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第10話①  巨大化

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 夕焼けの高空には、迷彩柄に塗装されたクマバチのようなずんぐりした輸送用ヘリコプターが浮かんでいた。市街地側から篝浜へ旋回しながら向かうそれは、眼下に映る巨大なスライム状の生物を視認している。

acknowledge応答して、聞こえてるかしら」
「こちら管制、聞こえております。付近に飛行物ございません。いくつかの地点で風速、湿度、気流など確認しておりますが目立った荒れはございません。くれぐれもお気をつけて」
copy.了解続報あればすぐに伝えて。あのスライムの周囲を確認するわ。今のところ近くに人はいないみたいだけど」
「かしこまりました」

 無線を切りながら、御鈴波はラダーペダルを踏み込んで機体を傾ける。高度を下げつつ、それに距離を詰めていく。

「どこかにつかまって。今から高度を下げるから。揺れるわよ」
「あいよ」
「ええ」
「わかりました。ノーベル、失礼」

 御鈴波は後部席――といっても荷台のようなものだが――に乗り込んだ三人に目配せをする。乗っているのはゴッ太郎とノーベルと零春である。零春は動けないままのノーベルを庇うように身体を抱き、御鈴波はそれを確認してから一気に高度を下げた。 ローターの回転速とバンク傾きを合わせ、高速で滑空していく。まるで戦闘機のような急下降である。対地警報が鳴り響き、機首を上げろと自動音声が指示をするが、御鈴波は眉一つ動かさない。輸送用ヘリはそもそもこんな無茶な運転をするようには作られていないのだが、御鈴波にとってそんなお題目はほとんど意味を為さなかった。

「イーグル、わたしは操縦に集中するからあなたは付近の確認にあたって。座席がある分後部の連中よりあなたの方が視認に優れるわ。もう少しバンクを上げて旋回するから、その時に可能な限りクリアリングして」
copy.了解

 補助席には、イーグルが座っていた。彼曰く、ビルの爆発が起こった際に三箇所の爆破地点に屋上組の三人でいち早く展開していたらしい。その為御鈴波とノーベルがリーンに追われているすぐ直後に、音を聞いて助太刀に現れることが出来たということだそうだ。御鈴波は市民を避難させたのち、ノーベルを助けるために文字通り飛んできたわけである。

「それにしても、スライムアレ、なんなのかしら。人間にはとても見えないけれど」
「いや、元は人間でしょう。よく見てください、赤い液体に沈んではいるが、人体の一部が見える。もしかすると何らかの実験で使われたものが今回の騒ぎに乗じて戦術的に投入された可能性があります」
「……ないとは言い切れないわね。だとするなら、本来なら人がいなくなった街の中心で使いたかったのかも。そろそろいくわよ。イーグルお願い」
「イエス・マム」

 ヘリは一気にバンク角を上げて急降下を始めた。風を切る音と緊張が高まっていく。
 

 ちっ、と上海は舌打ちを一つ打った。こんなに遅くなってしまったら、もう魔界少年☆魔娑斗のアニメには間に合わない。今日もあの冴えた下段蹴りが相手のふくらはぎカーフを粉砕していく痛快なメロドラマが画面の向こうで繰り広げられたはずだったのに。けれど、首を突っ込んでしまった以上は仕方ない、このバケモノのふくらはぎカーフも粉砕してやりたいところなのだが、残念ながら足らしい部位は見つからない――それどころかどこを打てば響くのかすら見当がつかない。

「おねえちゃん、帰ってきてくれたんだネえええええ~~~~!!!! うれしうれしうれしうれしうれし」

 あー……お腹痛い。

 知らんバケモノから預かり知らぬ好意を向けられるのがこんなにストレスとは正直思っていなかった。しかも赤い液体の触手をうねうね動かして、喜びを表現するように踊っている。

「ぼくのために、あの悪者を倒してくれたんだよね!!! おねえちゃんんんんん」
「……アー……あ……」

 上海が言葉を失って動けないままいると、どこかから轟音が近付いてきた。それは急激な夕立を思わせるような打ち付ける音で、しかし違うのは明確に指向性のある音であることだ。きょろきょろと頭を振り回して音の出どころを探す。地上にはない――空だ!

