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第四部 春霞(はるがすみ)

第3話

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 帰宅部のわたしは、夕方の四時にその日の授業を終えると、毎日寄り道せずに自転車でまっすぐに家に帰り、四時半には家に着く。

 晩御飯までに、宿題やその日の授業の復習と、翌日の授業の予習を済ませて、ご飯のあとは、おとーさんやおかーさんといっしょに一時間くらいリビングでのんびりして、お風呂に入る。

 お風呂から上がったら、おにーちゃんの部屋に遊びに行く。

 大体いつも九時くらいには、おにーちゃんのベッドで、ベッドの1/3くらいを占領しているえっちなイラストの抱き枕を邪魔に思いながら、ケータイをいじったり、漫画を呼んだりして過ごす。


 おにーちゃんは、8つ年上で24歳。

 中学生の頃からひきこもりで、今気づいたけど、ひきこもり歴は今年で丸10年になる。
 お祝いとかしてあげたほうがいいのかな。


 おにーちゃんの部屋は、隣にあるわたしの部屋といっしょで、最初はただの10畳の部屋だった。

 いつの間にか、一人暮らし用? の小さな冷蔵庫が置かれ、電子レンジやポットが置かれていき、今では簡易トイレやシャワールームまである。

 この部屋から一歩も出なくても生活ができるようになっていて、飲み物や食べ物から読みたい漫画や観たいDVD、欲しいものは全部アマゾンとか楽天とかプレミアムバンダイとか、ネット通販を利用してる。

 ひきこもりだけど、きれい好きで、部屋はベッドの上にえっちな抱き枕があったり、部屋のいろんなところに美少女フィギュアがあったりするけど、小綺麗にまとまっていて、ちょっとしたオフィスのようになっていた。


 おにーちゃんは、わたし以外を部屋に入れない。

 家族の中で、わたしにしか心を開かないし、わたしとしか喋らない。

 おにーちゃんがひきこもりを始めたとき、わたしはまだ6歳だったから、その理由をわたしは知らないし、いまさら訊くつもりもない。

 おにーちゃんが話したくなったときに話してくれたら、そのときは真剣に聴こうと思っていた。


 わたしはおにーちゃん宛に毎日のように通販サイトから届くものを部屋に運び、そのまま眠くなるまでおにーちゃんの部屋で過ごす。
 おにーちゃんのベッドで寝てしまうことも結構ある。

 うちは、別にお金持ちというわけじゃないけれど、おにーちゃんは一応自営業っていうことになるのかな? 一日中部屋でパソコンに向かって何か作業をしていて、共働きのおとーさんとおかーさんの月収よりも多くお金を稼いでいるみたいだった。

 パソコンで何をしているのかは、そのときそのときで違っていて、どんな仕事をしているのか、わたしはよく知らない。

 でもこの何ヵ月かは、ソフトウェア? の開発か何かをずっとしているようだった。

 今日わたしが部屋に運んであげたのは、10冊くらいの本だった。

 今日こそは漫画かなって思ったら、どの本にも「解離性同一性障害」という、わたしが最近はもう見飽きてしまった病名が書いてあって、またかと思った。

 おにーちゃんは去年の暮れからずっと、東京に住む友達から頼まれた仕事にかかりきりのようだった。

 その友達とは一度も会ったことがないみたい。

 ただ、自称天才のおにーちゃんが、唯一天才だと認めている大親友なのだと聞いたことがあった。




 去年の12月に、おにーちゃんを訪ねてきた男の人がいた。

 たぶんその人が来たのも、わたしがひとりだけ気になった巡礼者の女の子を見かけたのと同じで、冬休みの前のことだったと思う。

 その人の顔を、わたしはどこかで見たことがあるような気がした。
 たぶん芸能人とか文化人で、テレビとかで見たことがあったのだと思う。

 その人は、おにーちゃんがひきこもりだということを知っていて、わたしに茶色い紙袋を渡すと、

「お兄さんに話は通してあるから。
 よろしく伝えておいてね、みかなちゃん」

 と言った。

 みかな、というのはわたしの名前だ。

 雨野みかな。

 おにーちゃんは、雨野 孝道(あめの たかみ)。
 たかみち、じゃなくて、たかみ。

 孝道は「こうどう」と読む場合、孝行の道、親をうやまいつかえる道、という意味になる。つまりは親孝行だ。

 ひきこもりの長男には皮肉な名前だなっていつも思う。


 わたしの名前まで知っているということは、きっとおにーちゃんとすごく仲がいい人なんだな、と思った。

 おにーちゃんは、仕事とプライベートをしっかり分ける人だと思うし、この人に住所を教えていることも意外だった。

 わたし以外にも、おにーちゃんが心を開ける人がいることを嬉しく思う一方で、やきもちをやいてしまうわたしがいて、なんだかもやもやした。

 手渡された茶色い紙袋は、それなりに重くて、中身が気になったわたしは、見てもいいですか? と聞いた。

 なんとなくだけど、拳銃が入っているような気がした。

 すると、その人は、いいよ、と言って、

「でも、拳銃とかじゃないよ。ただの携帯電話」

 と、言って笑った。

 わたしは、どうしてわたしが中身が拳銃なんじゃないかと思ったことがわかったんだろう、って不思議だった。

 中身は本当に携帯電話だった。

 重いと感じたのは、四台も入っていたからだった。

 四台のうち、一台は壊れているように見えた。

「上がっていかれますか? おにーちゃんのお友達が来てくれたの、はじめてなんです」

 わたしはそう言ったけれど、その人は首を横に振った。

「ごめんね。そうしたいのはやまやまなんだけど、早く帰らないといけないんだ」

 本当に申し訳なさそうに、そう言った。

「ぼくの大切な人がね、今すごく心をすり減らしているんだ。
 目を覚ましたときに、そばにぼくがいないと、きっと泣いてしまうから」

 その顔はとても優しくて、とても不安げで、本当に大切な人なんだなとわたしは思った。

「じゃあ、ぼくはこれで」

 その人は、わたしの家のすぐそばに停めていた車に向かって歩いていこうとして、途中で足を止めた。

 振り返ってわたしを見ると、

「みかなちゃんは、お兄さんが好きかい?」

 と聞いた。

「好きですよ」

 と、わたしは答えた。

 もちろん恋愛的な意味ではなく、兄として。家族として。だったけれど。


「みかなちゃんはまだ知らないかもしれないけど、お兄さんはとてもすごい人なんだ。
 ぼくがお兄さんに依頼したのは、その携帯電話の中に入っている、あるプログラムの解析にすぎないんだけど、それを解析できるのはたぶん世界でお兄さんだけなんだ。
 そして、きっとそれはお兄さんの知的好奇心をとても刺激する。
 近い将来、お兄さんは、今の医療技術ではどうにもならないような、たくさんの人を救うことになると思う」


 それは、にわかには信じられない話だったけれど、その人の言うことはなぜだか信じられると思った。


「なるべく、お兄さんのそばにいてあげて。
 ぼくにも妹がいるけれど、兄っていう生き物は、妹にかっこいいところを見せたいもんなんだ」

 そう言って、その人は車に乗り込んだ。


 その人の言う通り、その四台の携帯電話は、おにーちゃんの知的好奇心をとても刺激した。

 食べたり、寝たり、ということを、忘れてしまうくらいに。


 わたしは、ただ見ていることしかできなくて、おにーちゃんが何の解析を依頼され、そしてたった四台の携帯電話とパソコンで一体何をするのか、まるでわからなかったけれど、ずっとおにーちゃんがすることを見ていたいと思った。



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