アジル・イマの晩餐 ―偽神の解剖録―

あめの みかな

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​第2話:『漂流者の帰還』

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「――ああ、美しい。ついに、一つ、殻を脱ぎ捨てましたか」

​ 背後からかけられた湿った声に、九条湊の思考は凍りついた。
 深夜の解剖室。目の前の解剖台の上では、先ほどまで「人間」であったはずの塊が、無惨に裏返っていた。内側から突き出してきた黒い外骨格は、昆虫の四肢を思わせる鋭利な突起を幾本も伸ばし、解剖台のステンレスを不快な音を立てて引っ掻いている。

 九条は、震える手で持っていたメスを握り直した。

​「……誰だ」

​ 振り向いた視線の先、解剖室の入り口に、三人の人影が立っていた。
 中央に立つのは、仕立てのいい三揃えのスーツを着こなした老紳士。その両脇には、一様に無機質な表情を浮かべた若い男女が、儀式的な重々しさで控えている。

​「失礼。私たちは『命の蔵(アジル・イマ)』の真実を尊ぶ者。九条先生、あなたが今日、この漂流者の帰還に立ち会えたのは、決して偶然ではありません。それは……あなたが、選ばれた『観測者』だからです」

​ 老紳士は、男の無惨な成れの果て――今や完全に人の形を失い、黒い甲殻に覆われた異形を見つめ、陶酔したように目を細めた。

 九条は、喉の奥からせり上がる吐き気を抑えながら、冷徹に問うた。

​「観測者だと? 巫山戯(ふざけ)るな。これは何らかの寄生生物か、あるいは未知のウイルスによる変異だ。私は医師として、これをしかるべき機関に報告する義務がある」

​「報告、ですか? どこへ? この『世界』を作っているのは、内骨格という脆い檻に閉じ込められ、自分たちが天の漂流者であることすら忘れた偽神の信徒たちですよ。彼らに何を伝えようというのです?」

​ 老紳士がゆっくりと歩み寄る。その足音は、死者の沈黙を犯すように重く響く。九条は一歩後退りしようとしたが、その瞬間、全身を突き抜けるような「違和感」に襲われた。

​ 内臓が、熱い。

 先ほど解剖中に、男の肋骨に刻まれた「構文」を指でなぞった時、微かな静電気が走ったような感覚があった。それ以来、九条の身体の内側、骨の髄から、溶岩を流し込まれたような鈍い痛みが絶え間なく続いていた。
 だが、九条はそれを、極限のストレスによる一時的な錯覚だと思い込もうとしていた。まさか、自分の細胞の一つ一つが、今この瞬間にも、宇宙から来た「構文」によって書き換えられ始めているなどとは、夢にも思わなかったからだ。

​「この男は、幸運な『早生児(そうせいじ)』でした。彼の内側に宿るアジル・イマのプログラムが、少しばかり早く起動しすぎただけ。……九条先生、あなたは解剖を通じて、彼の中の中身――『真実の貌』に触れてしまった」

​「……触れて、しまった?」

​「ええ。情報は触れた瞬間に感染する。アジル・イマの構文は、内骨の民の脆弱なDNAを触媒にして、本来の『外骨』を再構築し始めるのです。……おや、顔色が悪いですね」

​ 老紳士の手が、九条の頬に伸びる。九条はそれを振り払おうとしたが、右腕が思うように動かない。腕の骨が、まるで何重にも固定されたかのように、硬く、重くなっている。
 九条は気づいていない。自身の前腕の骨の裏側に、あの男の肋骨と同じ、微細な黒い紋様が……『外来の言葉』が、急速に刻まれ始めていることに。

​「……君たちは、……何者だ……」

​「私たちは、ただの案内人です。この街の地下に、そして社会の隙間に、どれほど多くの『脱皮を待つ者』が潜んでいるか……。それを、これから先生にお見せしましょう」

​ 不意に、解剖台の上の「異形」が、鋭い咆哮を上げた。
 それは男の声ではなく、宇宙の深淵から響くような、共鳴する金属音だった。次の瞬間、異形は解剖室の窓ガラスを粉砕し、夜の闇へと消え去った。

 老紳士は満足げに頷き、九条に一枚のカードを差し出した。そこには文字はなく、ただ「アジル・イマ」の紋章――螺旋を描く骨のような印だけが刻まれていた。

​「九条先生。今夜、あなたの家には戻らないほうがいい。……あなたの同僚も、家族も、あなたが『何を見てしまったか』を敏感に察知するでしょう。内骨の民は、異分子を排除する本能だけは一人前ですから」

​「待て、話はまだ……っ!」

​ 九条の問いかけを遮るように、解剖室の照明が激しく明滅し、破裂した。
 再び光が戻ったとき、老紳士たちの姿はどこにもなかった。

 静寂が戻った解剖室で、九条は一人、荒い息をつきながら自分の掌を見つめた。
 掌の皮膚はまだ、人間のそれだ。だが、その下で……骨の表面で、何かが脈打っている。

 ミシリ、と。

 自分の身体の奥底から、自分の意志ではない「プログラム」が動く音が聞こえた。

​ 九条は、自分がもう、これまで通りの日常に帰ることはできないと悟った。
 彼の内側で、アジル・イマの晩餐の準備は、着実に整い始めていたのだ。
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