白雉の微睡

葛西秋

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第二章 石床の潦水

夏山の狩

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 飛鳥寺金堂の回廊から、葛城王はまっすぐに鎌子の方を見ていた。
 二年前、みずらに結わえていた髪は結い上げられて冠の中に乱れなく納められている。鮮やかな緑色の袍には織模様が浮かび、鎌子が着ているものとは布の質から違っていることが遠目にも明らかだった。
 外見の変化は葛城王の成長によるもの以外の何物でもなく、その視線の強さに鎌子はただ懐かしさしか覚えなかった。

 鎌子は葛城王の指示に従い、革沓を拾い上げて回廊に近づいた。

 金堂の回廊は鎌子の胸のあたりまである。鎌子が沓を掲げて葛城王に渡そうとしたところ、一足早く葛城王の方が回廊に膝を付いた。臣下に対する王族のふるまいではない。
 さらに葛城王は鎌子の手から鷲掴みに沓を取ると、その沓を回廊の隅にぞんざいに転がした。

「もう吾の用事は済んだ。宮に帰る。鎌子、その弓矢で宮まで吾の身を守れ」
 そう言うとすぐに葛城王は立ち上がって回廊を早足で歩き始めた。中途半端に開かれた金堂の扉から葛城王の従者が数人、転がるように出てきた。彼等には目もくれずに葛城王はさっさと金堂の外へ出る階段を降りていく。

「葛城王、出てきても大丈夫なのですか」
 階段の下で葛城王を待ち受けた鎌子の目には金堂の内部が一部見えていた。中では僧侶と主催の蘇我氏一族の者達が突然の事態に右往左往していた。
「僧の話は聞いた。入鹿の話も聞いてやった。充分だろう」
 葛城王はすたすたと飛鳥寺の山門へ歩いて行く。鎌子がその後に付いて歩くと、葛城王は振り返ることなく話し始めた。
「これから蹴鞠をやらないか、と入鹿に云われた。吾は蹴鞠をやったことがない。教えると云われたが、そんな言い様は臣下の分際で王族を侮辱しているとしか思えない」
 確かに一族の者達の目の前で王族に何かを教える、という行為は、葛城王の言う通り侮辱とも捉えられるだろう。けれど。
「……蹴鞠ができないから出てきたのですか」
 葛城王は勢いよく振り返って鎌子を睨んだ。
「お前はできるのか?」
「少しは」
 南淵の塾に通っていた時、これは唐の遊びだからと言われて鎌子は蹴鞠を何回か試したことがある。塾生の中には勉強よりも蹴鞠に夢中になって驚くほど上達した者もいた。
「じゃあ今度教えろ」
「教えるのは私でいいのですか?」
 葛城王は臣下の入鹿に教えられることを拒否したはずだ。念のため聞いてみたのだが、一瞬間があって葛城王は別のことを口にした。
「鎌子は最近になって飛鳥宮へ出入りし始めただろう。近いうちに呼ぶから来い」
 二年間の空白などなかったかのような、雉子と名乗っていた時と同じ口調で葛城王は鎌子にそう云った。

 山門の手前に着くと馬が牽かれて来ていた。馬具の装飾から葛城王が乗ってきた馬だろう。戸惑う表情を隠さない従者から鎌子の手に別の馬の手綱が渡された。
「鎌子、先導しろ」
 山門の外、葛城王の言葉に従って騎乗した鎌子が馬を歩ませると葛城王がすぐ後に続き、その後には追いついた従者たちが徒歩で列をなした。
 去り際に山門の内を横目で見ると、佐伯子麻呂がぽかん、と口を開けて鎌子を見ていた。

 飛鳥宮へ向かう馬の背から眺める青空には、春の陽光に真白く光る雲が浮かんでいた。

 数日後、鎌子が神祇官の部屋で父の仕事を手伝っていると阿部氏の使いが呼びに来た。呼び出されたのは相変わらず人目のつかない回廊の片隅だった。
「鎌子、そなたは葛城王と面識があるようだな」
 阿倍内麻呂の問いかけに、百済寺でのことが耳に入ったのかと当然のように鎌子は思った。
「面識がある、という程度です。南淵先生の使いで大井宮に通っていた時に何度かお目にかかりました」
 それは知らなかったな、と零れた内麻呂の呟きには苦さがある。全てが自分の思惑の範疇にないと気が済まないのだろう。
「親しいのか」
「南淵先生が亡くなってからは大井宮に行く必要もなくなり、すぐに山科に移りました。それ以降は葛城王と会っておりません。このことは阿倍様もご存じかと思うのですが」
 山科にいる鎌子を呼び出して山崎離宮の軽皇子の下に足しげく通わせていたのは、そもそも内麻呂自身である。
「ならばよい。それよりも少しでもがあるのなら、それを伝手にして葛城王をこちらに引き込め。できるな」
 内麻呂は低い声で鎌子に命じた。以前まで、多少なりと朝廷の大臣から信用されているという自負を鎌子に感じさせた内麻呂の態度は、今はどこか胡乱なものに思えてきた。
「中臣の地位を使って葛城王に近づくのだ。わしから大王には話をしておく」

 内麻呂がその場を去った後も鎌子は回廊の隅に留まった。

 飛鳥宮に来てから、軽皇子のことをまったく聞いていない。
 軽皇子自身が内麻呂を信用してすべてを任せているのだとしたら、それは古人大兄王を擁立して権力を維持しようとする蘇我氏とどこが違うのだろうか。

