は極めて信じがたいほど鈍重で緩慢、老爺となった剣聖が振るう一刀とまず違えることはほぼないだろう。
 緩慢、鈍重、その一刀と半紙一枚で隣り合った枯れ葉一枚でさえ落ちないだろうその一振りは、今までの打ち合いに比較すれば余りにも遅い。しかし相対してわかるその一振りの合理性は、その合理性がどこから来る感覚であるのかわからない。速度にも力にもない筈の説得力、それは『死、そして夢』という最早暴力を超えた精神域への到達の実践であることはいうまでもない。
 奇妙なことに自らの生死と誇りを懸けた一撃は、二人の動きを速度から最も遠い場所まで押し遣った。時間、速度という概念そのものと溶け合い続けた二人が選んだのは、皮肉にもそこから一切離れた場所にある夢の一撃となって現実を穿っていた。
 速度からも破壊からも遠く、殺意でさえもその一撃には載ることができない。無、虚偶の奏だけがただ進行していく。
 守りもせず、互いの肉にただ打ち込まれる禊めいた一撃は、契約に及く。
 飛び散る血飛沫、解けゆく命の概念、精神と肉体の乖離。
 そこには人間の内包する全てがあった。
 意志と記憶、肉体と精神、繋がりと断裂、過去と未来。
 そして、生と死。
 散った飛沫は、死を伝えていた。
 どちらかが倒れていた。どちらもがその一撃を受けていた。
 どちらが死んでも、おかしくなかった。

「――」

 耳介の奥に流れの音を聞いた。血液だった。
 頬が温い血液に濡れて滴る。
 臓物から流れ出た十分な生命が、その二人の終わりを告げていた。
 飛沫に色付いて地に咲く花弁が染まる。
 群生する秋桜の花が辺りで一斉に開花したようだった。
 彼岸の光景を茫然と眺める肉体同士、先に心臓が止まったのはカリナだった。
 肉を貫いた腕が力なく垂れ下がって、瞼を閉じる間もなく地面に横たわった。
 花の蕾が軋んで押し潰されていく。二度と咲くことはないだろう。



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