日傘

葛西秋

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日傘

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 久しぶりに母方の田舎に出かけた。

 大学の夏休みは長くて、バイトもサークルもない私は時間を持て余していたのだ。
 新幹線と在来線を乗り継いで着いたその場所は、幼いころ、母に連れられてきたときとそんなに変わらない風景だった。

 駅舎を出ると夏の風が着ているワンピースの裾を揺らした。お気に入りの日傘を差し、私は地図を見ながら歩き始めた。

 売店の角を曲がり、二つ目の信号を右。
 あとは田んぼの中をまっすぐ。

 青い稲が風に揺れている。
 秋の蜻蛉より大きなギンヤンマが頬をかすめて飛んで行った。

 田んぼの脇に木の茂みが近づくと、蝉の声が大きくなった。
 草いきれに土の匂い。足元には石碑がいくつか並んでいる。

 ぽちゃん

 水音が聞こえた気がして日傘を傾げると、小さな鳥居があった。
 見覚えがある。懐かしくなった私は日傘を閉じて鳥居をくぐった。

 石畳の細い参道が続く。蝉の声は高く小さく、かわりに木々の葉の揺れる音が近くなる。

 ぽちゃん

「このお社は八幡神社で、むかしは春に放生会が行われていたのよ」
 そんな母の言葉を思い出した。

「放生会ってなに」
 私の問いかけに、母は
「生き物をお社の池に放つこと。この世の命を神様の下に返すこと。仏様の功徳があるのよ」
 そう応えてから池の水面に手を合わせた。
 口を利かずに祈る母の横顔を見て、私も母に倣って手を合わせた。

 いつかの夏の記憶のとおり、古い神社の境内には日傘の白さを映す小さな池があった。私は日傘を木の根元に立てかけて、手を合わせた。

 ぽちゃん

 また水音だ。だれかが意図的に石を投げ込んでいる。
 目を上げると子供がいた。白いシャツにハーフパンツ。手に虫取り網をもっている。日に灼けた顔、手、足。

 最近の都会では見かけない、いかにもこの辺りに住む男の子の様子は思った以上に微笑ましかった。知らず、私の顔には笑みが浮かんでいた。

 ぽちゃん

 やはりあの水音は、この子が立てる音だった。
 池の中に小石を落とし、慌てて動き出す水の中の虫を取ろうとしている。

 石を落とせば虫は動くけれど、同時に水底の土も湧き上がる。
 効率の悪い虫取りを男の子は根気よく続けていた。

 水の音。しぶきの音。蝉の声。

 今日の朝まで私がいた世界とはまったく別の空気がそこにあった。
 私はその場にしゃがんで目を閉じて、都会にはない夏の気配を体に浸み込ませたた。

 ふと気づくと水の音が止んでいる。目を上げると男の子の姿が無い。
 どこにいったのだろう。視線を巡らせるとすぐ横、男の子は木に立てかけた私の日傘を見ていた。

「きれいでしょう」
 男の子を怖がらせないよう視線を低くしたまま話しかけると、男の子は黙ったまま頷いた。

「広げてみましょうか」
 私は手を伸ばして日傘を取り、男の子の目の前で広げて見せた。

 白い木綿の生地には草花模様の刺繍がある。今売られている日傘にはない古風で手の込んだ装飾だ。

「私の母も使っていた日傘なの。母は母の叔母から貰った、と言っていたわ」
「……お母さんの?」
 男の子の言葉はしっかりした口調だった。
「そう、母の」
 私は立ち上がった。

 男の子と私は、日傘の中に収まった。
 白い日傘に木陰が落ちる。揺れる光を男の子はじっと眺め、ふいに数歩下がって日傘の外に出た。

「あり、がとう」
 不器用に聞こえるのは心からの本音だからだろう。
「あら、いいのよ、ぜんぜん。それじゃあ、またね」

 私は日傘を回して向きを変え、神社の参道を外に向かって歩き始めた。
 鳥居をくぐる前に振り返り、男の子に手を振ろうとしたが男の子の姿は消えていた。
 
 ここに滞在している間、あの男の子とまた会う機会はある筈だ。私は気にせず、先ほどの田んぼの道に戻った。ざっと強い風が吹いて、結わえていた私の髪が揺れた。

 青い稲が風に揺れている。
 空には白い雲が立ち上がっていた。

「こんにちは、お久しぶりです」
 地図の通りにそれから数分で母の実家に辿り着いた。
「おやまあ、すっかりいい娘さんになって。じいさん、今ちょっと農協に行っているから上がって待っててねえ」
 祖母に迎えられて客間に通される。
 憶えている作法通りに仏壇に向かいお線香をあげ、手を合わせる前に気がついた。
 私が子供の頃には気づかなかった小さな位牌があった。

「お父さんもお母さんも、忙しくしているでしょう」
 にこにこと笑いながら麦茶を持ってきてくれた祖母に、その小さな位牌について聞いてみた。祖母の顔からは笑みが消えた。
「ああ、あれは随分前のことなのよ。あたしにとっては甥になるわねえ、まだ小さいのにちょっとした不注意で水の事故になって……」

 その男の子は亡くなってしまったのだという。
 私の母にとって従弟にあたる男の子は、母と実の姉弟の様に遊んでいたという。

「写真なんかあったかねえ」
 そう言って立ち上がろうとする祖母を私は止めた。
 もしかして、きっと、たぶん。

 でも。
 確かめなくてもいいことだ、と私は思った。

 私の日傘。母が叔母から貰ったという日傘。
 あの位牌は叔母の子どものものだった。

 八幡神社の池の水面に、男の子の姿が映っていなかったことに今さらながら気づく。

 ――お母さんの、日傘。

 東京に帰ったらさりげなく、神社で出会った男の子の話を母にしてみようか。それとも私一人の心の内に留めておこうか。

 迷いながら、私は水滴がついたガラスのコップから冷たい麦茶を一口、飲んだ。
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