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第三章 浮生の都
大国の蠢動
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「神への雨の祈りすらままならないとは、倭の大王たる資格がない」
難波宮周辺の水害にことのほか憤慨したのは宝皇女だった。
宝皇女は古から王族に伝わる祭祀を重視していた。皇極天皇として王座に在ったときには雨乞い祭祀を行い、旱に乾いた飛鳥の田畑に雨を降らせた。当時、宝皇女が行った祭祀を補佐していたのは鎌子の父で神祇官だった中臣御食子であり、祭祀の成功は王権への求心力を大いに呼び戻す効果があった。
「今の倭の大王は唐への体面を取り繕うためのわたしの代理に過ぎない。渡来の呪いごとを重んじて古からの祭祀を軽んずるのは自らが倭の王族であることを忘れるのと同じこと。王位も、そして我が娘も返してもらおう」
難波長柄豊崎宮の後宮で、宝皇女は自分の弟である孝徳天皇を強く批判した。そればかりでなく、孝徳天皇の皇后である娘の間人皇后にも強く迫った。
「間人、私と供に来なさい。こんなに水が溢れた土地ではとてもではないが暮らしていけない。飛鳥の宮に戻るぞ」
母によく似た顔立ちながら気弱な風情が抜けきらない間人皇后は、宝皇女に素直に同意した。
「ええ、お母さまわたしもそう思います。わたしはほんとうに山の草木の香りがする飛鳥の土地が懐かしい」
前年の洪水で邸を流された官人も多い。未だ権勢の衰えない宝皇女の言葉に同調する者達は、後宮を中心にして次第に豊崎宮の全体に増えていった。
豊崎宮内の権力の分裂の兆しを知った葛城王は、鎌子を後宮に遣わせて宝皇女の説得を試みた。だが宝皇女は鎌子への謁見を拒否し、代わりに古くから使える女官が面会の場に現れた。
「内臣様、宝皇女様は誰の意見も聞く必要はないと仰せです。宝皇女様は飛鳥宮の手入れが済んだらすぐにでも移るおつもりです」
「では間人皇后にお会いすることはできませんか」
「間人皇后は宝皇女様のお部屋でご一緒に過ごされております。お会いするには宝皇女様の許可が必要です」
用向きは聞く、という建前での面会だったが、十分な説明も説得もできないまま鎌子は引き下がらずを得なかった。
「宝皇女様の意思は非常に強く、こちらの言葉は通りません。葛城王が直接お会いになってはいかがでしょう」
鎌子は葛城王の私邸でこれまでの経過を報告した。
奥庭に面した部屋からは、そろそろと冬の気配が漂い始めた十一月の晩秋の夜空を見上げることができた。冴えざえ渡る夜の空には上弦の月がかかっていて、海を渡る雁の群れが時折その光を遮っていく。
渡来の燭台で灯りを、片手に酒器を取りながら、葛城王と鎌子の二人だけの語らいに何の気兼ねもいらなかった。
どのような奸計が張り巡らされているかも分からない王宮では話せることが限られる。葛城王と鎌子には二人だけで密談できる場所が必要だった。
鎌子の提案に、葛城王は首を横に振った。
「吾もまた母と対立すれば王族が三つに分かれることになる。それは避けなければならない。けれど母上のことだ、大王とこじれれば王位の簒奪も辞さないだろう」
軽く溜息を吐いた葛城王は、今年で二十八歳だった。政治経験は他の王族よりも格段に積んでいるが、これまでの大王がそうであるように、三十を過ぎない王族が王位に就くことは、この時代、認められていなかった。
「それにしてもなぜ間人は母上にそう唯々諾々としたがうのだ。仮にも皇后だぞ」
葛城王は実の妹のふるまいに不満を漏らした。
「おそれながら、間人皇后は孝徳天皇の妃となられてからも日々、全ての判断を宝皇女様に委ねているのだそうです」
宝皇女の間人皇后に対する干渉の強さに鎌子は不審すら覚えたが、女官たちはそれを当たり前として受け入れていた。
