月の許嫁と太陽〜世子の許嫁になった少女の運命〜

空岡立夏

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後幕

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 幼き皇子がふたり、狩りに出かけていた。
 十歳になるかならないかというふたりの皇子が、王に連れられてその日初めての狩りに林に足を踏み入れたのだ。
 その林にはたくさんの獣がいる。兎や猪、そして森の長である大きな牡鹿だ。

「世子、無理はせずに行くのですよ」
「はい、母上さま」

 王妃が第二皇子、世子の頭を撫でながら、心配そうに声をかけている。
 はたからそれを見ていた第一皇子、夏月が、世子に張り合うように王妃に声をかけた。

「母上さま。私は秋月よりもたくさんの獲物を狩って見せます」
「……そう」

 つれない返事はいつものことで、尚宮も内官も、その様子を見て心を痛めていた。
 なぜ王妃はこうも夏月に冷たく当たるのか、知るものは誰ひとりとしていない。巷では優しく慈愛に満ちた王妃だと認知されているが、さて夏月にだけはどうしても王妃は優しくしない。
 第一皇子でありながら世子に選ばれなかったことだっておかしな話だ。だが、それを口にするものは誰もいない。

「よし、夏月、秋月。狩りに出るぞ!」

 王に促されて、二人の王子は弓矢を手に、林の中へと意気揚々と走り出す。


 まず最初に獲物を見つけたのは夏月であった。兎が一匹、夏月の前方にぴょんぴょんと跳ねている。
 夏月は息をひそめて背中の矢をとり、そうして弦に矢を引っかける。
 きりきりきりと弦を引っ張ったところで、兎が逃げた。

「兄上! 兄上! 待ってください!」

 兎が逃げたのは、夏月の後ろから秋月が現れたからである。夏月は秋月を振り返り、忌々し気に舌打ちをした。
 秋月に悪気はないのだが、なにぶん秋月は今日この日を楽しみにしていた。秋月は兄である夏月となかなか一緒に遊ぶ機会がない。それ故に、今日この日を楽しみにしていた。
 だが、夏月からしてみれば秋月の存在は面白くない。さっきだってそうだ、王妃は秋月の心配ばかりして夏月のほうには見向きもしなかった。
 どうにかして、王妃を自分のほうに向かせたい。夏月はこの林で大物を仕留めて、王妃に褒めてほしかった。

「秋月、付いてくるな」
「だって、兄上。協力したほうが、たくさんの獲物を獲れます」

 秋月は単に林のなかが怖いようで、先ほどから夏月の傍を離れない。
 夏月はうっとうしく思うも、本当ならば弟を可愛がりたい気持ちもある。だが今は、王妃の愛情を一身に受ける秋月を受け入れる気にはなれなかった。
 やがて林の奥深くにまで到達した二人は、そこに大きな牡鹿の姿を見つける。

「お、大きいですね、兄上」
「しっ。黙ってろ」

 夏月は秋月を諫めて、そうして再び背中から矢を抜き出すと、弓の弦にそれを引っかける。
 大きな牡鹿は、恐らくの林の主だ。その鹿を仕留めたとなれば、きっと王妃も自分を褒めてくれるに違いない。
 期待から夏月の手はなかなか牡鹿に焦点を定められない。
 少しずつ、牡鹿との距離を詰める夏月に対し、秋月はただひたすらその場に立ち尽くしている。夏月の邪魔をしないように静かにしていたのだが、夏月の狩りはまたもや失敗に終わる。

「だめ!」

 大きな声とともに、夏月の矢が手から離れ、牡鹿にかすりもせずに地面に落ちた。
 邪魔をした声を振り返ると、そこにいたのはひとりの少女である。

「おまえ、わたしが誰だか知っていて邪魔を――」

 だが、少女は怯むことなく、夏月ににじり寄る。そして声を大にして、

「あれはここの主だから、ころしてはだめ!」 

 年のころは夏月と同じかやや下だろうか。少女は夏月が王族だとは知らずに、そのように語気強く夏月に迫る。
 夏月も負けじと少女に詰め寄り、そうして目の前にいる少女をじろりとにらんだ。背は夏月のほうが若干高い程度で、目線はほぼ同じ位置である。

