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前編
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東北はI県のある駅に降り立ったのは春の初めの頃だった。
雪がちらつく空を眺めながら駅舎を振り返ると、賑やかな垂れ幕がいくつもその壁面を覆っていた。
「O谷選手、がんばれ!」
「天下無双のO谷選手はこの町の出身です」
「目指せ二刀流のホームラン王!」
私の他に人影が見えない駅のロータリーで、垂れ幕の色彩がアメリカで活躍する野球選手を応援している。野球にさほど興味がない私でも知っているほどの有名な選手だ。
――この町の出身だったのか
私はどこか新鮮な思いで、私以外に見る者がいない立派なその垂れ幕をしげしげと眺めた。おそらくはこの町を訪れたよそ者に情報を知らせる垂れ幕本来の役目であっただろう。
先ほど駅に着いた列車で運ばれてきた唯一の観光客であった私は、垂れ幕の本分を充分に享受して今夜泊まる宿に足を向けた。
宿は旅館である。古くからある旅館で木造建築が素晴らしいと、旅を趣味とする人々の間で話題になっていた。それを楽しみにして宿泊の予約を取ったのだが、着いて見たらあまりにも閑散期だということで、建物は修繕の真っ最中だった。
「すみませんねえ、この冬の雪で傷んだところが出てきていて。お客さんがたくさん来る前にちょっとでも直しておかないと」
中年の女将さんが申し訳なさそうに説明する。
あとひと月もすれば観光名所である古い桜の木が花をつけ始める。その後は五月の連休、夏の避暑、秋の紅葉と観光客がひっきりなしに逗留する。ここは人気のある老舗の宿なのだ。私ごときの一見者が泊まれたのも閑散期であるからに他ならない。
私が通されたのは、女将さんと宿の主人である旦那さんが住んでいる母屋の客間だった。珍しい体験と云えばそうである。掛け軸の下がる床の間に書院造の違い棚、雪見障子まであつらえてあってこれはこれで旧家の趣がある。
女将さんは炬燵のスイッチを入れ、石油ストーブに火をつけて、
「ここの寒さはエアコンだけでは間に合わないんです。これでなんとか部屋が温まりましょう」
そうしてほっとしたように微笑んだ。
荷物を置いて上着を取った私は、さっそく炬燵に潜り込む。
女将さんがお茶の支度をしてくれるのを待ちながら、私は雪見障子をめずらしく眺めた。雪見障子のガラスの向こうには薄く雪が積もった庭が見える。最も積雪の多い時期は過ぎ、雪が日に日に解けていく時分である。
「女将さん、もう雪は降らないでしょうか」
「さあ、あと一、二回は大きく降るんじゃあないでしょうか。積もりはしないでしょうけれど」
私が滞在している間にその大きく降る雪はかんべんしてもらいたいところだが、天気予報を確認した限りでは大丈夫そうだ。
「お客さん、雪見障子が珍しいですか」
お茶の入った湯呑を私の前に置きながら、女将さんが問いかけてくる。
「そうですね、最近は障子自体がどうも珍しい」
「おやおや、実はその障子、少し前までは猫間障子だったんですよ。ご存じですか猫間障子」
「猫間障子」
その単語を初めて聞いた私は、思わず反復した。
「ええ、猫間障子。猫が使うんです。今はガラスがはめ込まれていますが、猫間障子にはガラスがなくて、猫が障子の内と外を自由に行き来できるんです。この辺りは昔はお蚕様を飼っていて絹糸を取っていて。そのお蚕様をネズミが齧るっていうので、どこの家でもネズミ捕りの猫を飼っていたものです」
「へえ」
と言いながら何とはなしに視線を巡らす私の様子を見て女将さんがクスリと笑う。
「今はうちに猫はいません。なので猫が通れる猫間障子を止めて雪見障子に変えたんです」
「そうなんですか」
その私の返事に何を聞き取ったのか、
「お客さん、お客さんは昔の話がお好きですか。この旅館を使ってくださる方はそういう方が多いのですが」
「ええ、そういった話は大好きで、集めております。もしかして何か面白いお話は御存じじゃないですか」
女将さんの笑みが深くなる。
「もしよろしければ、ダンスをする猫のお話などお聞かせしましょう」
「猫踊りの昔話ですか。それは面白そうなお話ですね、是非」
思ってもみなかった女将さんの申し出を、私はありがたく受け入れた。
炬燵はほのぼのと温かく、部屋の空気は石油ストーブに温められ始めている。この分だと部屋の隅に重ねられた布団も就寝までに温まっていてくれることだろう。女将さんはちょっと石油ストーブに当たる角度で座り直して、踊る猫の昔話を話し始めた。