「……間人は以前からそうだった。皇后となった今ですらそうなら、今後も変わることは無いだろう」
「葛城王、どういたしましょうか」
「飛鳥宮の補修は吾が命じて行うことにし、母上には補修が終わるまで飛鳥に移るのを待っていただこう。時間稼ぎだが、その間に大王にも再度、遷都を考えていただく」
宝皇女にも孝徳天皇にも配慮した葛城王の案だったが、
「遅かれ早かれ大王と宝皇女様との決裂は免れません。葛城王、どうか今のうちにどちらにつくのか心を決めて下さい」
鎌子はどっちつかずの決断がこれまでに引き起こしてきた事態を葛城王に思い出させた。決断を先延ばしにすればするほど混乱が生じたときの損害は大きい。
「……吾の一番の目的は改新を推進することだ。大王は改新には協力的だが、吾を邪魔に思っている。改新が成ればその成果を己がものにするために吾を皇太子から廃するだろう」
葛城王の推察に鎌子は同意した。
「その時は倭を二つに分ける大きな戦になるでしょう」
「吾が母上につけば、母上が重んじている王族の古い神祇を律令のしくみの中に組み込まなければならない」
「それは私が対応できる問題です」
「では吾は母上につこう。鎌子、その時のための準備を頼む」
鎌子は軽く頭を下げて承諾の意を示し、空いた葛城王の盃に瓶子から酒を満たした。その盃に葛城王が口を付けるのを待ち、鎌子は、
「もうひとつ、遣唐使の派遣が急務です」
と、別の話題を切り出した。
「今日、玄理殿から密かに知らせが来ました。唐が倭への侵攻を目論んでいると新羅の使いから伝え聞いたとのこと。あえて倭に情報を寄こすのは金春秋の計略であることは確実ですが、黙殺できない情報です」
女王の統治を理由に新羅や倭に侵攻しようとしていた唐だが、孝徳天皇が倭を統治している今、図らずもそれは言い訳だったことがこれで明らかになった。
「……今の母上の耳には入らないでほしい内容だな」
「唐による倭への侵攻が本気なのかは現時点では分かりません。あるいは暗に使いを寄こせという要求なのかもしれません。葛城王、遣唐使を派遣しましょう」
「分かった。遣唐使に適切な人物を揃えるのにどのくらいかかる」
「玄理殿の大学寮と検討し、数日中に候補をお伝え出来ます」
「必ず海を渡ることができるように船は二隻出す。大使は二人、副使も二人だ」
「はい、承知しました。それから……」
鎌子は一度姿勢を直してから、葛城王の前に頭を下げた。
「葛城王、お願いがあります。遣唐使の一行に私の息子を加えて下さい」
「鎌子の息子といえば……」
葛城王は言葉を途中で飲み込んだ。出自を隠されてはいるが、鎌子が自分の子として養っているのは孝徳天皇が采女の一人に産ませた子だった。
「今年で十歳になりました。年が若ければ若いほど異なる言葉を習得しやすいとは玄理殿の言葉です。私もそのように思います。我が子はすでに出家させ、法名を定恵と名乗っています。学問僧として遣唐使に同行させてください」
「しかし遣唐使は危険な任務だ。船が途中で難破すれば生死も危うい」
「承知しています。けれどその危険を顧みず、新羅の金春秋は自ら倭国にやってきました。それにもし何かあったとしても」
鎌子は頭を上げて葛城王と正面から目を合わせた。
「大王の御子は、有間皇子おひとりで充分かと」
孝徳天皇と阿倍内麻呂の娘である小足媛の間に生まれた有間皇子は、この時、十三歳になっており王族の一人として育てられていた。次の王位継承をめぐって葛城王と争いが避けられない相手である。
今、孝徳天皇の皇子として認められているのは有間皇子だけだった。もし有間皇子の他に孝徳天皇の血を引く子がいることが知られれば、王位継承の争いはより複雑なものになる。
――ならば出家させて政から遠ざけ、遣唐使として国外に出し、場合によっては命を落とすことになっても構わない。