「そなたのせいで獲物を逃がした」
「なぜ殺そうとするのですか」
「……? 狩りとはそういうものであろう?」

 少女の顔が、今度は悲しみに染まっていく。
 ころころ変わる表情に、夏月はついていけない。なぜそのようなことを聞いてくるのかまるで分らない。
 狩りとは、獲った獲物の大きさを勝負する、いわば賭け事のようなものだ。それが分からないなどと、この少女は世間知らずだとののしりさえした。
 少女は夏月をキッとにらむ。

「食べないのなら殺すべきじゃないでしょう?」
「は?」
「生きているのよ、鹿も、兎も、猪も」
「……戯言だな。畜生の命など、取るに足らないものだろうに」

 パチン! と乾いた音が秋の空の下に響いた。少女が泣きながら夏月をぶったのだ。
 まるで父母が子供にするように、なんのためらいもなく、少女は夏月の顔をぶった。
 避ける暇すらなかった、まさか王族である自分をぶつ人間がいるなどと、思いもしなかった。
 この無礼は、親の代まで罰せねば。
 夏月は少女の服の胸ぐらをつかんだ。

「そなた、わたしが誰だか知ってそのようなことをしたんだろうな?」
「……誰?」
「わたしは夏月。この国の皇子だ」

 だが、幼い翠月は王宮のことなどこれっぽっちも知らない。故に、夏月の言葉をけたけたと笑い飛ばし、胸ぐらをつかむ夏月の手を払いのけた。

「嘘を吐くのなら、もっとうまくつきなさいよ」
「なにを……この」

 夏月が再び組みかかろうとしたとき、言い争うふたりから少し離れた場所にいた世子が、泣き声を上げた。

「痛いぃ!」

 振り向けば、世子は獲物を狩ろうと弓を引いたのだが、その弦が切れて指にけがを負ったようだった。
 夏月の顔が青ざめる。そして、少女のことなどそっちのけで、世子のもとへと走っていく。
 世子の手が真っ赤に染まっている。夏月は世子の傍まで来ると、自身の服を破いて、すぐさま世子の傷の血をぬぐった。
 どうやら傷は深くはないようで、夏月は慣れた手つきで止血をする。夏月の衣は無惨に破け、血まみれになっている。
 一拍遅れて少女も世子の元まで走り寄り、そうして手際よく止血する夏月を見て、ほうっと息を漏らした。

「秋月、泣くな。男であろう」
「兄上、痛いです」
「もう血は止まった。泣くな」
「兄上~」

 ぐずる弟をあやす様子は、どこからどう見ても面倒見のいい兄である。
 少女は懐から赤い木の実を取り出すと、それを世子に渡した。

「甘いよ」
「ん、痛い……木の実……?」 

 ぐずっていた世子が少女の木の実に興味を示し、泣き止む。
 世子は木の実を受け取ると、それをなんのためらいもなく口に放り込んだ。 

「そ、そのようなものを食べるな!」
「わあ、甘いです。甘いです、兄上!」

 今泣いた烏がもう笑った。世子はもっともっとと少女に赤い木の実を請求するように手を広げる。
 少女は持っていた赤い実をすべて世子に渡す。世子は泣き止んで、その場でパクパクと赤い木の実を食べ始めた。

「そなた……あれは食べても害はないのか?」
「大丈夫。あれは木苺」
「木苺……?」
「知らないの? あなたも食べてみる?」

 どうやら少女は、こっそり自分の分は懐に残していたようで、夏月にもその赤い木の実を内緒で渡す。世子に見つからないようにこそこそと手渡して、にっこりと笑って自分も木苺を口に入れた。

「食べないの?」
「誰がこのような……」
「ああ、そう。美味しいのに。じゃあ私が食べるから、ちょうだい?」

 そう言われると、素直に渡したくなくなるのが子供という生き物である。なにより、好奇心には勝てなかった。
 夏月は手に持った木苺を、思い切って自分の口のなかへ入れてみる。おそるおそる咀嚼すると、甘い果汁が口いっぱいに広がった。

「甘い……」
「だから言ったでしょ」
「ふん、だが、先ほどの無礼は許していないからな」
「ああ、そう。それにしても、大変だね」

 少女はあっけらかんと、まるで夏月の言葉を信じていない。世子を指さして、夏月にひそひそ声で、

「弟の面倒見て、偉いね」

 にこりと笑う。
 偉い、などと言われたのは、生まれてこのかた初めてである。夏月は妙に照れ臭くなり、少女から顔を逸らした。
 少女はコテン、と首をかしげながら、なおもひそひそ声で夏月に耳打ちする。

