猫のおどり

葛西秋

文字の大きさ
1 / 2

前編

しおりを挟む
 東北はI県のある駅に降り立ったのは春の初めの頃だった。
 雪がちらつく空を眺めながら駅舎を振り返ると、賑やかな垂れ幕がいくつもその壁面を覆っていた。

「O谷選手、がんばれ!」
「天下無双のO谷選手はこの町の出身です」
「目指せ二刀流のホームラン王!」

 私の他に人影が見えない駅のロータリーで、垂れ幕の色彩がアメリカで活躍する野球選手を応援している。野球にさほど興味がない私でも知っているほどの有名な選手だ。

 ――この町の出身だったのか

 私はどこか新鮮な思いで、私以外に見る者がいない立派なその垂れ幕をしげしげと眺めた。おそらくはこの町を訪れたよそ者に情報を知らせる垂れ幕本来の役目であっただろう。

 先ほど駅に着いた列車で運ばれてきた唯一の観光客であった私は、垂れ幕の本分を充分に享受して今夜泊まる宿に足を向けた。

 宿は旅館である。古くからある旅館で木造建築が素晴らしいと、旅を趣味とする人々の間で話題になっていた。それを楽しみにして宿泊の予約を取ったのだが、着いて見たらあまりにも閑散期だということで、建物は修繕の真っ最中だった。

「すみませんねえ、この冬の雪で傷んだところが出てきていて。お客さんがたくさん来る前にちょっとでも直しておかないと」

 中年の女将さんが申し訳なさそうに説明する。

 あとひと月もすれば観光名所である古い桜の木が花をつけ始める。その後は五月の連休、夏の避暑、秋の紅葉と観光客がひっきりなしに逗留する。ここは人気のある老舗の宿なのだ。私ごときの一見者が泊まれたのも閑散期であるからに他ならない。

 私が通されたのは、女将さんと宿の主人である旦那さんが住んでいる母屋の客間だった。珍しい体験と云えばそうである。掛け軸の下がる床の間に書院造の違い棚、雪見障子まであつらえてあってこれはこれで旧家の趣がある。

 女将さんは炬燵のスイッチを入れ、石油ストーブに火をつけて、
「ここの寒さはエアコンだけでは間に合わないんです。これでなんとか部屋が温まりましょう」
 そうしてほっとしたように微笑んだ。

 荷物を置いて上着を取った私は、さっそく炬燵に潜り込む。
 女将さんがお茶の支度をしてくれるのを待ちながら、私は雪見障子をめずらしく眺めた。雪見障子のガラスの向こうには薄く雪が積もった庭が見える。最も積雪の多い時期は過ぎ、雪が日に日に解けていく時分である。

「女将さん、もう雪は降らないでしょうか」
「さあ、あと一、二回は大きく降るんじゃあないでしょうか。積もりはしないでしょうけれど」
 私が滞在している間にその大きく降る雪はかんべんしてもらいたいところだが、天気予報を確認した限りでは大丈夫そうだ。
「お客さん、雪見障子が珍しいですか」
 お茶の入った湯呑を私の前に置きながら、女将さんが問いかけてくる。
「そうですね、最近は障子自体がどうも珍しい」
「おやおや、実はその障子、少し前までは猫間障子だったんですよ。ご存じですか猫間障子」
「猫間障子」

 その単語を初めて聞いた私は、思わず反復した。

「ええ、猫間障子。猫が使うんです。今はガラスがはめ込まれていますが、猫間障子にはガラスがなくて、猫が障子の内と外を自由に行き来できるんです。この辺りは昔はお蚕様を飼っていて絹糸を取っていて。そのお蚕様をネズミが齧るっていうので、どこの家でもネズミ捕りの猫を飼っていたものです」
「へえ」
 と言いながら何とはなしに視線を巡らす私の様子を見て女将さんがクスリと笑う。
「今はうちに猫はいません。なので猫が通れる猫間障子を止めて雪見障子に変えたんです」
「そうなんですか」

 その私の返事に何を聞き取ったのか、
「お客さん、お客さんは昔の話がお好きですか。この旅館を使ってくださる方はそういう方が多いのですが」
「ええ、そういった話は大好きで、集めております。もしかして何か面白いお話は御存じじゃないですか」
 女将さんの笑みが深くなる。
「もしよろしければ、ダンスをする猫のお話などお聞かせしましょう」
「猫踊りの昔話ですか。それは面白そうなお話ですね、是非」
 思ってもみなかった女将さんの申し出を、私はありがたく受け入れた。

 炬燵はほのぼのと温かく、部屋の空気は石油ストーブに温められ始めている。この分だと部屋の隅に重ねられた布団も就寝までに温まっていてくれることだろう。女将さんはちょっと石油ストーブに当たる角度で座り直して、踊る猫の昔話を話し始めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。

猫屋敷 むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で―― 私の願いは一瞬にして踏みにじられました。 母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、 婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。 「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」 まさか――あの優しい彼が? そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。 子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。 でも、私には、味方など誰もいませんでした。 ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。 白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。 「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」 やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。 それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、 冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。 没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。 これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。 ※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ ※わんこが繋ぐ恋物語です ※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

今まで尽してきた私に、妾になれと言うんですか…?

水垣するめ
恋愛
主人公伯爵家のメアリー・キングスレーは公爵家長男のロビン・ウィンターと婚約していた。 メアリーは幼い頃から公爵のロビンと釣り合うように厳しい教育を受けていた。 そして学園に通い始めてからもロビンのために、生徒会の仕事を請け負い、尽していた。 しかしある日突然、ロビンは平民の女性を連れてきて「彼女を正妻にする!」と宣言した。 そしえメアリーには「お前は妾にする」と言ってきて…。 メアリーはロビンに失望し、婚約破棄をする。 婚約破棄は面子に関わるとロビンは引き留めようとしたが、メアリーは婚約破棄を押し通す。 そしてその後、ロビンのメアリーに対する仕打ちを知った王子や、周囲の貴族はロビンを責め始める…。 ※小説家になろうでも掲載しています。

処理中です...