白雉の微睡

葛西秋

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第二章 石床の潦水

乙巳の変

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 新羅の密使が皇極天皇に伝えた「女帝の統治を認めない」という唐の方針は、その後、すみやかに倭の朝廷内部に知れ渡った。隠匿されなかったのは皇極天皇自身に退位の意志があることを知らしめるためである。

 飛鳥宮内の神祇部には皇極天皇が足繫く通うようになっていた。
 これまでの王位は先王の死亡によって次代に受け継がれている。存命中の譲位については前例がない。祭祀儀礼をどのように行うのか、皇極天皇は鎌子の父である中臣御食子との話し合いを重ねていた。

 皇極天皇の代わりに高位の女官が神祇部を訪れることも増え、そのうちに、
大王おおきみが度々訪れるのにこのような殺風景ではいけない」
 と、女官たちは季節の花を神祇官の部屋に飾るようになった。躑躅の花の鮮やかな紅橙色が部屋を彩った次には、白く大きな百合の花が持ち込まれた。
宝皇女たからみこ様(皇極天皇のこと)はことのほか百合の花をお好みですから」
 古くから皇極天皇に仕えている女官が花の手入れをしながら神祇部の者達に云った。
 昨年、皇極天皇が百合の花を好むと知った大伴馬養という臣が、自分の領地に咲く百合の花を献上した。その花があまりにも見事だったので皇極天皇は直々に馬養を褒めた。一年が巡って百合の咲く季節となった今年も馬養は百合を献上したのだという。

 淡く光を溢しているような真白な花弁と馥郁と漂う香りは、老いてなお王位にあり続けている女帝の姿そのもののようにも見えた。

 皇極天皇譲位の準備が進む神祇部とは別に、阿倍内麻呂は軽皇子の王位継承の実現に向けて詰めの段階を推し進めていた。古人大兄王を擁した対抗勢力である蘇我氏には積極的な動きはない。皇極天皇が皇太子としている葛城王は未だ二十歳で、三十歳を過ぎてから王位に就くことを通例としている王族としては若年に過ぎる。

 軽皇子は次の大王の最も有力な候補だった。

 葛城王が居住する東宮御殿には王位継承にまつわる大小の騒ぎは微かなさざ波のように伝わるだけだった。鎌子と高向玄理が新たな律令の草案を作る部屋には木簡や紙の匂いの他、紙魚を防ぐために焚いている楠の清涼な香りが漂っていた。

 葛城王は毎日この部屋にやってきて鎌子に律令の草案の進捗を聞いた。
「鎌子、草案はどのぐらいまで進んでいる」
「中央の組織と地方の組織の概要がかたちになりました」
「どのようになった」
「中央の組織について、最初の段階では位と肩書が少々変わる程度で済みます。これはちょうどいいので大王の交代の時に行いましょう」

 天皇の代が代わる時、臣の位や任務が改めて言い渡される儀式がある。鎌子はそれを利用しようと考え、葛城王もそれに同意した。

「わかった。では地方の組織はどうする」
「これについては先日来の問題ですが、豪族の反発は避けられません。以前までは倭周辺の豪族からと思いましたが、むしろ遠方ではあっても王族とゆかりの深い東国八道から整備していくのが良いと思います」
「東国八道というと、近江、美濃、飛騨、信濃、武蔵、上野、下野、陸奥か」

 鎌子がそれぞれの国の名が記された木簡を卓の上に順番に並べると、葛城王の手が伸びてきて東西南北の位置を合わせた。

「彼の地域にどれほど人が住むのか、米はどれだけ取れるのかを調べさせます」
「臣の位と職名が変り、東国に住む人の数と米の取れ高を調べさせる――。それだけだとあまり大きなことはしないように思える」
「急いではいけません。簡単なように思えてもこれだけでもかなり時間がかかるはずです。もし余裕があったなら世帯の数を報告してもらいます。世帯の数を数えるためには父母とその子供の関係を規定する必要があります」
「父母が別々の部に住んでいた場合、子はどちらの部の世帯に数えるのか、というようなことか」
「はい。世帯の数が出揃えば、そこから米の収穫高を出して税を見積もります。いずれは武器も世帯の数に合わせて備えされるつもりです」
「六韜、だな」
「そうです」
 葛城王と鎌子は互いに目を見交わして笑んだ。
「それから氏族ごとに擁している僧や尼をすべて朝廷の下に置き、今後しばらく寺院は大王の命により建てさせます」
「仏教を大王の下に置くのか」
「唐と同じやり方ですが、ここは制度を良く知る僧旻殿に任せます」

