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第6章 第8話

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 不思議な気持ちだった。

 これがアリステラ人やエーテルの扱い方を知る者たちの闘いなのだ。
 何の能力も開花する兆しを見せず、ハッキングしか取り柄のない自分は、まるで仲間たちの戦闘力のインフレについていけず、いつの間にか解説役になっているような漫画のキャラクターのように思えた。
 そういうキャラクターはやがて解説役ですらなくなっていく運命にある。主人公たちの闘いに同行することすらしなくなるからだ。

 雨野タカミという青年が主人公ではないということは、彼自身が一番よくわかっていた。

 ハッカーとして活動していた頃ですら、部屋から一歩も出ることがなかった彼は、一条ソウマという主人公のバディですらなく、仲間のひとりでしかなかっただろう。一条は当時、タカミの顔すら知らなかったのだ。

 大和ショウゴが世界中を敵にまわし、雨野ユワを連れて逃げ回っていたときも、タカミはあくまで、ユワの兄であり、ふたりの協力者でもあるというポジションでしかなかった。

 そんな自分を心から情けなく思うことで、自分への怒りによって能力に開花する。
 漫画や小説にはそんなキャラクターもいる。
 そういうキャラクターが彼は好きだった。

 だがタカミは情けなく思いはしても、ただそれだけだった。思うだけだった。
 そんな自分に対し怒りが沸くことはなかった。
 諦めてしまったと言ってもいいだろう。

 きっとこの物語は、ショウゴがユワを取り戻す物語であると同時に、一条が小久保ハルミを取り戻す物語であり、タカミは今回も主人公どころか、ふたりのどちらかのバディにさえなれないのだ。
 タカミにもユワとハルミを取り戻すという目的はあるが、その熱量は明らかにショウゴや一条に劣るだろう。

 フィクションには必ず主人公がひとりは存在する。
 群像劇であれば主人公は複数存在し、現実はどちらかといえば群像劇に近いだろう。
 実際に「現実を生きるひとりひとりが主人公だ」と言う人がいる。
 だが本当にそうだろうか。
 現実は一人称でしか語ることができないため、そう思う人がいるだけではないのか。あるいは、そう思いたいという凡人の願いでしかないのではないか。
「努力をすれば夢は必ずかなう」と言えてしまうような、才能や強運を持って生まれた成功者が、誰でも自分の物語の主人公になれるはずだと夢物語を凡人に押し付けているだけではないだろうか。
 物心つく前に事故や病気、親の虐待で死んでしまうような子どもだっている。語る言葉すら持つ前に死んでしまう子どもは自分の人生の主人公だと言えるのか。

 タカミにしか語れない物語は確かにあるだろう。
 だが、その物語には純文学的価値もエンターテイメント性もない。
 雨野タカミという男には主体性がなく、彼は成長もしなければ成功もない。ただ挫折だけがあり、挫折から立ち上がることはなく、すぐに諦めて逃げ道を探す。
 自分ですら読みたいと思えない物語しか語れない者が、果たして本当に主人公と言えるのか。
 自分の物語であっても、自分はそんな主人公にはなりたいとさえ思えないというのに。

 タカミは管理人室から出ると、暴徒の死体に向かって歩いていった。
 死体が握るマシンガンを手に取ると、その銃口をタンクローリーに向けた。

 死刑になりたいから人を殺すということはこういうことか。
 と、タカミは考えていた。
 ずっと理解できないと思っていたが、ようやく理解できた気がしていた。

 目の前にいつ爆発するかもわからないものがあり、中身次第ではあるが引火させることが可能なものを手にしたとき、

 このマンションを倒壊させたら、
 少なくともその時だけは、
 自分が主人公になれる気がした。


 だが、マシンガンの弾は切れてしまっていた。

 タカミは笑うしかなかった。

 自分を笑って、笑い続けて、そして吹っ切れた。

 別に主人公じゃなくていい。
 戦闘力のインフレにいくら置いていかれようが知ったことか。

 雨野タカミは雨野タカミだ。自分ができることをするだけだ。
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