白雉の微睡

葛西秋

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第四章 朝闇の深林

渡津海の旗雲

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  斉明天皇六年四月。王を失くし、国を無くした百済の臣は猛将鬼室福信きしつ ふくしんを頭にして新羅軍への抗戦を続けていた。

 鬼室福信は抵抗勢力を根絶やしにしようとする新羅や唐の監視の目をかい潜り、倭国へ使者を送った。目的は倭国に亡命していた百済の皇太子を帰国させ新たな王にするためである。

「貴国でお世話いただいた百済王の皇太子、豊璋様をお迎えにあがりました。また倭国の大王からの援軍を是非ともお願いいたします」

 斉明天皇の王宮である飛鳥後岡本宮で、鬼室福信が寄こした使者、自進じしんは肘を高く上げ指を固く組み合わせ拱手した。倭国の作法と似ているようで微妙に異なる百済の武人の振る舞いは、飛鳥宮の朝堂に並ぶ臣や官人たちの目を引いた。

「ここに我らが虜囚とした唐の兵を百人ほど献上いたします」
 自進がそう云って配下の者に合図をすると、手枷を嵌められ首と腰を紐で繋がれた唐の虜囚数人が斉明天皇の前に引き出された。斉明天皇はさほどの感慨もなく一瞥し、
「葛城王、この者達の処遇を任せる」
 そう葛城王に命じた。葛城王は護衛の兵士に唐の虜囚を引き取らせた。

「さて、百済の使者」
 斉明天皇はまっすぐに自進を見た。その眼光の強さに立っていた自進は両膝を付いた。
「倭と百済は浅からぬ縁がある。その我らの縁を唐や新羅が知らぬはずはない。倭国がこのまま百済を見捨てては、彼の者たちの増長に見て見ぬふりをすることになる。そなたらの願いは叶えてやる、百済皇子に援軍を付けて引き渡そう。倭の援軍を以て新羅を百済の領地から放逐すればよい」
 自進は喜色を浮かべて石床に叩頭し、配下の者達も自進に倣った。
 一方、斉明天皇の傍らに立つ葛城王は眉を顰め、臣の列に並ぶ鎌子に目線を寄こした。鎌子は軽く黙礼して葛城王の困惑に同調する意思を示した。

「自進とやら、後のことは皇太子である葛城王に任せる。充分に話し合うがよい」
 斉明天皇はそう言うと王座を立って朝堂を出ていった。
 葛城王は自進に日を改めて王宮へ呼び出すことを伝え、その日は王宮から下がらせた。

「新羅相手の戦の準備など、そう簡単にできるものではない。母上はもう少し慎重に百済への返事をしなければならないのに……!」
 執務室の中を足早に歩き回りながら憤懣を口にする葛城王に、鎌子は自分の考えを提案した。
「葛城王、何も戦をする必要はありません。王位継承の筆頭である豊璋様を百済の地に送るための護衛の兵のみを用意すればよろしいかと。ある程度の規模の兵を送り、倭国への侵攻を抑制すれば十分です」
「その兵はどうする」
「西国に、出させましょう」
 思いがけない鎌子の言葉に葛城王は寄せていた眉根を解いた。

「鎌子の策を聞こう」
 鎌子は葛城王に椅子を勧め、葛城王が座るのを待って説明をした。
「大王が云われたように、これまでの倭国との関係を鑑みるならば我らが百済王族を積極的に切り捨てることはできません。百済には自分自身の手で祖国を取り戻してもらいましょう。一方で倭国の西国は国司が派遣されてもその土地の統治までは進んでいません」
「そうだ、出雲は未だ国司を拒否し、吉備も国司の役目に協力的ではない」
「今回の百済出兵は敵が新羅であり、倭国内に敵を作るものではありません。西国の諸国が隣国を気にせず兵を徴用できる絶好の機会です」
 鎌子の説明を聞いた葛城王の表情は目に見えて明るくなった。
「確かにそうだ。ならば吾が直接軍を牽き、官道を西へ向かいながら西国の国司に徴兵を命じよう」
「葛城王の命令を直接伝えられる効用は大きいものと存じます。また、葛城王自らが軍を牽いて筑紫の湊まで行けば、百済の臣もそれが援軍であることを疑わないでしょう」
 ただ、と鎌子はいったん言葉を切った。一呼吸置いたのち、
「新羅や唐が倭国の軍が動いたことを知れば、彼等の攻撃が倭国に向かう可能性が高くなります」
「それは……」
 葛城王は僅か視線を泳がせ、けれど直ぐに鎌子を見た。
「鎌子、唐新と新羅への説明と交渉を頼む。その任にふさわしいのはお前しかいない」

 その葛城王と鎌子の結論に異を唱えたのは斉明天皇だった。
「大王であるわたしが軍を牽く。いにしえに王族の妃が軍を率いて新羅を征服したと聞く。わたしもその例に倣おう。海の向こうの国々に倭国の大王があることを知らせるのだ」
 斉明天皇が軍を牽くことは他の臣から反対の意見はなかった。ただ、老いた体に陸路の輿はつらいということで斉明天皇は船に乗って内海を移動することになった。

 斉明天皇六年十二月、倭国の軍は十数隻からなる船団を難波湊に集結させた。そして年明けの行事を難波宮で行うと、一月六日には出陣の準備を整えた。
 唐や新羅と秘密裏に交渉を行う鎌子は飛鳥宮に留まるため、葛城王たちの出陣を難波湊で見送ることになった。

 難波湊の空には飛鳥やその奥の吉野の山々から流れきた旗雲がたなびいている。

 武器や馬の積み込みを見届け終えた鎌子の目に、船の帆が真冬の風に揺れているのが見えた。
 ちょうど一年前、鎌子はこの場所で唐へ向かう高向玄理を見送った。玄理は唐で客死し、遺品は返されたものの遺体は彼の地に埋葬されて倭国には戻ってこなかった。

 今、王族が乗る船の周りでは一行の航海の無事を祈る祭祀が行われているところだった。

「せいぜい時間を稼ぐことにするさ。鎌子はそれが望みなのだろう?」
 祭祀が終わり、斉明天皇を乗せた輿が船へと担ぎ上げられる間、葛城王と鎌子は言葉を交わした。
「お心遣いありがとうございます、葛城王」
「鎌子、唐や新羅との交渉にどのぐらいの時間稼ぎが必要か」
「短くて三ヶ月、できれば半年」
「吾が半年も飛鳥宮を空けるわけにはいかない。三ヶ月だ。それまでに結論を出せ」
 葛城王の焦燥を知っている鎌子は拱手し、それ以上何も言わずにその命を受けた。
「母上にはできるだけゆっくりと筑紫に向かってもらおう。途中、伊予国には石湯行宮がある。良い温泉があってしかも亡き父上との思い出の地だ、異存はないだろう」

 鎌子が拱手して同意を示したその時、陽光が一瞬遮られ、二人の足元を影が走り去った。
 二人して思わず空を見上げると、白い海鳥が葛城王と鎌子の頭上を飛び去っていくところだった。
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