 ここまでで中央の組織、地方の組織、そして仏教の扱いについて、暫定的ではあっても形が決まったことになる。
 一度に全てを行う事はできない。少しずつ政を変えていこう、というのが鎌子と玄理、そして意見を仰いだ僧旻の提案だった。
「鎌子、良いものを作ってくれた。この内容を母上に伝えてみる。この先も引き続き検討を続けてほしい」
「はい。もちろんです」
 自分の能力を充分に発揮して何かを作り上げ、それを認めてもらう事の嬉しさを鎌子は覚えた。

 ――軽皇子様の代で完成する必要はない。この仕組みはいずれ大王の座に就く葛城王のためのものだ

 執務室に戻る葛城王を見送り、鎌子は再び作業に戻った。まだやらなければならないことは沢山あった。

 六月になってすぐに皇極天皇は中臣御食子を介して自分の意志を臣下に示した。
「十七日に難波に常駐している三韓の官人たちを呼び、皇極天皇が譲位することを伝える。同時に次の大王の選定期間に入ることを臣に告げる。大王は葛城王を皇太子としていることを改めて周知するように」

 詔のすぐ後に、阿倍内麻呂は鎌子を呼んだ。
「軽皇子様がじきじきに大王の前で蘇我入鹿の専横を糾弾することを決意された。三韓の使者が来るあの日だ。混乱が起きて大王に無礼が無いよう、鎌子殿と他数人に周りの者達を押さえる手伝いをしてほしい」

 軽皇子が自分の王位継承権を主張するための方策だろう。だがそんな手荒なことをするつもりなのか、と鎌子は思わず眉をひそめた。鎌子の立場で内麻呂を諫めることはできない。引っ掛かることだけでも尋ねてみた。

「阿倍様に仕える部民ではなくて、私が集めた者たちで良いのですか」
「事が成れば報酬がある。低い身分に甘んじている若者に出世の好機を与えようという軽皇子様の有難い思し召しだ。くれぐれも内密に」

 軽皇子直々の伝言だったらしい。聞いてしまった以上は協力しなければ何らかの報復が待っていると考えていいだろう。それとも、阿倍内麻呂も軽皇子も鎌子が協力することを疑っていないだけだろうか。どちらにしても鎌子には返事を選ぶ自由は無かった。

「分かりました。そのように計らいます」

 鎌子が内麻呂との会話の内容を伝えると、葛城王は少しの沈黙の後で口を開いた。
「阿倍内麻呂がそう言ったのか」
「はい。断るわけにはいきませんので、私と佐伯子麻呂、そして蘇我石川麻呂で対応しようかと思います」
 あまり手を広げずに身内と云える者だけで臨むことを鎌子は決めていたのだが、葛城王が思ってもいなかった提案をした。
「叔父の名が出たのだろう。吾も鎌子たちと行動する」
「貴方が動く必要はありません。どうか私たちにお任せください」
 慌てて葛城王の提案を断ろうとした鎌子を葛城王は強い意志を持った目で見た。
「叔父にすべてを委ねてしまえば、吾の王位継承の権利を後々取り返すことが難しくなる」
 
 倭の歴代の王は、実務経験を充分に積んだ三十歳以降に即位している。軽皇子の年齢は既に四十を超しているのでその条件を満たしているが、ニ十歳の葛城王は若すぎる。だが軽皇子の子はまだ幼く、軽皇子が王位に就けば葛城王が再び皇太子となる可能性が高い。少しでも名を売っておくのは確かに得策だった。

