白雉の微睡

葛西秋

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第三章  浮生の都

月照の伎楽

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 阿倍内麻呂と蘇我石川麻呂という二人の大臣が相次いで死亡したことにより、その空席を埋めるべく新たな右大臣と左大臣の任命が行われた。新たな左大臣には巨勢徳陀古こせ とくだこ、右大臣には大伴長徳おおとも ながとこが任じらた。

「蘇我からの登用を止めるようにという吾の進言を大王は聞き入れたようだが、鎌子はこれをどうみる」
 葛城王が執務の合間に鎌子に尋ねてきた。
 季節は春を迎え、子代離宮で葛城王が執務を取る部屋の窓の外からは管弦の音色が微かに聞こえてきていた。難波の王宮の工事は未だ終わらず、孝徳天皇は周囲の仮宮を転々と移動している。改新に伴う様々な実務を中心となって担うのは、子代離宮に留まり続ける葛城王と鎌子だった。

巨勢徳陀古こせ とくだこ殿は武人です。大王はご自身の軍事力を強めたいと考えておられるのではないでしょうか。巨勢殿はかつて山背大兄王を討った蘇我入鹿に従っていますが、先に葛城王が蘇我蝦夷を討伐した時にも功がありました」
「結局はどちらも大王の王位継承に繋がっている。巨勢は大王には忠実なのだろうが年寄りすぎる」
 葛城王が討った蘇我蝦夷と入鹿の親子は、孝徳天皇と最後まで王位継承を争った古人大兄王を擁立していた。蘇我親子の脱落により古人大兄王は後ろ盾を失って王位継承の争いに敗れたのだが、場合によっては自らも陥れられる危険があったことを葛城王は忘れていなかった。
 鎌子は軽く頷いて葛城王に同意を示した。

大伴長徳おおとも ながとこ殿は 僧旻そうみん殿の推薦か、あるいは宝皇女様のご意思があったのではないでしょうか」
 大伴長徳は名を馬養とも云い、推古天皇の代から王族に仕えている。宝皇女が皇極天皇として王位にあった時には白百合の花を献じたこともある大伴氏の長である。
「母上の意思というのはあるな」
 葛城王は軽く溜息をついて椅子の背に上体を預けた。

 先の天皇でもあった宝皇女は孝徳天皇の皇后となった娘の間人皇女と行動を共にしていた。当然、孝徳天皇のゆく先々について行くことになる。右大臣に任命された大伴長徳は宝皇女への忠誠を持ち続けており、宝皇女が唐からの外圧で譲位を余儀なくされたことも知っていた。

「それだけではなく大伴殿には唐の使者を応対した実績があります。阿倍内麻呂殿に代わる新たな王宮建設の責任者として適任だと旻殿も推薦したのではないかと思われるのです」

 阿倍内麻呂は僧旻の助言を受けて唐の王宮を模した新たな難波宮の建設に着手していた。阿倍内麻呂が亡き後、事業を引き継ぐ人材は必須だった。

「何にせよ蘇我をしばらく王権から遠ざけることが必要だ。古人大兄王の時は蘇我川堀が謀叛を唆し、今度は蘇我日向そが ひむかが同族の石川麻呂を陥れた。彼らに意思の疎通があったとは思えないが、王権に近づこうとする蘇我の意志は一族に根強く共有されているのだろう」
「かといって蘇我の領地は各地にありますから、国司の制度が確立するまでは根絶するわけにはいきません。彼の領地には百済からの渡来民も数多くいます」
「蘇我には時々に圧を掛けて王族の権力が絶対であることを示さなければ。百済との交易など彼らが独占していた役割はすべて王権へ移し、官人が職務として担当するようにしなければならない」
 窓の格子越しに春の空を見上げる二十四歳の葛城王の眼差しには改新を遂行する強い意志が明らかだった。

 蘇我石川麻呂を讒言した蘇我日向は、葛城王の断固とした意向で筑紫大宰帥に任じられた。要職とはいえ実体は左遷である。孝徳天皇はこの人事に反対しなかった。臣を手駒にしか見ていないのは以前から変わっていない。むしろ日向が遠方に飛ばされることで事件の本質は曖昧になり都合が良くさえあった。
 左右いずれかの大臣への昇進は当然のことだと思っていた蘇我日向は、己の昇進の望みを絶たれ、恨みを抱いたまま筑紫へと向かった。

