月の許嫁と太陽〜世子の許嫁になった少女の運命〜

空岡立夏

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十六、王妃の反対

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 穏やかな時が流れる。
 翠月は相変わらず世子の世話にいそしんでいた。最近は世子もあまり夜更かしをしなくなった。それは紛れもなく翠月のためである。
 もう二度と無理をさせて、風邪をひかせるわけにはいかないと思ったのだ。それに、自身も早寝にしてから調子がいい。
 今朝の朝食は自信作らしく、翠月が「美味しいわ、美味しい」と自画自賛しながら食べている。

「翠月、そなたは食い意地が張っていて男のようだな」
「えっ、ひどいです、世子さま。わたくしはおなごです。れっきとしたおなごです」
「たとえだ。……翠月、顔をこちらへ」

 ハッと笑いながら、世子が手招きをしたものだから、翠月はわけがわからないながらも顔を世子のほうに寄せる。すると世子は翠月の頬についた米粒を摘まみ取ると、自身の口に入れた。
 翠月は赤面して頬に手を宛てて口をハクハクとさせた。
 恥ずかしさと、それから優しくされることに照れてしまったのだ。
 世子はといえば、おのれの無意識な行動に自分でも驚いたのか、バツが悪そうにもごもごと口ごもりながら、コホン、咳ばらいをする。

「そなたは本当に世話の焼ける」
「そ、そんな言いかた!?……わたくしのほうが年上ですのよ?」
「年上、ね……それならば、もっとしっかりしてもらわねば、わたしが困る」

 まるで姉をからかうかのように、世子は言ったのだが、翠月からしてみれば面白くない。
 弟も同然の年下の世子にそのような風に言われては立つ瀬がない。
 一瞬だけそう考えて、翠月は首を横に振った。
 弟だなんて、なにをおこがましいことを考えてしまったのだろうか。世子は一国の国を背負う人物だ、その世子を兄弟のように見るなんて。
 もとより、この気持ちがなんであるのか、翠月には分かりかねていた。兄弟とも友達ともつかないこの関係は、いったいなんだというのだろうか。
 居心地が良くなっていた、いつの間にか世子と二人の生活が尊く楽しいものとなっていた。
 それは世子も同じで、ゆえに翠月との距離感がつかめない。
 最近はもっぱら翠月の動向が気になって、書物を読むふりをして翠月を目で追ってみたり、用もなく翠月の部屋を訪ねてみたりと、自分らしくいられない。
 よもや自分がこのような気持ちを抱くなどと、世子自身も思いもよらなかった。だが、その気持ちを翠月に知られるわけにはいかない。もしも翠月が知ったのならば、きっと翠月は、王命を果たすために自分を王宮へと連れ戻すだろう。
 ……そんなこと、翠月はしない。分かっている。翠月は世子をひとりの人間として尊重してくれている。だが、だからこそ怖いのだ。自分の気持ちを打ち明けて、離れていくのが怖いのだ。世子と平民では釣り合わないと、翠月は常々言っている。それ故に、世子は翠月に踏み込めずにいるのだ。

『世子さま! 世子さま!』

 朝食を済ませ、翠月は皿洗いに、世子は書物を読み始めたころ、屋敷の外に男の声が聞こえた。世子の内官である。聞き覚えのある声に、世子は何事かと立ち上がると、庭先に出る。
 内官は慌てた様子で、息も絶え絶えに世子のあしもととまで来ると、ひいひい言いながら、世子に礼をして、言葉を発する。

「王さまがお倒れになりました」
「な……?」

 そこに皿洗いをしていた翠月も顔を出す。サッと青ざめた世子の顔を見て、翠月もただ事ではないと察する。

「世子さま、いかがいたしましたか?」
「父上が、倒れられた。……わたしは今すぐ王宮に行く故、留守は頼んだ!」

 それだけ言い残すと、世子は翠月を置いて屋敷を走り出た。
 内官は走り出す世子を追いかけるが、全く追い付けそうになかった。それほど世子は血相を変えて全速力で走っていたし、焦っていたのだ。


 走って走って、世子はようよう王宮についた。住み慣れたそこは世子にとってみれば庭のようなものである。
 門番は世子を見ると、恭しく頭を下げて、そうして世子は門をくぐる。門をくぐって正面の宮殿が王の居所である。
 世子はそこめがけてまっしぐらに走り、バタン! とその扉をあけ放つ。

「なんだ、どうした?」

 だが、そこにいた王は、想像していたよりもずっと明るい声で、世子の来訪をキョトンと見ていた。
 倒れたと聞いたが、それは嘘か早とちりであったのだろうか。
 だが確かに、王の隣には御医がいる。
 世子はゆっくりと王のもとへと歩いていき、そうしてその場に手を組んで、礼をした。
 王は血相を変える世子を見て、ははん、とうなった。

「そなた、よもや内官に騙されたか」
「え……」
「わたしは大事ない。ただ石に躓き転びはしたが」
「……は、はぁ、よかった……」

 気が抜けたのか、世子はその場に尻をついた。今更になって走った疲労が体を襲い、世子はもう一歩も動けそうにない。
 よくよく見れば、王のそばには王妃もいて、世子はそれに気づくと慌てて姿勢を正して、王妃にも挨拶をした。

