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第2章 第6話
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一年中雨が降り続ける雨野市の夜は美しい。
翡翠色の淡い光が水溜まりの中から生まれては宙を舞い、やがて大気に溶けていく。
蛍のような淡い光は、電力を失った街の街灯の代わりであり、一年中夜の街を彩るイルミネーションだった。
その光景を眺めているだけで、橋良トネリ(はしら とねり)は心が洗われていくように感じていた。
傘も差さず、仕立ての良いスーツが雨に濡れることも厭わず、彼は両腕を広げて、降り続ける雨をその全身で受け止めた。
この国の神話には、死んだ妻を黄泉の国から連れ戻そうとした男神の話がある。
妻を連れ戻すことはできず、神の国に帰った男神は泉で禊(みそぎ)をおこない、黄泉の国の穢れを落としたという。
橋良にとって、雨野市に降り続ける雨は、数年前までの世界と自分の穢れを落としてくれる禊の雨だった。
男神のように、禊により祓った穢れから子が生まれることはなかったし、数年間毎晩のように雨を浴び続けていても、穢れがすべて祓われたとは思えなかったが。
あの世界は、きっと黄泉の国よりも穢れていたのだろう。
70億人の命と引き換えに、まだ14歳の少女の命が生け贄に捧げられるような世界が穢れていないわけがなかった。
あの世界の食べ物は、ヨモツヘグリよりも穢れた食べ物だったのだろう。
だから新しい世界ではあらゆる食べ物が失われつつあるのだ。
あの世界に生まれ、30年あまりを過ごした橋良の心や体には穢れが染み付いてしまっており、そう簡単には祓うことができないのだろう。
彼はそう考えていた。
数年前までの橋良は、景色を見ても美しいと思ったことが一度もなかった。今目の前に広がる翡翠色の淡い光を見ても何も思うことはなかっただろう。
日々仕事に忙殺されていた彼にはそんな心の余裕などなく、妻子を愛し大切に思うことすらなかった。
だが、4年前にすべてが変わった。
世界は少女を生け贄に捧げることで、世界中で起きていた局地的な大災害や疫病によるパンデミックを収めようとした。
だが収まるどころかさらに拡大し、世界規模の飢饉、世界大恐慌が起き、世界中のあちこちで戦争や紛争までもが起きた。
もしも第三次世界大戦が起き、核兵器が用いられれば、人類の文明は石器時代のレベルにまで落ちることになる。
数十年前にそう警笛を鳴らした科学者の名は何といっただろうか。
戦争はエネルギー不足や食糧難から次々に休戦状態となり、世界大戦や核戦争こそ起きなかった。
だが、災害や疫病の蔓延から原発をはじめとする各種発電所が次々と停止し、石油やガスの採掘と輸出入もまた停止したことで、電子機器や交通機関など現代社会を支えていたものはすべて無意味なものと化した。
権力者たちは真っ先に地下シェルターに逃げ込んでしまったという。
都市伝説で語られていた、東京の地下には無数の空洞が存在し、そこには要人専用の核シェルターがあるというあの話は本当だったらしい。
おそらくは、この国のどこを他国に攻められたとしても、すぐに自衛隊が戦地に駆けつけられるように作られているという自衛隊専用の新幹線も日本中の地下深くに存在したのだろう。
政府や地方自治体は機能しなくなり、警察、消防、自衛隊、医療機関などは次々と組織崩壊を起こしていった。
食糧を求めて暴徒化し、他人を食糧とするために狩る者たちが現れても、それを取り締まる者も裁く者もいない。
法治国家はわずか一年も持たず無法地帯と化した。
一応、元警察官や元自衛権員によって構成された自警団を名乗る組織が自治体ごとに存在していたが、それらは名前だけだった。
自称自警団は、国や国民を守るために学んだ戦闘技術や武器を持った者たちが徒党を組み暴徒化した組織でしかなく、暴力団や半グレ集団よりもたちが悪かった。
橋良は4年前までは雨野市に本社を置く会社の社長だった。
彼が経営していた時計の製造・販売を行う会社は倒産し、暴徒化した人々によって彼は妻子をも失っていた。
不思議と悲しくはなかった。
愛していなかったからだろう。
妻は、橋良の会社と親会社を同じくする8つの子会社のうちのひとつであった自動車メーカーの社長令嬢であり、ふたりは言わば政略結婚であった。
子どもは女の子がひとりいたが、育児はすべて妻や家政婦に任せきりで、妻とも子どもとも思い出らしい思い出はなかった。
妊娠を妻から聞かされたときには一体いつ子作りをしたのだったかと疑問に思ったほどであり、今はもうその子どもの顔すら覚えていなかった。妻がつけたキラキラネームも思い出せなかった。
橋良は会社と家族を失ったが、日々の仕事と戸籍上ただいただけの家族から解放されたこの数年間は、彼の人生の中で最も輝いていた。
橋良の足元には無数の屍が転がっていたが、目の前に広がる美しい光景に比べたらそんなことは些末なことだ。