雪がちらつく空を眺めながら駅舎を振り返ると、賑やかな垂れ幕がいくつもその壁面を覆っていた。
「O谷選手、がんばれ!」
「天下無双のO谷選手はこの町の出身です」
「目指せ二刀流のホームラン王!」
私の他に人影が見えない駅のロータリーで、垂れ幕の色彩がアメリカで活躍する野球選手を応援している。野球にさほど興味がない私でも知っているほどの有名な選手だ。
――この町の出身だったのか
私はどこか新鮮な思いで、私以外に見る者がいない立派なその垂れ幕をしげしげと眺めた。おそらくはこの町を訪れたよそ者に情報を知らせる垂れ幕本来の役目であっただろう。
先ほど駅に着いた列車で運ばれてきた唯一の観光客であった私は、垂れ幕の本分を充分に享受して今夜泊まる宿に足を向けた。
宿は旅館である。古くからある旅館で木造建築が素晴らしいと、旅を趣味とする人々の間で話題になっていた。それを楽しみにして宿泊の予約を取ったのだが、着いて見たらあまりにも閑散期だということで、建物は修繕の真っ最中だった。
「すみませんねえ、この冬の雪で傷んだところが出てきていて。お客さんがたくさん来る前にちょっとでも直しておかないと」
中年の女将さんが申し訳なさそうに説明する。
あとひと月もすれば観光名所である古い桜の木が花をつけ始める。その後は五月の連休、夏の避暑、秋の紅葉と観光客がひっきりなしに逗留する。ここは人気のある老舗の宿なのだ。私ごときの一見者が泊まれたのも閑散期であるからに他ならない。
私が通されたのは、女将さんと宿の主人である旦那さんが住んでいる母屋の客間だった。珍しい体験と云えばそうである。掛け軸の下がる床の間に書院造の違い棚、雪見障子まであつらえてあってこれはこれで旧家の趣がある。
女将さんは炬燵のスイッチを入れ、石油ストーブに火をつけて、
「ここの寒さはエアコンだけでは間に合わないんです。これでなんとか部屋が温まりましょう」
そうしてほっとしたように微笑んだ。
荷物を置いて上着を取った私は、さっそく炬燵に潜り込む。
女将さんがお茶の支度をしてくれるのを待ちながら、私は雪見障子をめずらしく眺めた。雪見障子のガラスの向こうには薄く雪が積もった庭が見える。最も積雪の多い時期は過ぎ、雪が日に日に解けていく時分である。
「女将さん、もう雪は降らないでしょうか」
「さあ、あと一、二回は大きく降るんじゃあないでしょうか。積もりはしないでしょうけれど」
私が滞在している間にその大きく降る雪はかんべんしてもらいたいところだが、天気予報を確認した限りでは大丈夫そうだ。
「お客さん、雪見障子が珍しいですか」
お茶の入った湯呑を私の前に置きながら、女将さんが問いかけてくる。
「そうですね、最近は障子自体がどうも珍しい」
「おやおや、実はその障子、少し前までは猫間障子だったんですよ。ご存じですか猫間障子」
「猫間障子」
その単語を初めて聞いた私は、思わず反復した。
「ええ、猫間障子。猫が使うんです。今はガラスがはめ込まれていますが、猫間障子にはガラスがなくて、猫が障子の内と外を自由に行き来できるんです。この辺りは昔はお蚕様を飼っていて絹糸を取っていて。そのお蚕様をネズミが齧るっていうので、どこの家でもネズミ捕りの猫を飼っていたものです」
「へえ」
と言いながら何とはなしに視線を巡らす私の様子を見て女将さんがクスリと笑う。
「今はうちに猫はいません。なので猫が通れる猫間障子を止めて雪見障子に変えたんです」
「そうなんですか」
その私の返事に何を聞き取ったのか、
「お客さん、お客さんは昔の話がお好きですか。この旅館を使ってくださる方はそういう方が多いのですが」
「ええ、そういった話は大好きで、集めております。もしかして何か面白いお話は御存じじゃないですか」
女将さんの笑みが深くなる。
「もしよろしければ、ダンスをする猫のお話などお聞かせしましょう」
「猫踊りの昔話ですか。それは面白そうなお話ですね、是非」
思ってもみなかった女将さんの申し出を、私はありがたく受け入れた。
炬燵はほのぼのと温かく、部屋の空気は石油ストーブに温められ始めている。この分だと部屋の隅に重ねられた布団も就寝までに温まっていてくれることだろう。女将さんはちょっと石油ストーブに当たる角度で座り直して、踊る猫の昔話を話し始めた。
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