 大化五年のこの年、新羅王は金多遂きんたすいを倭に派遣した。流石に前回のように皇太子である金春秋は来なかったが、歌舞の芸能に秀でた才伎を送る、と云っていた金春秋のその言葉通り、金多遂が伴った従者の中には舞楽に長けた才伎が含まれていた。

 新羅は政府の要職に王族を出自とする者を登用している。金多遂も新羅王族の末端に連なってはいるが同程度に王族の血を引く者は周囲に多数いた。皇太子であった金春秋には遠く及ばず、金多遂はあくまで新羅高官としての来訪だった。
 相手が王族ならば倭国も王族の一員が応対するが、金多遂には位の上では同程度である鎌子が子代離宮で対応した。

 新羅の使者として金多遂が倭国にもたらした情報は重大なものだった。
「新羅は昨年、唐と同盟を結びました」
 開口一番の金多遂の言葉は鎌子が予想していたものだった。
「その話は貢献の使者からも聞いていましたが、新羅はよく唐と同盟を結ぶことができましたね」
「金春秋様が自ら唐に出向き、唐の皇帝に謁見したのです」
 同盟とはいっても新羅が唐に従属する意思を示して結んだ同盟は上下関係が明らかだった。だが金多遂は新羅と唐が対等な同盟関係であるという建前を崩さなかった。
「倭国は唐とはどのような関係を結ぶつもりでしょうか」
 何気ない体で聞いてくるが、新羅の後ろ盾に唐がいることを認識させようとする思いが隠しようなく金多遂の表情から滲んでいる。
「近いうちに遣唐使を派遣して唐の皇帝にお目通り願う予定です」
 金多遂は鎌子の言葉を聞くと少々わざとらしく首を横に傾げた。
「葛城王の邸に火がつけられたと聞きましたが、大事はございませんでしたか」
「……話が伝わるのが早いですね」
 鎌子がそう受け流そうとすると、金多遂はにこやかな顔のまま言葉を重ねてきた。
「左大臣の謀叛があったとも聞いています。金春秋様は、以前お世話になった葛城王は無事なのかと心配しておりました。遣唐使を派遣するにしても足元が不確かではいけません」
 心からの憂慮なのだと金多遂の表情は告げていたが、倭の内情が新羅朝廷まで伝わる速さが問題だった。

「鎌子、やはり我が国の内情が他国に筒抜けになるのは良いことではないだろう」
 鎌子からの報告を聞いた葛城王は軽く眉を寄せた。
「私もそう思います。外交の場と政治の場には距離が必要です。これまでは山を隔てた飛鳥に都があったので、ここまでこちらの状況が新羅に伝わることは無かったかと」
「三韓からの使者を受け入れるのは難波でもいいが、やはり都は飛鳥に戻そう」
「そのことですが」
 葛城王のやや性急な考えを鎌子は制した。
「飛鳥の土地は改新が進めば手狭になってくるでしょう。葛城王、どうか飛鳥以外の場に王宮を作ることも視野に入れておいていただきたいのです」
 鎌子の提案を聞いた葛城王は素直にそれに頷いた。
「そうだな。僧侶を養成する寺院もいくつか建てなければならないし、鎌子は大学寮を拡張したいと前から言っていた。それらを考えるなら確かに飛鳥の土地は狭い。分かった、ならば鎌子、新たな都を置くべき土地を選定してほしい」
 鎌子は拱手して葛城王の命を受けた。
「西国の国司配置がすべて終わり次第、直ちに新たな都に相応しい土地を探します」

 金春秋が葛城王と面会したあと早々に倭国を発ったのに対し、金多遂はしばらく倭国に留まるといった。
「なに、私は新羅から倭国に遣わされた人質です。あまりお気遣いなどなさらぬよう。ご心配なさらなくても百済の民たちのように倭国の土地に好き勝手に住みついたりはいたしませんよ」
 金多遂は三韓の館の一室に従者たちと落ち着き、高向玄理が彼らの滞在中の世話を請け負うことになった。

