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第10話⑧ 残影
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技研のログイン履歴を遡れば、玄明のログインはつい三日前の出来事だ。
いつも通り、第二の実家のように勝手に鍵を開けて侵入し、勝手にラボのメンツと中身のない話をしつつ手持ち無沙汰な実験データもどきを記入して、なんら不自然なく家に帰る。十年前から何も変わらない光景である。ラボ外での立会の剣呑さはどこへやら、お互いにとって技研のラボは安全圏であり、玄明もなにかしら思うところあってラボを丁重に扱っている節があった。御鈴波はそこで玄明と話している。
と言っても、当然、お互いに不和の種を感じている。だのに、場は流れるように進んだ。表面上の平穏である。御鈴波も、玄明も、お互いに自らの本心を押し殺しているのだ。最近の妹の話しには御鈴波は微笑んで答え、玄明が逃げたら大損ね、なんて鎌をかけるような言動にさえ玄明は誠実に『そんなことはないですよ』と返す。お互いが尻尾を掴み合っているのに、それを決して明らかにしない。もどかしい場と言えばそうなるが、この取引めいた平穏は、実際に彼らにとっては居心地の良いものではあったのだ。
なにせ、首との戯れだ。お互いに肚は割れている。そうであれば必然、嘘は嘘として受け取れる。薄い皮一枚で包まれた本心ほど人にとって心地よいものはない。中身をさらせば争うしかない状況でも、お互いにそうし合わないことができる、これが稀有な事例であることをお互いが理解していた。そして人格的に尊重していたからこそ、御鈴波と玄明の会話は常に優しく、思いやりあい、全て嘘だった。
明日には均衡が崩れてしまうかもしれない。そんな場所にあったとしても、二人は冷静にいられた。それがどちらにとって重要な意味を持っていたのかと問うと、それは玄明の方だった。既に御鈴波家の当主からは立入禁止のお触れが出されていたし、その意味が御鈴波グループの利益を守るためであること以上に、『娘に近付くな』だったことは玄明とて理解している。しかし玄明は近付いた。自らのことを導いた若い天才、若い子女、若い権力。その全てに意味があった。そして御鈴波途次当人は――むしろラボに帰ってきてくれたことに喜んでいた。これは本心からである、そう玄明は観察している。
なにせ、彼女は優秀さが好きだ。そして自らが運営する技研の研究結果、その唯一の成功存在があることの重要性を正しく理解していた。玄明なくして技研の成功はない――だから御鈴波途次は自分よりも優秀になった、自分の作った子どものような玄明が好きだった。それはスタッフの中でも女性に強く見られた傾向である。マウスやチンパンジーでは現れない、人間の『玄明』だから現れた結果である。そして玄明は、確信している。彼女に示し続ければ、いずれ理解してくれると。自らの選択が正しかったと。
「玄明。あなたをここにいる処理班だけで押さえられるとは思っていないわ。ここにはきちんとした拘束器具もないしね。でも、この騒ぎを起こしたということをわたしは宣戦布告と受け取る。もう既に、被害が出すぎたわ」
銃口の先には勘解由小路玄明がいる。穏やかな笑みを湛える口元だ。優しげな目元だ。初めて出会った日と、なんら変わりない。
「御鈴波。ごめんなさい」
「は」
玄明は片膝を地面に立てて姿勢を低くして、右手のひらで左胸を押さえた。ひざまずき、懺悔するようなその格好に、思わず御鈴波の口から空気が漏れる。これは予想外だったのだ。御鈴波にとって、この決別は全面戦争の始まりを告げる嚆矢であったはずなのに、彼は自らの非を認め始めたではないか。思わず口が走る。
「何を今更言っているの! あなたのしたことがわかっているの!?」
子供を叱りつける母親のような直線的な怒声に、玄明は眉尻を下げて悲しげな顔をした。
「わかっている。これはぼくのせいだ。ぼくの計画に乗ってきた人間の犠牲ならばいざしらず、まったく関係ない人を巻き込んでしまったこと、そして処理班に犠牲を出してしまったこと、そのことについて真摯に謝罪したい。すまなかった」
「どういう了見かしら! 取り入ろうとしてるわけ? そんなもので」
玄明はその言葉に割り込んで話を続ける。
「取り入りたいなら、道哇姉の所属する製薬会社丸ごと乗っ取って君に献上するくらいやるさ。それが不可能ではないことくらい、君にはわかるはずだ。でも僕はそうしようとは思わない。そんなことをしたって意味がないからさ」
「意味がないって、どういう意味?」
理解ができない、という風に御鈴波は首を振る。玄明は続ける。
「文字通りだ。その程度のことで君が僕を正しく見てくれるとは思わない。もし君に道グループを献上したって君は、『玄明、よくできたわね。でもそこまでする必要はなかったのに』程度にしか言ってくれないだろうから。なんせ、そんな程度は君で十分だしね。だから、それ以上の価値を示す必要がある」
御鈴波はますます混乱してくる。玄明の言葉の意図が理解できない。何を以て、何を考えて彼は言葉を紡いでいる? 何を伝えたい? 何が――。