鎌子の冷酷な決断を知った葛城王は一瞬だけ目を伏せ、だがすぐに鎌子を正面から見た。
「……わかった。では定恵を遣唐使の一員に加えよう」
ありがとうございます、と鎌子は叩頭した。
「私の息子、定恵だけでは他の者から余計な詮索を受けましょう。学問僧として自らの子息を遣唐使に同行させるよう、他の臣にも声を掛けます。彼らの勉学が成就すれば、必ずこの国の将来に貢献するでしょう」
葛城王は鎌子の目を見て頷き、酒盃を交わして飲み干した。
冴えた夜空に掛かっていた上弦の月は西の山並みに沈みつつあった。
白雉四年五月、遣唐使として大使・吉士長丹、副使・吉士駒と定恵ら学問僧を含む百二十人を乗せた船と、大使・高田首根麻呂、副使・掃守小麻呂ら、こちらも百二十人を乗せた船の二隻が難波湊を出港した。
この遣唐使の一行が瀬戸内海を経て筑紫の湊で渡航に備えた準備を整えていたちょうどその頃、かつて推古天皇の命を受けて大陸に渡ったこともある僧旻が死亡した。
僧旻は舒明天皇(葛城王の父)から志を引き継いだ大化の改新の中心人物の一人であり、また新たな国づくりの主要な柱に仏教を定着させた貢献者でもある。共に大陸に渡った南淵請安や高向玄理らと隋から唐へと大陸の支配者が入れ替わる激動の時代をその目で見ていた。
蘇我石麻呂の死後、特に僧旻を篤く信用するようになっていた孝徳天皇はもちろんのこと葛城王や宝皇女などの他の王族も僧旻の死を悼み、弔いの使いを送った。
国博士であった僧旻の後継者をどうするのか。そんな調整もままならないまま難波宮の葛城王の下には次々に知らせが舞い込んでいた。
「金春秋が次の新羅王に就くことが決まったそうです」
鎌子の報告を聞く葛城王の手元には西国の国司から送られてきた木簡が積まれている。
「唐と新羅の関係はこれまで以上に強くなる。倭国での諜報活動も活発になるだろう。百済の王族の住処に警備の兵を増やそう」
「百済王族の身内に所業が良くない者がいるとの報告も有ります。警備の兵を増やすのは賢明なご判断です」
「他には」
「遣唐使の船が一艘、遭難しました。乗員の安否は不明です」
難波宮周辺の水害にことのほか憤慨したのは宝皇女だった。
宝皇女は古から王族に伝わる祭祀を重視していた。皇極天皇として王座に在ったときには雨乞い祭祀を行い、旱に乾いた飛鳥の田畑に雨を降らせた。当時、宝皇女が行った祭祀を補佐していたのは鎌子の父で神祇官だった中臣御食子であり、祭祀の成功は王権への求心力を大いに呼び戻す効果があった。
「今の倭の大王は唐への体面を取り繕うためのわたしの代理に過ぎない。渡来の呪いごとを重んじて古からの祭祀を軽んずるのは自らが倭の王族であることを忘れるのと同じこと。王位も、そして我が娘も返してもらおう」
難波長柄豊崎宮の後宮で、宝皇女は自分の弟である孝徳天皇を強く批判した。そればかりでなく、孝徳天皇の皇后である娘の間人皇后にも強く迫った。
「間人、私と供に来なさい。こんなに水が溢れた土地ではとてもではないが暮らしていけない。飛鳥の宮に戻るぞ」
母によく似た顔立ちながら気弱な風情が抜けきらない間人皇后は、宝皇女に素直に同意した。
「ええ、お母さまわたしもそう思います。わたしはほんとうに山の草木の香りがする飛鳥の土地が懐かしい」
前年の洪水で邸を流された官人も多い。未だ権勢の衰えない宝皇女の言葉に同調する者達は、後宮を中心にして次第に豊崎宮の全体に増えていった。
豊崎宮内の権力の分裂の兆しを知った葛城王は、鎌子を後宮に遣わせて宝皇女の説得を試みた。だが宝皇女は鎌子への謁見を拒否し、代わりに古くから使える女官が面会の場に現れた。
「内臣様、宝皇女様は誰の意見も聞く必要はないと仰せです。宝皇女様は飛鳥宮の手入れが済んだらすぐにでも移るおつもりです」
「では間人皇后にお会いすることはできませんか」