「母上。だらしない姿をお見せしてしまい申し訳ありません」

 礼をした後、世子はその場に立ち上がった。膝が震えている。
 いまだ疲労困憊の世子を見て、王も王妃も顔を見合わせて笑った。

「そなたは親孝行な息子だ」
「ええ、王さまをかように案じて走ってくるなど」

 王も王妃も自分の息子をほめたたえるが、だが世子がここに来たのは紛れもなく内官の早とちりの賜物である。
 内官は王が倒れたと世子に報告したが、きっとあれは内官自身も人づてに話を聞いたのだろう、ゆえにことが大きくなって世子に届いた。
 世子までもが無性におかしくなって、笑ってしまう。

「とにもかくにも、ご無事でなによりでした」
「ああ。ときに世子」
「はい、父上」

 よい機会だ、と言いたげに、王は布団の上に座りながら、世子をまっすぐに見据えた。世子はその場に座って、王の話に耳を傾ける。王妃もまた、王の言葉に耳を向けている。

「翠月、という娘とは、うまくいっておるのか」
「はい、父上。とても気さくな娘故」
「はは、そうではない。許嫁としてどうだと聞いておるのだ」

 その言葉を聞いた瞬間、王妃の顔が曇るのが分かった。
 それは世子も気づいたのだが、王妃が気分を害する理由が分からない。王の誕生日を祝う宴会の席で、王妃はたいそう翠月を気に入っていた。
 王妃のお気に入りの庭に案内するほどであったから、王妃は今も翠月に好感を寄せているとばかり思っていたのだが、そうでもないようだ。
 王妃は世子が答えるより先に、王に向かって、

「王さま。あの娘は平民故……それに、あの娘は」
「ああ、分かっている。世子、そなたにはまだ話していなかったが、あの娘は星読みが使わせた娘だ」

 どうやらつまり、翠月が星読みの占いにより選出された娘であり、世子を王宮につなぎとめる責を担って寄こされた人間であると説明したいようだ。
 だがそれは、世子も知っている。なんなら、翠月が世子のもとに来たあの日のうちに、翠月からその話は聞いていた。
 世子は、にこりと笑みを携える。

「すべて知っております」
「なんと、知っていたのか」
「はい。……それでもわたしは、王宮には戻りません。ですが、翠月と離れることもしとうございません」

 世子の目に宿る決意の色に、王は嬉しそうに笑うも、そばにいる王妃の顔は穏やかではない。
 今一度、世子に釘を刺すように、

「世子。世子嬪はわたくしが改めて探す故、あの娘は……」
「母上、なにゆえ翠月を拒むのですか? かように気に入られておいででしたのに」
「……話が変わったのだ。世子、王宮に戻ることはまだ先でよい。だが、あの娘と暮らすのはもうやめなさい」

 王妃のかたくなな態度に世子は首をかしげるも、世子とてそのように頭ごなしに反対されると、余計に手放したくないと思ってしまう。
 世子は頑として首を縦に振らない。王妃はだんだんと不安と怒りが湧いてきて、その場に立ち上がる。

「世子! 聞き分けなさい!」

 王妃が怒鳴りつけたため、さしもの世子も驚くばかりだ。王でさえ驚きなにも言えないようで、何事かと女官も内官までもが目を丸くしている。
 王妃がこのように取り乱すところを、世子はもちろん王も見たことがなかった。それだけにこの衝撃は大きく、世子は小さく「分かりました」と返事をするほかになかった。
 本当はなに一つ聞き分けてなどいない、あとで冷静になったときに王妃を説得しようと世子は思った。
 自分が世子の座を降りることも、あの屋敷で翠月とともに暮らしたいということも。
 だが、王妃にも世子の考えは筒抜けである。どうやって世子を説得するべきか、王妃は悩んだ。悩んで悩んで、明らかに王妃の顔に怒気が見えた。
 普段温厚で優しい王妃がこれほどまでに悩むとなれば、王も翠月の件について考え直さざるを得ない。
 王はため息交じりに、

「世子。王妃が反対するとなれば、わたしも考えを改めることにする」
「王さま、ですが先ほどは」
「いいか、世子。そなたの婚姻ははかりごとである。そなたの一存では決められぬこともある」

 確かに、この国の跡目の婚姻を、星読みの選んだ娘に決めるのはいささか安直である。だが、それを承知で王は翠月を自分のもとによこしたのではなかったのか。
 世子は明確に疑問を抱くも、王に逆らえるわけもない。

「今日は王妃の顔を立てて、もう帰りなさい」
「……分かり、ました。ですがわたしは、翠月を手放すつもりはありません故」

 世子は最後にそう言い残し、王の居所から出ていった。
 世子が出ていった部屋で王妃が王に縋りついて泣きながら、翠月だけはだめだと何度も懇願している声が、世子の耳にもよく聞こえた。
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