「あなた、やさしいのね」
「な、にを……」

 優しいと言われたことなど一度もなかった。いつも女官や内官たちは、夏月に後ろ指を指しては悪口を言った。
 あの王妃さまのお子なのに、なぜあんなに粗暴なのだろうか。
 なぜ弟君を慈しまないのだろうか。
 陽の宮さまは、王妃の本当の子供なのだろうか。
 それが、見ず知らずの少女に優しくされて、思わず泣きたくなる。
 夏月は目にたまる涙を誤魔化すように、ごしごしとその手で目をこすった。

「あ、駄目だよ、汚れた手でこすっちゃ」
「かゆいのだから、仕方がない」

 夏月はそっぽを向く。どうしてこの少女は、自分が欲しい言葉をこうもあっさりとくれるのだろう。
 だが、さりとて思う。この少女もまた、自分があの『陽の宮』だと知ったら、他の大人たち、子供たちと同じように、自分を馬鹿にするのだろう。
 そうして自分から離れて行って、世子の味方になるのだろう。
 胸糞悪い、反吐が出る。
 自分はどうあがいても世子のようにはなれない。皆から愛され好かれる、世子のようには。
 夏月は世子を振り返る。木苺を食べ終えた世子は、にこにことご機嫌に夏月を見ていた。傷の痛みももうないようで、夏月はほっとした半面、憎らしいと思う。
 あのように小さな傷ひとつでピーピー泣く世子は、どれだけ過保護に生きてきたのだろうか。
 夏月はひとり、じめじめとした王宮の隅の居所で、なんでも一人でやって生きてきた。
 たまにわがままを言うと、王妃によって折檻された。あの居所に一人、一週間の謹慎を言い渡されることは多々あった。だが、寂しさは今はもう感じない。ただただ世子が憎い。
 アイツさえいなければ。夏月は王妃の愛情を得たい心が転じて、世子を疎んじ憎むようになっていた。

「ねえ、また会える?」
「は?」

 帰り支度をする夏月に、少女はそんなことを言う。また会える? 会えるわけがなかろうに。
 夏月が王族であることを、いまだ少女は理解していないようで、少女は夏月の背中に向かってそのようなことを言い放った。
 木苺を食べて腹が膨れたためか、世子がその場にうとうとし始めている。
 夏月は世子を放っておくことが出来ず、仕方なしに世子を背中に背負い、立ち上がる。
 その夏月に向かって、少女は無垢な笑みを向けている。

「この林、私のお気に入りなの」
「……ここは獣がたくさんいる。もう入るな」

 つっけんどんな物言いになってしまい、夏月は少しだけ後悔する。せっかく『友達』というものが出来そうだったのに、夏月は人との距離感が分からない。ずっと王宮にいるからだ。夏月は誰の目にも触れぬように、ひっそりと育てられてきた。
 それは、夏月が王妃の実の子供ではないからである。王妃は夏月が自分に似ていないことを誰にも知られたくなかった。ただでさえ、夏月の気性が荒く、『本当に王妃様の子供なのか』と揶揄されているのだ、そんな夏月を誰かに見られては困るのだ。
 夏月は世子を背負い直し、少女に背中を向けたまま、

「さあな。もう会えないと思うが」
「ええ、そうなの?」

 少女は心底残念そうに声を小さくする。
 夏月は今一度少女を振り返る。少女の顔がぱあっと明るくなるのが分かった。
 馬鹿正直で分かりやすい少女に、夏月の心が少しだけ揺れ動いた。

「わたしは夏月。そなたの名前は?」
「わたしは翠月。この町の外れに住んでいるの」
「翠月。翠月か。覚えておく」
「また会える?」
「ああ、オマエが私を忘れていなければな」

 そうして幼き頃の夏月と翠月は出会った。
 だが幼すぎて、翠月はこの出会いのことは覚えていない。夏月もまた、翠月に出会った最初のころは、この出来事を覚えていなかった。覚えていないながらも、夏月にとってこの出会いは、唯一の心の支えとなった。
 夏月はこの日から無用な殺生は行わなくなった。それでも狩りをするときは、その獲物は必ず自身で食すようにしていた。