世界は変わり、橋良は彼を縛るすべてのものから解放された。
彼は自由だった。
翡翠色の淡い光が水溜まりの中から生まれては宙を舞い、やがて大気に溶けていく。
蛍のような淡い光は、電力を失った街の街灯の代わりであり、一年中夜の街を彩るイルミネーションだった。
その光景を眺めているだけで、橋良トネリ(はしら とねり)は心が洗われていくように感じていた。
傘も差さず、仕立ての良いスーツが雨に濡れることも厭わず、彼は両腕を広げて、降り続ける雨をその全身で受け止めた。
この国の神話には、死んだ妻を黄泉の国から連れ戻そうとした男神の話がある。
妻を連れ戻すことはできず、神の国に帰った男神は泉で禊(みそぎ)をおこない、黄泉の国の穢れを落としたという。
橋良にとって、雨野市に降り続ける雨は、数年前までの世界と自分の穢れを落としてくれる禊の雨だった。
男神のように、禊により祓った穢れから子が生まれることはなかったし、数年間毎晩のように雨を浴び続けていても、穢れがすべて祓われたとは思えなかったが。
あの世界は、きっと黄泉の国よりも穢れていたのだろう。
70億人の命と引き換えに、まだ14歳の少女の命が生け贄に捧げられるような世界が穢れていないわけがなかった。
あの世界の食べ物は、ヨモツヘグリよりも穢れた食べ物だったのだろう。
だから新しい世界ではあらゆる食べ物が失われつつあるのだ。
あの世界に生まれ、30年あまりを過ごした橋良の心や体には穢れが染み付いてしまっており、そう簡単には祓うことができないのだろう。
彼はそう考えていた。
数年前までの橋良は、景色を見ても美しいと思ったことが一度もなかった。今目の前に広がる翡翠色の淡い光を見ても何も思うことはなかっただろう。
日々仕事に忙殺されていた彼にはそんな心の余裕などなく、妻子を愛し大切に思うことすらなかった。
だが、4年前にすべてが変わった。
世界は少女を生け贄に捧げることで、世界中で起きていた局地的な大災害や疫病によるパンデミックを収めようとした。
だが収まるどころかさらに拡大し、世界規模の飢饉、世界大恐慌が起き、世界中のあちこちで戦争や紛争までもが起きた。
もしも第三次世界大戦が起き、核兵器が用いられれば、人類の文明は石器時代のレベルにまで落ちることになる。
数十年前にそう警笛を鳴らした科学者の名は何といっただろうか。
戦争はエネルギー不足や食糧難から次々に休戦状態となり、世界大戦や核戦争こそ起きなかった。
だが、災害や疫病の蔓延から原発をはじめとする各種発電所が次々と停止し、石油やガスの採掘と輸出入もまた停止したことで、電子機器や交通機関など現代社会を支えていたものはすべて無意味なものと化した。
権力者たちは真っ先に地下シェルターに逃げ込んでしまったという。
都市伝説で語られていた、東京の地下には無数の空洞が存在し、そこには要人専用の核シェルターがあるというあの話は本当だったらしい。
おそらくは、この国のどこを他国に攻められたとしても、すぐに自衛隊が戦地に駆けつけられるように作られているという自衛隊専用の新幹線も日本中の地下深くに存在したのだろう。
政府や地方自治体は機能しなくなり、警察、消防、自衛隊、医療機関などは次々と組織崩壊を起こしていった。
食糧を求めて暴徒化し、他人を食糧とするために狩る者たちが現れても、それを取り締まる者も裁く者もいない。
法治国家はわずか一年も持たず無法地帯と化した。
一応、元警察官や元自衛権員によって構成された自警団を名乗る組織が自治体ごとに存在していたが、それらは名前だけだった。
自称自警団は、国や国民を守るために学んだ戦闘技術や武器を持った者たちが徒党を組み暴徒化した組織でしかなく、暴力団や半グレ集団よりもたちが悪かった。
橋良は4年前までは雨野市に本社を置く会社の社長だった。
彼が経営していた時計の製造・販売を行う会社は倒産し、暴徒化した人々によって彼は妻子をも失っていた。
不思議と悲しくはなかった。
愛していなかったからだろう。
妻は、橋良の会社と親会社を同じくする8つの子会社のうちのひとつであった自動車メーカーの社長令嬢であり、ふたりは言わば政略結婚であった。
子どもは女の子がひとりいたが、育児はすべて妻や家政婦に任せきりで、妻とも子どもとも思い出らしい思い出はなかった。
妊娠を妻から聞かされたときには一体いつ子作りをしたのだったかと疑問に思ったほどであり、今はもうその子どもの顔すら覚えていなかった。妻がつけたキラキラネームも思い出せなかった。
橋良は会社と家族を失ったが、日々の仕事と戸籍上ただいただけの家族から解放されたこの数年間は、彼の人生の中で最も輝いていた。
橋良の足元には無数の屍が転がっていたが、目の前に広がる美しい光景に比べたらそんなことは些末なことだ。
世界は変わり、橋良は彼を縛るすべてのものから解放された。
彼は自由だった。
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