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第2章 第7話

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 少年は、傘も差さず、仕立ての良いスーツが雨に濡れることも厭わず、両腕を広げて降り続ける雨をその全身で受け止める男の姿を見かけた。
 彼は狂犬病に感染してしまった返璧マヨリ(たまがえし まより)に食糧を届けにいく途中だった。

 マヨリが狂犬病にかかってしまったのは、山汐リン(やましお りん)を殺した暴徒を殺さなかった自分の責任だと少年は考えていた。
 四肢を撃ち抜き、身動きがとれないようにして生かしたまま、雨や水溜まりに恐怖を感じる地獄を見させてやろうと考えてしまった結果、マヨリが暴徒に噛まれ、狂犬病に感染したのだ。
 暴徒はやはり生かしておいてはいけなかった。必ず殺さなければいけない、と改めて思い知らされた。

 マヨリのことは、彼女が彼女でいられるうちは自分が面倒を見なければと考えていた。
 とはいえ、いつ彼女が自分以外の誰かに狂犬病を感染さないとも限らない。
 相手が暴徒ならば感染しようが知ったことではないが、それによってリンのような死に方を彼女にさせたくなかった。

 マヨリには、リンが狂犬病に感染していたこと、行動を共にしていた彼女も感染している可能性があることだけを話した。
 本人の許可をとり、手足を拘束し、水を湿らせたタオルを猿ぐつわにして噛ませ、例の薬局店の奥の部屋に軟禁していた。

 暴徒がリンを殺害しただけでなく、その前には強姦し、その後には肉を喰らっていたということは、伝えるべきではないと判断した。
 もっとも、彼女はとうに気づいていたかもしれなかったが。

 少年にできるのは、マヨリがマヨリでなくなってしまったときは、それ以上苦しまないように楽に死なせてやる。もはやそんなことしか残っていなかった。
 それがリンを守れなかっただけでなく彼女まで守ることができないどころか、自分のせいで死なせてしまうことになってしまった、少年なりの贖罪だった。

 マヨリに食糧を届け、明け方までジェスチャーや紙とペンを使って、「中学生のときは楽しかった」だとか「誰々のあれは傑作だったね」などといった他愛もない会話をした後、少年は「また夜になったら来るから」と、彼女に猿ぐつわを噛ませタカミのマンションに帰ることにした。猿ぐつわを噛ませるときは、毎日のように心が痛んだ。

 マヨリの元へ向かう途中に見かけた男は、あれから5時間ほどが経っているというのに、同じ姿勢で雨を受け止め続けていた。
 まるで少年が生まれる前に作られた映画のワンシーンのようなポーズだったが、あれはワンシーンだから感動的なのであって、この男は5時間もその姿勢のままだったのだろうかと思うと、何とも言えない気持ちにさせられた。

 少年からは後ろ姿しか見えなかったというのに、その男はまるでこの世界を謳歌しているように少年には見えた。
 災厄の時代の到来を喜ぶ人もいるんだな、と思った。

 どこに暴徒がいるかわからないですよ、危ないですよ、そう声をかけたかったが、少年の声は4年前から失われていた。
 この男はおそらく暴徒ではないだろう。だが、油断はしてはいけない。
 少年は足音を立てず気配を消し、男にゆっくりと近づいていった。
 少年は雨の中を足音や雨合羽の衣擦れの音を立てることなく歩くことができた。気配や殺気を消すことも、暴徒狩りをしているうちに勝手に身に付いていた。

「誰かいるのかな?」

 しかし男は振り返ることもなく、少年の存在に気づくと、顔だけを少年の方に向けた。ほう、と満足そうに頷いた。
 その顔は三十代半ばくらいに見えた。

「そうか、君が噂の『雨合羽の男』か」

 男は少年に、思ったより若いんだな、と続け、

「君は、そうか、あのときの……」

 と、少年の名を呼んだ。
 少年は男とは一切面識がなかった。だから、あのときというのはおそらく4年前、少年と彼の恋人であった少女の名前と顔が有名になってしまったときのことだろう。
 顔を見られれば必ずこういうことが起きる。だからいつもいくら真夜中とはいえ、街に出るときは雨合羽のフードを目深にかぶっていた。だが、マヨリがいる薬局から出たときに深く被るのを忘れてしまっていたらしい。

「いつか、君に出会えることがあったなら、僕は君に感謝の気持ちを伝えたいと思っていたんだよ」

 感謝? この男に感謝されるようなことを自分が一体いつしたというのだろう。少年は思った。
 少女を生け贄に捧げることは間違っている、そんなことで災害や疫病を止めることなど出来ない、と少年は少女を連れて日本中を逃げ回り、この国だけでなく世界中を混乱に陥れた。
 そのくせ、数ヶ月で逃げることに疲れはて、自らの手で少女を手にかけた。
 その結果が今の世界なのだ。

 当時ネットで揶揄されていたような、セカイ系主人公ですらなく、ヒロインではなく世界を選んだわけでもない。
 世界を混乱させておいて、勝手に疲れはてて少女を殺した結果、世界の状況をさらに悪化させた。
 それが少年が認識する自分という存在だった。

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