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第1話③ その女、無敵につき

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「狭いな……」

 空が狭い――青年はその感想を初めて抱いた。立ち上るような高層建築物に、街を覆うようなコンクリートの壁、息苦しい。青年は排気ガスに塗れた大空の下で育ったのだ。こんな綺麗な水に住んだことはない、これほどに美しい白亜の街ならさぞ空気も美味かろうと思いはするのだが、何度息をしても喉には栓が詰まったような不快感が残るのみであった。

 腕時計を覗き込むと、既に登校時間に近かった。そもとして行きの電車には同じ制服の学生をあの女生徒以外見ただろうか――思い返してみても居なかったような気がする。というのはひょっとすれば遅刻せずに登校するにはあの電車では遅いからだろうか? 思考してみはするのだが、だとすると今から急いだとしても間に合うかはわからない。一分の遅刻と十分の遅刻に、何か違いがあるだろうか。ゆっくりと散策しながら行くのが豊かさではないだろうか――ようやくはじき出した結論に従ってゆっくりと歩き出した途端、脳裏に口うるさいスポンサーの怒声が思い浮かんだ。

『ルールには従いなさい。特に今回の糺ノ森高校はわたしのお父様の会社が出資してる学校なの。わかるでしょう? ただでさえあなたはあの学校にいるのに相応しくない学力なんだから、態度くらいは規律正しくあってもらわないと――聞いてるの?』

 ……はいはい。申し訳ございませんでした。走りますよ、御鈴波お嬢様。
 青年は顔をしかめて走り出した。腕時計によれば、後五分で走り抜ければ遅刻でないらしい。駅前通りの坂を登り、坂の天辺を一気に下る。右に曲がれば桜並木が見え、その先には目指す高校が――。

「遅刻遅刻~」

 足の回転を坂道に任せて一気に曲がったところで青年は目を剥いた。交差点に侵入したその瞬間に、金属が擦れ合う轟音が突如として近付いてきたのである。坂道に背中を押されていた足は急には止まれない。首を横に向けた時には既にそれは左手五メートルのところまで近付いていた。

 ――なんだ、どこかで見たことがあるな?

 持ち前の鷹揚おうようさも束の間、このままでは挽肉である。目の前は青信号のはずなのだが、なぜ交差点にこんな豪速球のトラックが侵入してきているのだろう。猶予はコンマ数秒あるかないか、辺りを見回してもぶつかれそうな場所はない。

「やべ……詰んだ」

 ワンチャンスに賭けるならうずくまってみるのもいいだろうか――運が良ければ両足が釈迦になるくらいで済む……甘い幻想か。逡巡の果て、選んだ選択肢は『突撃』だった。
 てらてらと光る金属製のグリルがぐんぐんと迫ってくる。もう既に避けられる望みはない。絶望的だ――せめて楽に逝けるよう、頭を前にして突撃しよう。これで苦しまずに死ねるはずだ。運がない。全く――俺は運がない――

 青年の心は、今際の際に瀕しても酷く穏やかだった。思えば、始めから恵まれた人生ではなかったのだ。いつ死んでもおかしくない――本気でそう思い続けて生きてきた。両親はマフィアやヤクザと言うには余りにも粗末なチンピラ上がりに殺された。身寄りも居ない金もない子供である。その日から寝床はダンボールだった。食事は誰かの食べ残しを漁って済ませた。そのことを思えば、彼は今の状態で死ぬことが大層幸せにさえ思えていた。家があり、食事ができ、怒ってくれる飼い主クライアントがいる。唯一の心残りといえば、共に路地裏を生きてきた少女を残してしまうことくらいか――。

「上海、ごめん。でも、お前は強いし、大丈夫だよな……」

 諦めが付いた。いい人生だったとは口が裂けても言えないが、もし死後の世界があるとするなら、笑って話せるくらいの人生ではある。それでは、いよいよ現し世からはお暇するとするか……。
 幸いにも、運転手は気が付いていないのか、アクセルは踏んだままだ。今のうちにまぶたは閉じておこう。こんな人生でもみっともなく死ぬのはごめんだ。
 人生最後の視界が閉じていく。もう少し、普通の人生ってものをしたかった――もう言っても仕方ないか。