「謁見の間に並ぶ臣たちを抑えるだけでいいのだろう。それにしてももう一人くらい必要だな。鎌子、他に心当たりはあるか」
「佐伯子麻呂に衛士の中から探させましょう」
 拱手する鎌子に葛城王は信頼の笑みを向けた。

 三韓の使者が飛鳥宮にやってくる三日前、葛城王と共に行動する者達が東宮御所の片隅のけやきの木の下に集まった。佐伯子麻呂は稚犬養網田という同僚を連れてきた。子どもの頃から知る仲だという。
「阿倍内麻呂様によれば、軽皇子様が入鹿殿を糾弾するのでその身柄を抑えていてほしいとのことです」
 鎌子の言葉に佐伯子麻呂が頷く。
「分かった。相手は大人の男なのだから自分と勝麻呂の二人で抑えよう」
「蘇我石川麻呂様は他の臣の皆様が騒がないように見張っていてください」
「わたしは大王に奏上する役を仰せつかっている。ちょっと無理ですね」
 石川麻呂のどこか自慢げな物言いには、葛城王に協力できないことへの申し訳なさはあまり感じられなかった。
「ではその奏上が終わってからでよいので、お願いします」

――葛城王に何かしら協力すれば、軽皇子が王位に就いた時に高い位や褒美を貰うことができる

 石川麻呂だけでなく、佐伯子麻呂や犬養勝麻呂もそれを信じて疑うことはなかった。

 皇極天皇四年六月十二日。その日は朝から弱い雨が降り続いていた。
 鎌子は神祇官の正装である黒い長衣をまとい、弓矢を背に担いだ。弓を神祇に使う神祇官ならば弓を持っていてもさほど奇異ではない。佐伯子麻呂と犬養勝麻呂は三韓の使者の従者に紛れるため、それぞれが新羅と百済の服を身に付けた。

 葛城王と鎌子が皇極天皇が謁見の間に姿を現すのを待っていると、舎人が急ぎ足で葛城王のもとにやってきた。
「申し上げます。今、生駒山の物見から急な知らせがありました。今朝がた軽皇子様が軍を率いて離宮を出たとのことです」
 葛城王の反応は鎌子より一呼吸速かった。
「山崎離宮から軍が動いた? 何のことだ。鎌子、叔父に聞いてこい」

 鎌子は動きの邪魔になる神祇官の黒い長衣をその場で脱ぎ捨て、直ちに馬に乗って飛鳥宮から出た。だが駆け出して直ぐ、飛鳥宮近くで百余人の兵士を率いている阿倍内麻呂に遭遇した。

「阿倍様、これはいったい何事ですか。軽皇子様も兵を動かしていると聞きましたが、何をなさるおつもりですか」
 鎌子の糾弾に阿倍はいら立ちを隠さずに怒鳴り返してきた。
「ああ、動いた、動いたわ。だがすぐに戻りおった! 我らは共に軍を率いて宮廷に踏み込む予定だったのに、軽皇子様は怖気づいて直前で取りやめたらしい」
 鎌子が状況を把握しようと辺りを見回すと、騎馬が一頭、走り寄ってきた。
「軽皇子様から阿倍様への伝令です。こちらを」
 使者から差し出された木簡を阿倍はひったくるように受け取った。
「いったいあのお方は何を……!」

――葛城王から王宮を武力で占拠するから協力してほしい、という要請があった。あまりに浅薄、軽はずみな行為なのでわたし自らが鎮圧しようと思ったが、王族同士の争いは避けるべきだと思い直した。大臣である蘇我に葛城王には大王への叛意あり、と伝えるので対応してほしい

「な、何を……っ、軽皇子様はいったい何を言っておられるのだ!」
 鎌子の耳には狼狽え怒る阿倍の怒鳴り声が遠くに聞こえた。

 ――葛城王が阿倍を扇動して王位を簒奪しようとしている。

 それは葛城王を陥れようとする軽皇子の謀略だった。
 鎌子も、阿倍内麻呂も、軽皇子にとっては最初から捨て駒だったに違いない。

 このままでは葛城王に謀叛の疑いがかけられてしまう。
 鎌子は馬首を返すと直ちに飛鳥宮へと駆け戻った。
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