「鎌子、今夜の宴には子麻呂も呼べ。子麻呂にいいものを見せてやろう」
 秋の夕方、子代離宮から私邸に戻る道中に葛城王は鎌子にそう言った。
 今宵は水面に映る月を眺めながらの宴を催すことが数日前から決まっていた。鎌子が葛城王に云われた通りに佐伯子麻呂を連れて葛城王の私邸に出向くと、既に邸の広間では宴の支度が整えられていた。

 舎人に案内されるまま、鎌子と子麻呂は奥の座に着く葛城王の左右に腰を下ろした。板張りの床の上には茅の敷物、綿の敷物、絹の敷物が錦繍の彩を重ね、彼等の座る左右には白絹の几帳が立てられて周囲からの視線を遮っている。
 やがて管楽の演奏が始まると庭に誂られた舞台の上に夜目にも鮮やかな衣装を着けた踊り手たちが現われた。

 月の光に篝火に、赤や緑の衣装の揺らぎや異形の面が照らし出される。
 鉾や盾を持ち、鳥の翼や蝶の羽の飾りを付けた踊り手が軽々滑るように舞台を行き交うその背後から、楽器の調達が間に合わなかったのか倭国の笛や琴も雅楽の演奏の音色に紛れ込む。
 隋唐の影響を受けた新羅の歌舞。それを新羅の才伎から学んだ倭国の踊り手が一通り披露し終えて舞台から下がると、次には大和言葉の流行り歌も楽器の演奏とともに歌われた。

「これはなかなか見事なものですね」
 前に置かれた酒肴に手を付けることも忘れて歌舞に見入っていた鎌子がそう云うと、葛城王は嬉しそうに笑んだ。
 大陸の舞楽はすでに百済から伝わってきていたが、人々の世俗の営みを多く取り込んだ百済の舞楽に比べて、新羅の伎楽は世俗から離れる技能に徹していた。
 佐伯子麻呂は口を開けて舞台を見ていたのだが、酒が回った様子で席を立つと舞台から下がっていた妓女を広間に引っ張り上げて手をつないだまま踊り出した。
 新羅の伎楽よりも百済の舞楽よりも素朴なその踊りは、どうやら彼の地元の踊りのようだ。妓女も面白がって子麻呂の動きをまね、先ほどの華麗な踊りとは趣向が異なるどこか可笑しみのある踊りが広間に居並ぶ宴客たちを盛り上げた。
 宴客たちの中には若い官人や大学寮の学生たちもいて、彼らは大笑し手を叩いて大いに即興の演目を楽しむばかりか、数人が踊りの中に加わって自らも踊り始めた。 

 宴が終わって誰もいなくなった広間で、葛城王と鎌子は二人、月に照らされる無人の舞台を眺めながら酒を飲んだ。河内湖の水際に打ち寄せる波音は降り注ぐ月光の音のようだった。
「葛城王、私はしばらく紀の国に行きたいのですがお許しいただけるでしょうか」
「鎌子のことだから必要があって行くのだろう。何をしに行く」
「神祇祭祀の統一について紀国の神官と話をしに行きます。すでに三輪氏、物部氏については話を聞き終えています。実際に紀の国の祭祀の場を見せてもらいますので、二十日ほどいただければと」

 氏族の祭祀信仰をまとめ合わせて体系を統一し王権に権力を集中させる礎とする。それは大化の改新の一環として神祇官である中臣を出自とする鎌子が以前から取り組んでいる仕事だった。

「鎌子には多くの仕事を任せてしまっている。大変だろうが頼んだ」
「葛城王に毎日報告の使いを出します。何かありましたら海路で半日の距離です、直ぐに戻って参りましょう」
「何人ぐらいで行くつもりだ」
「中臣から従者を五人ほど連れて行くつもりです」
「少ない。鎌子は内臣だ、吾の兵を連れていけ」
 今や暗殺の危険は葛城王だけでなく、内臣の鎌子にも及びつつあった。
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