「間人皇后は宝皇女様のお部屋でご一緒に過ごされております。お会いするには宝皇女様の許可が必要です」
用向きは聞く、という建前での面会だったが、十分な説明も説得もできないまま鎌子は引き下がらずを得なかった。
「宝皇女様の意思は非常に強く、こちらの言葉は通りません。葛城王が直接お会いになってはいかがでしょう」
鎌子は葛城王の私邸でこれまでの経過を報告した。
奥庭に面した部屋からは、そろそろと冬の気配が漂い始めた十一月の晩秋の夜空を見上げることができた。冴えざえ渡る夜の空には上弦の月がかかっていて、海を渡る雁の群れが時折その光を遮っていく。
渡来の燭台で灯りを、片手に酒器を取りながら、葛城王と鎌子の二人だけの語らいに何の気兼ねもいらなかった。
どのような奸計が張り巡らされているかも分からない王宮では話せることが限られる。葛城王と鎌子には二人だけで密談できる場所が必要だった。
鎌子の提案に、葛城王は首を横に振った。
「吾もまた母と対立すれば王族が三つに分かれることになる。それは避けなければならない。けれど母上のことだ、大王とこじれれば王位の簒奪も辞さないだろう」
軽く溜息を吐いた葛城王は、今年で二十八歳だった。政治経験は他の王族よりも格段に積んでいるが、これまでの大王がそうであるように、三十を過ぎない王族が王位に就くことは、この時代、認められていなかった。
「それにしてもなぜ間人は母上にそう唯々諾々としたがうのだ。仮にも皇后だぞ」
葛城王は実の妹のふるまいに不満を漏らした。
「おそれながら、間人皇后は孝徳天皇の妃となられてからも日々、全ての判断を宝皇女様に委ねているのだそうです」
宝皇女の間人皇后に対する干渉の強さに鎌子は不審すら覚えたが、女官たちはそれを当たり前として受け入れていた。
「……間人は以前からそうだった。皇后となった今ですらそうなら、今後も変わることは無いだろう」
「葛城王、どういたしましょうか」
「飛鳥宮の補修は吾が命じて行うことにし、母上には補修が終わるまで飛鳥に移るのを待っていただこう。時間稼ぎだが、その間に大王にも再度、遷都を考えていただく」
宝皇女にも孝徳天皇にも配慮した葛城王の案だったが、
「遅かれ早かれ大王と宝皇女様との決裂は免れません。葛城王、どうか今のうちにどちらにつくのか心を決めて下さい」
鎌子はどっちつかずの決断がこれまでに引き起こしてきた事態を葛城王に思い出させた。決断を先延ばしにすればするほど混乱が生じたときの損害は大きい。
「……吾の一番の目的は改新を推進することだ。大王は改新には協力的だが、吾を邪魔に思っている。改新が成ればその成果を己がものにするために吾を皇太子から廃するだろう」
葛城王の推察に鎌子は同意した。
「その時は倭を二つに分ける大きな戦になるでしょう」
「吾が母上につけば、母上が重んじている王族の古い神祇を律令のしくみの中に組み込まなければならない」
「それは私が対応できる問題です」
「では吾は母上につこう。鎌子、その時のための準備を頼む」
鎌子は軽く頭を下げて承諾の意を示し、空いた葛城王の盃に瓶子から酒を満たした。その盃に葛城王が口を付けるのを待ち、鎌子は、
「もうひとつ、遣唐使の派遣が急務です」
と、別の話題を切り出した。
「今日、玄理殿から密かに知らせが来ました。唐が倭への侵攻を目論んでいると新羅の使いから伝え聞いたとのこと。あえて倭に情報を寄こすのは金春秋の計略であることは確実ですが、黙殺できない情報です」
女王の統治を理由に新羅や倭に侵攻しようとしていた唐だが、孝徳天皇が倭を統治している今、図らずもそれは言い訳だったことがこれで明らかになった。
「……今の母上の耳には入らないでほしい内容だな」
「唐による倭への侵攻が本気なのかは現時点では分かりません。あるいは暗に使いを寄こせという要求なのかもしれません。葛城王、遣唐使を派遣しましょう」