 上海が視線を上げた瞬間のことだった。飛行機だろうか、プロペラの付いた船みたいなものがカーキグリーンの腹を見せつけつつ一瞬で頭上を通過して飛び去った。地上では砂埃を纏ったつむじ風が起こり、上海は反射的に風に飛ばされないように身をかがめた。

「!」
「!」

 バケモノと上海は同時に空に意識を奪われた。それは再び一気に高度を上げると、プロペラの音が遠くなった。呆気に取られたまま上を見つめていると、今度は声が降ってくる。スピーカーで拡声した電子音混じりの声だ。

「上海! ハシゴを波打ち際に下ろすから乗りなさい! 引くわよ!」

 上海の頬はりんごのように明るい朱が差した。御鈴波が迎えに来てくれたのだ。しかもなんだか、あの乗り物はかっこいい!
 堤防を乗り越えて、砂浜を駆け出す。夏の日差しに炙られた砂は温かいを通り越して熱かった。飛び立った飛行機は無限の記号を描くように翻ると、速度と高度を落とす。地上三十メートル。窓が開いてハシゴが投げられた。このまま徐々に高度だけを下げていく。

「いかないでよおおおおおおお、お姉ちゃんんんんんんん!」

 ハシゴが降りた理由にようやく気がついたのだろう、バケモノは砂浜に這い出るように動き出し、不格好に進み始める。それでも上海がハシゴに捕まる方が早い。撤退は簡単だ、そう誰もが思っていた時、上海がなにかに気がついたように砂浜に戻りだした。

「何をしてるの! 上海!」

 御鈴波が叫ぶ、バケモノはどんどんヘリに向かって近付いてくる。現在ヘリは水面上部でホバリングしているが、停止した状態から急激に加速したり上昇することは出来ない、離脱するには多少時間が必要なのだ。その間に攻撃されたら――もちろんヘリは落ちる。

「御鈴波嬢、わかりました。上海は砂浜で気を失っている少年の救助に向かっているようです。この先ヘリを海側に押し出すような衝撃が予想されますが、ラダーペダルを左に踏んでローターの回転数を上げてこのままヘリの姿勢を維持してください。私が救助の為の時間を保たせます」
「えっと、衝撃が来たら姿勢維持でいいのよね?」
「はい、よろしくお願いします」

 イーグルは助手席から後部座席に身をよじりながら移動する。砂浜では上海が自分の身の丈よりも大きな少年を抱えて砂浜を走っていた。普段の上海ならこんな他人は放っておくのだが、今回は少々事情が違う。この少年は先程自分が海に跳ね飛ばした少年だ。砂浜までは辿り着いたがそこで意識が途切れたのだろう、このままではバケモノの進行ルートにいるせいで踏み潰されてしまう。上海にとっては正直人命なんぞどうでもいいが、それでは余りにも寝覚めが悪い。一度始めたものは曲がりなりにもきっかり終わらせておきたいのだ。

「ゴッ太郎、隣のドアを開けて俺と背中を合わせろ。俺がソニックレインを打ったタイミングでお前も前に向かって思い切りパンチを放て。そのままだと反動でヘリが落ちてしまいかねん。少しでも反動を相殺するんだ」
「は!? どういうことォ?」
「とにかく言ったとおりにしろ。零春、声掛けを頼む」
「はい!」

 肥大化し続ける赤黒い液体に追いかけられながら、上海は必至にハシゴに取り付いた。目の前には八階建てのビルくらいの大きさのバケモノがそびえ立っている。もう少しで糺ノ森高校の校舎くらいになりそうだ。ヘリは既にバケモノの射程範囲内に入っている。

「上海、まだハシゴは持たないで、しゃがんでなさい!」

 御鈴波は叫ぶが、真下は見えない。どうなっているかわからない緊張で脂汗がじわりと手に滲む。

「まだか、イーグル!」
「もうじきに撃つ。最良のタイミングが来る」

 イーグルは射撃体勢に入った。射程が若干遠いが、十分だろう。

「おねえちゃんんんんん!!!!! いかないでよおおおおおおお!!!!」

 低い振動が、人間の言葉として捉えられる限界のラインで何かを訴えている。

「行くぞゴッ太郎、ソニック――」
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