 そして蘇我氏の庇護も阿倍氏の保護も受けていない葛城王の立場は、ひどく危ういものになっているのではないだろうか。

 神祇官が着ける黒い上衣を纏う鎌子の影は、飛鳥宮の石畳に溶け込んだかのように、しばらくその場から動かなかった。

「鎌子、狩りに行こう」
 阿倍内麻呂がどのように手を回したのか、それからすぐに鎌子は葛城王付きの神祇官の立場を得た。もっとも神祇官の正式な拝命はしていないので、公にはまだ見習いの立場である。葛城王が行う祭祀の手伝いが鎌子に与えられた仕事の内容だった。

 けれど鎌子を神祇官ではなく近習だと思っている葛城王は、祭祀ではなく、狩りの供を鎌子に命じた。

 犬を十数匹と勢子を数人連れた葛城王の狩りの集団は、飛鳥宮の南にある多武峯とうのみねの山中に向かった。鎌子は使い慣れた弓を負い、馬に乗って葛城王のすぐ後ろに付き従った。葛城王が腰に佩いた長剣は、太陽の光を受けて金の輝きを馬の腹に零していた。

 夏の強い日差しに木々の葉は生い茂り、草いきれが立ち込める。山では警戒心を忘れがちな若い獣が食糧を貪っている季節だった。雄鹿や貉が穫れるかもしれない。小さくても大きくても獲物は確実に得られるはずだった。

 多武峯は高くはない山だが、背後には吉野の山塊が控えている。奥まで入れば深い森に迷い込んでしまうだろう。地勢を知る勢子が犬を使って獲物を山林の中から追い出すのを待つ間、鎌子と葛城王は馬を降り、路傍の岩に腰を下ろして話をした。
「阿倍様から、貴方を軽皇子様の勢力に引き込めという指示を受けました」
「なぜそれを吾に明かす」
 葛城王は意外とも思わなかったようで、むしろどこか楽し気に様子で鎌子に聞き返した。
「貴方が軽皇子の下に付かなければ、貴方はいずれ山背大兄王と同じ目に合うでしょう」
 葛城王を滅ぼして得をするのは蘇我の庇護を受ける古人大兄王だけでなく、軽皇子もにも利がある。
「吾が死のうが生きようがお前には関係が無いと思うが」
 口の端に笑みを浮かべてはいるが、ひどく乾いた葛城王の心情がその言葉の裏に透けて見えた。鎌子は自分でも知らないうちに熱を込めて葛城王に語り掛けていた。
「私は次の大王に相応しいのは貴方だと思っています」
「本当にそう思っているか?」
 葛城王の透徹した視線が鎌子を見据えた。口先の感情論を見抜く相手だということは鎌子も分かっている。
「正直なところ貴方でなければならないという理由はありません。ただ、軽皇子様も古人大兄王でも大臣たちの権力争いを抑えきれず、やがて王権の崩壊が起きることは確実です」
「残ったのが吾ということか」
 直截に過ぎる鎌子の言葉を葛城王は面白そうに受け入れた。

 その時、山の中に入った猟犬たちの吠え声が響いた。
 獲物を見つけたようだが声の大きさや興奮の度合いから鹿や貉ではなさそうだ。勢子が掛け合う声も頻繁になり空気に緊張が走る。勢子頭が速足で報告に来た。
「申し上げます。熊が勢子の囲みの中に入ってきました。今、犬が動きを封じていますが熊を興奮させ過ぎると危険です」
 想定していた狩りの獲物としては大き過ぎる。
「どうしますか」
 鎌子の問いかけに葛城王は即答した。
「狩る」
 勢子頭は葛城王の意を受けて山の中に戻っていった。葛城王は馬上に上がり、勢子頭からの合図があればすぐに猟場に駆けつける構えである。鎌子も馬上で弓を取り、ゆぎから矢を一本抜いた。

 準備を終えたひととき、静穏が訪れた。

「鎌子、吾には味方がいない。それでも大王になれるのか」
 葛城王の視線は多武峯の頂上に向けられていた。
 鎌子は葛城王に馬を寄せ、轡を並べた。
「貴方には、私がいます」
 葛城王の目が鎌子に向けられた。相手を射抜く葛城王の強い瞳を鎌子は正面から見返した。
「中臣鎌子、吾につくのか」
 鎌子は目を伏せ頷いて、葛城王への恭順を示した。

 突然、猟犬が吠え立てる声が急に近くから聞こえ、草むらから黒い獣が飛び出してきた。犬の牙に体中から血を流し、勢子が放った矢を背に何本も立てながらも力を失っていない雄熊がそこにいた。鎌子は既に手に持っていた矢を地に投げ捨て、靫から一番太い矢を取った。

 逃げ道を求めた手負いの雄熊が葛城王の乗る馬に襲い掛かるその直前、ぎりり、といっぱいに引かれた鎌子の弓から矢が放たれた。風を切り裂いて放たれた矢は熊の首筋に深々と突き刺さり、ごうごうと吠える熊の口からは血の泡が溢れ出した。

 矢を振り払おうと足掻く熊にとどめを刺したのは、馬上から振り下ろされた葛城王の太刀の一突きだった。
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