「分かった。遣唐使に適切な人物を揃えるのにどのくらいかかる」
「玄理殿の大学寮と検討し、数日中に候補をお伝え出来ます」
「必ず海を渡ることができるように船は二隻出す。大使は二人、副使も二人だ」
「はい、承知しました。それから……」
鎌子は一度姿勢を直してから、葛城王の前に頭を下げた。
「葛城王、お願いがあります。遣唐使の一行に私の息子を加えて下さい」
「鎌子の息子といえば……」
葛城王は言葉を途中で飲み込んだ。出自を隠されてはいるが、鎌子が自分の子として養っているのは孝徳天皇が采女の一人に産ませた子だった。
「今年で十歳になりました。年が若ければ若いほど異なる言葉を習得しやすいとは玄理殿の言葉です。私もそのように思います。我が子はすでに出家させ、法名を定恵と名乗っています。学問僧として遣唐使に同行させてください」
「しかし遣唐使は危険な任務だ。船が途中で難破すれば生死も危うい」
「承知しています。けれどその危険を顧みず、新羅の金春秋は自ら倭国にやってきました。それにもし何かあったとしても」
鎌子は頭を上げて葛城王と正面から目を合わせた。
「大王の御子は、有間皇子おひとりで充分かと」
孝徳天皇と阿倍内麻呂の娘である小足媛の間に生まれた有間皇子は、この時、十三歳になっており王族の一人として育てられていた。次の王位継承をめぐって葛城王と争いが避けられない相手である。
今、孝徳天皇の皇子として認められているのは有間皇子だけだった。もし有間皇子の他に孝徳天皇の血を引く子がいることが知られれば、王位継承の争いはより複雑なものになる。
――ならば出家させて政から遠ざけ、遣唐使として国外に出し、場合によっては命を落とすことになっても構わない。
鎌子の冷酷な決断を知った葛城王は一瞬だけ目を伏せ、だがすぐに鎌子を正面から見た。
「……わかった。では定恵を遣唐使の一員に加えよう」
ありがとうございます、と鎌子は叩頭した。
「私の息子、定恵だけでは他の者から余計な詮索を受けましょう。学問僧として自らの子息を遣唐使に同行させるよう、他の臣にも声を掛けます。彼らの勉学が成就すれば、必ずこの国の将来に貢献するでしょう」
葛城王は鎌子の目を見て頷き、酒盃を交わして飲み干した。
冴えた夜空に掛かっていた上弦の月は西の山並みに沈みつつあった。
白雉四年五月、遣唐使として大使・吉士長丹、副使・吉士駒と定恵ら学問僧を含む百二十人を乗せた船と、大使・高田首根麻呂、副使・掃守小麻呂ら、こちらも百二十人を乗せた船の二隻が難波湊を出港した。
この遣唐使の一行が瀬戸内海を経て筑紫の湊で渡航に備えた準備を整えていたちょうどその頃、かつて推古天皇の命を受けて大陸に渡ったこともある僧旻が死亡した。
僧旻は舒明天皇(葛城王の父)から志を引き継いだ大化の改新の中心人物の一人であり、また新たな国づくりの主要な柱に仏教を定着させた貢献者でもある。共に大陸に渡った南淵請安や高向玄理らと隋から唐へと大陸の支配者が入れ替わる激動の時代をその目で見ていた。
蘇我石麻呂の死後、特に僧旻を篤く信用するようになっていた孝徳天皇はもちろんのこと葛城王や宝皇女などの他の王族も僧旻の死を悼み、弔いの使いを送った。
国博士であった僧旻の後継者をどうするのか。そんな調整もままならないまま難波宮の葛城王の下には次々に知らせが舞い込んでいた。
「金春秋が次の新羅王に就くことが決まったそうです」
鎌子の報告を聞く葛城王の手元には西国の国司から送られてきた木簡が積まれている。
「唐と新羅の関係はこれまで以上に強くなる。倭国での諜報活動も活発になるだろう。百済の王族の住処に警備の兵を増やそう」
「百済王族の身内に所業が良くない者がいるとの報告も有ります。警備の兵を増やすのは賢明なご判断です」
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