「御鈴波。ぼくは今日、君を連れ去りに来たんだ。ぼくの気持ちをわかってもらうために」
玄明の影は、闇夜をまっすぐと御鈴波に向かい始めた。
いつも通り、第二の実家のように勝手に鍵を開けて侵入し、勝手にラボのメンツと中身のない話をしつつ手持ち無沙汰な実験データもどきを記入して、なんら不自然なく家に帰る。十年前から何も変わらない光景である。ラボ外での立会の剣呑さはどこへやら、お互いにとって技研のラボは安全圏であり、玄明もなにかしら思うところあってラボを丁重に扱っている節があった。御鈴波はそこで玄明と話している。
と言っても、当然、お互いに不和の種を感じている。だのに、場は流れるように進んだ。表面上の平穏である。御鈴波も、玄明も、お互いに自らの本心を押し殺しているのだ。最近の妹の話しには御鈴波は微笑んで答え、玄明が逃げたら大損ね、なんて鎌をかけるような言動にさえ玄明は誠実に『そんなことはないですよ』と返す。お互いが尻尾を掴み合っているのに、それを決して明らかにしない。もどかしい場と言えばそうなるが、この取引めいた平穏は、実際に彼らにとっては居心地の良いものではあったのだ。
なにせ、首との戯れだ。お互いに肚は割れている。そうであれば必然、嘘は嘘として受け取れる。薄い皮一枚で包まれた本心ほど人にとって心地よいものはない。中身をさらせば争うしかない状況でも、お互いにそうし合わないことができる、これが稀有な事例であることをお互いが理解していた。そして人格的に尊重していたからこそ、御鈴波と玄明の会話は常に優しく、思いやりあい、全て嘘だった。
明日には均衡が崩れてしまうかもしれない。そんな場所にあったとしても、二人は冷静にいられた。それがどちらにとって重要な意味を持っていたのかと問うと、それは玄明の方だった。既に御鈴波家の当主からは立入禁止のお触れが出されていたし、その意味が御鈴波グループの利益を守るためであること以上に、『娘に近付くな』だったことは玄明とて理解している。しかし玄明は近付いた。自らのことを導いた若い天才、若い子女、若い権力。その全てに意味があった。そして御鈴波途次当人は――むしろラボに帰ってきてくれたことに喜んでいた。これは本心からである、そう玄明は観察している。
なにせ、彼女は優秀さが好きだ。そして自らが運営する技研の研究結果、その唯一の成功存在があることの重要性を正しく理解していた。玄明なくして技研の成功はない――だから御鈴波途次は自分よりも優秀になった、自分の作った子どものような玄明が好きだった。それはスタッフの中でも女性に強く見られた傾向である。マウスやチンパンジーでは現れない、人間の『玄明』だから現れた結果である。そして玄明は、確信している。彼女に示し続ければ、いずれ理解してくれると。自らの選択が正しかったと。
「玄明。あなたをここにいる処理班だけで押さえられるとは思っていないわ。ここにはきちんとした拘束器具もないしね。でも、この騒ぎを起こしたということをわたしは宣戦布告と受け取る。もう既に、被害が出すぎたわ」
銃口の先には勘解由小路玄明がいる。穏やかな笑みを湛える口元だ。優しげな目元だ。初めて出会った日と、なんら変わりない。
「御鈴波。ごめんなさい」
「は」
玄明は片膝を地面に立てて姿勢を低くして、右手のひらで左胸を押さえた。ひざまずき、懺悔するようなその格好に、思わず御鈴波の口から空気が漏れる。これは予想外だったのだ。御鈴波にとって、この決別は全面戦争の始まりを告げる嚆矢であったはずなのに、彼は自らの非を認め始めたではないか。思わず口が走る。
「何を今更言っているの! あなたのしたことがわかっているの!?」
子供を叱りつける母親のような直線的な怒声に、玄明は眉尻を下げて悲しげな顔をした。
「わかっている。これはぼくのせいだ。ぼくの計画に乗ってきた人間の犠牲ならばいざしらず、まったく関係ない人を巻き込んでしまったこと、そして処理班に犠牲を出してしまったこと、そのことについて真摯に謝罪したい。すまなかった」
「どういう了見かしら! 取り入ろうとしてるわけ? そんなもので」
玄明はその言葉に割り込んで話を続ける。
「取り入りたいなら、道哇姉の所属する製薬会社丸ごと乗っ取って君に献上するくらいやるさ。それが不可能ではないことくらい、君にはわかるはずだ。でも僕はそうしようとは思わない。そんなことをしたって意味がないからさ」
「意味がないって、どういう意味?」
理解ができない、という風に御鈴波は首を振る。玄明は続ける。
「文字通りだ。その程度のことで君が僕を正しく見てくれるとは思わない。もし君に道グループを献上したって君は、『玄明、よくできたわね。でもそこまでする必要はなかったのに』程度にしか言ってくれないだろうから。なんせ、そんな程度は君で十分だしね。だから、それ以上の価値を示す必要がある」
御鈴波はますます混乱してくる。玄明の言葉の意図が理解できない。何を以て、何を考えて彼は言葉を紡いでいる? 何を伝えたい? 何が――。
「御鈴波。ぼくは今日、君を連れ去りに来たんだ。ぼくの気持ちをわかってもらうために」
玄明の影は、闇夜をまっすぐと御鈴波に向かい始めた。
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