「はァ――!!!」

 諦めの暗がりに落ちていく視界の中で、誰かが横切った。

「……は?」

 ――見間違いだろうか。カラスの羽が突風で撒き散ったような黒い螺旋が颯爽と眼前を駆けている。足元に影を落としたは、空力に押されて空に舞い上がるように翼の様相を為した。翼の内側には、ヤママユガのような大きな螺鈿らでんの目が此方を見ている。翼のように見えたのは、濡羽色に艶めく黒い髪――そこにあった瞳は女生徒である。こちらを見てにこりと笑っている。

 そこでようやく青年は気がついた。電車の中でこちらにあの子だ――。
 その子が、自分とトラックの間に挟まるように飛び込んだのだ。

「バカ、そんなことで止まるはずが、やめ――」

 青年はもう一度目を開けて手を伸ばす。もはや一刻の猶予もありえない、ぶつかる――。
 ここに来て、青年の脳裏には初めて走馬灯が走っていた。辺りの時間が壮絶に停滞し、唸るような号砲が女の体をゆっくりと打ち砕いていく。遂に彼女の体とトラックの前面が接触を起こしたのだ。めしり、金属をひん曲げたような鈍い音が辺りを埋め尽くし、世界の時間が止まっていく。黒塗りにされた分厚い金属が内側に折り込まれる――まるで開かれた絵本をパタリと閉じたみたいに、バンパーの留め具が弾け飛んでVの字に変わっていく。弾け飛んだボルトとビスが辺りに転がって高い音を出していた。ぶつかってからここまで、コンマ一秒ないだろう。

 青年は、スローモーションで過ぎていく目の前の光景を信じられずにいた。女生徒の体が動いていないのである。当たった瞬間に彼女の時が止まったようだ、激突の際に発生した全ての熱量が彼女ではなくトラックに向かって破壊を行使している――まるでスライムでも棒に押し付けたみたいに、捻れながら変形していく。爆発に近い衝撃が、フロント部を壊滅に追いやっていく。折り込まれた金属がついに熱量に耐えきれず引きちぎれ、ガラスは割れて、金属からは金切り音の絶叫が響いた。

「すげえ……」

 感嘆の声が漏れ、それに呼応するように構造限界に達した鉄の塊は、バラバラに弾け始めた。タイヤが外れ推進力を失い、ドアが、外壁が、ガラスが、ミラーが弾ける。急激な減速で持ち上がっていた車体が地面に叩きつけられ、運転手が飛び出た。

「あ――」
「拾って!」
「お、おう!」

 青年は跳躍し、空に浮かんだ体をなんとか受け止めたが、人体とコンクリートの両面から挟まれた衝撃で喉からは血の味がした。しかし同時に――それが生きていることの証明である。奇妙な事実であった。

「うがっ……は――」

 まるでありえない光景の連続に、青年の頭は混乱していた。体の上の運転手をどけると、彼女はそこに立っている。留め具の外れた髪が風になびき、前髪が重く瞳を半分ほど覆っている。燦々と降り注ぐ太陽のその下で、彼女は汚れた手のひらを払う。傷は見当たらない、無傷と言ってもいいはずだ。しかし異様なのは背面に広がる光景である。

 廃車――確定――。

 あらゆる外装は剥がれ、ぶすぶすと黒煙を上げている。もはやスクラップといって差し支えないだろう貨物トラックは、青年が気が付いていなかっただけで満載されたトレーラーが接続されていた。地面に叩きつけられたトレーラーからは積載されていた貨物が飛び出している。何トンあったのだろう――青年は自身の顔が得も言われぬ奇怪な面持ちになっていることを理解しながらも、それを止めるすべを持たなかった。一見なんら変哲のない彼女――ただの女子高生である彼女がこれを起こしたのである。とても人体の不思議なんてチャチな言葉で片付けられるものではない。

「お前、一体何者なんだ……」
「名乗るほどのものではない……かな。それより、ここで見たこと、内緒にしててもらっていい?」

 前髪の髪に隠れた彼女の瞳は、年頃らしく愛らしく三日月を描いた。その愛らしさと背後に広がる凄惨さとは全くのミスマッチで、まったく知らない教義を持つ宗教画を見た瞬間のようなじわっと臓腑に広がる気味の悪さが喉元に上がった。

「構わないけど……警察は呼ばないとだな」
「ありがとう! ここまで派手にやっちゃうとそうだね――でも、良かった。誰も人が傷付かなかった。本当に、良かった」
「そうだな、そうだな――」

 女生徒は素朴な笑みを見せる。
 本当に、そうか? 目の前に広がる惨劇に、青年は首をかしげていた。
 
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