 そうして月日は流れ、ふたりは再会を果たす。くしくもそれは、あの時と同じ林での出来事であった。
 もうお互いのことは忘れていたに違いない。それでも、あの日感じた胸の温かさは、いつだって夏月の支えであった。
 王宮を出たふたりは、どちらが言い出したわけでもなく、あの林に足を向けていた。
 今日の食料を調達するためでもあったし、ふたりの脳裏に、あの幼き日の思い出がよみがえったからもしれない。
 夏月が仕留めた獲物を捌き、たき火で焼いている。
 王族である夏月がこのような生活を受け入れるとは翠月も思っていなかった。

「意外か?」
「え、え?」
「そなたは分かりやすい。わたしが狩人のような生活をしたら、意外か?」

 図星をつかれてしまい、翠月は素直にコクリ、頷いた。
 夏月はフッと笑いを漏らし、「正直なおなごだ」と翠月のほうを見る。
 ぱちぱちとたき火が爆ぜて、兎の肉の色が変わっていく。 

「わたしはずっと、ひとりだったからな。よくひとりで狩りをして、獲った獲物は必ず食すようにしていた。だが、林の主を殺したことは一度もない」

 翠月はふと思い出す。世子と夏月が狩りの対決をしたあの日、世子に聞いた話では、夏月は世子の邪魔だてをした。その時に取り逃がしたのは林の主であろう大きな牡鹿であった。
 あれは、夏月が牡鹿を逃がしたのだ。決して世子を狙ったのではなく、牡鹿を逃がすために致し方なく矢を放ったのだ。
 さらに翠月は思い出す。夏月は世子と狩りで対決をしたとき、帰り際に呟いていた。「わたしが狩った獲物はわたしの腹に収まる故、心配無用だ」
 それはどういう意味だったのだろうか。

「夏月さまは……狩りがお好きなのですか?」
「いいや。狩りは好まぬ。無為な殺生はすべきではないと、昔見知らぬおなごに頬を叩かれた」
「……頬を……?」

 翠月もその少女の言い分には賛成であるのだが、だがこの夏月の頬をたたくなどと、どこの誰であろうか。
 だがどこか他人事とは思えないやり取りに、ぼんやりと、翠月の脳裏に昔の記憶が蘇る。
 翠月もまた、誰かにそのようなことを言い、それどころか頬をひっぱたいた記憶があった。
 あの時の少年は、なんという名前だっただろうか。
 うーん、うーんとうなる翠月を見て、夏月が思わず噴き出した。

「そなたは覚えていないだろうが、あれはそなただ、翠月」
「え。ええ? 私が夏月さまを叩いたのですか?」
「ああ、木苺も渡された」
「え、ええ。もう、私ったら……私ったら……」

 夏月に言われても、翠月はうっすらとしか思い出せない。思い出せないながらも、その日感じた思いだけは胸にしっかりと残っている。 
 あれは確かに初恋というもので、翠月はあの日の少年にずっと恋をしていたに違いない。
 優しく、だがどこか陰りを帯びたあの少年が、翠月は好きだった。

「わたしはそなたを覚えていたのに、そなたはわたしを覚えていないのだな」
「す、すみません……」

 謝るも、夏月はおもむろに翠月に手を伸ばし、そうして抱きしめた。

「覚えていないのなら、また一から始めればい」
「夏月さま……?」
「わたしとそなたは、今日、今この時に出会った。だから、これからずっと、わたしとともにいてほしい」

 あまりにも気障な台詞に翠月は赤面する。だが、夏月の申し出を受け入れるわけにはいかなかった。なぜならば、

「私、嫌です」
「翠月?」
「今日この時からでは、嫌です。私と夏月さまは、あの夏の日、あの街で出会った時から始まったんです」

 翠月は夏月の目をまっすぐに見据える。
 なんて強情でかわいらしいおなごであろうか。夏月の嫌な部分もすべて受け入れて、それすらいとおしく思ってくれるなど。
 夏月は思わず翠月に口づける。翠月もまた、夏月に身を任せ、ふたりは幼き日に出会った森で、とこしえの約束を交わすのだった。
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