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1巻
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ふわりと、甘い香りが鼻孔をくすぐる。焼いたバターの香ばしい匂いだと、すぐに気づいた。その刹那、お腹がぐうと鳴り、優奈はハッと目を覚ます。
「おや、お目覚めかい?」
声のしたほうを見て、優奈は「あれ?」と呟いた。その人影は声にふさわしく老婆のものだったが、彼女が被っているボンネットから、あり得ない物が出ていたのだ。それはまるで――猫の耳のよう。
「あ、あの」
「なんだい?」
「お、お婆さんの耳は、どうしてそんなに大きいのでしょうか?」
「それはね、あなたの声を、よおく聞きとるためさ」
アーモンド形の大きな目は吊り上がっており、口は人間のそれより前に突き出ている。顔も灰色のもふもふの毛に覆われていた。猫そっくりの頭の持ち主は、人と同じように二足歩行をしていて、可愛らしい紺のワンピースにエプロンドレスを纏っている。
「ね、猫!? っていうか、ここ、どこ!?」
がばりと起き上がった途端、視界がぐらりと歪む。ベッドに逆戻りしそうになった優奈の体を、猫の老婆が支えてくれた。しばらくすれば、眩暈は落ちついた。優奈は老婆にお礼を言う。
「すみません、ありがとうございました」
周囲の景色に見覚えはないし、猫の老婆もファンタジー過ぎる。頭の中は混乱状態だったが、お礼の言葉はすんなりと出た。
「あの、私は――」
だんだんと意識がはっきりしてくる。帰宅後、自宅で倒れ、女神に出会った。間違って地球に送ってしまったというあり得ない話を聞いたあと、異世界へ送られたのだ。
そして草花が生い茂る庭で目覚め、美しい青年に手を差し伸べられて――
「そういえば、あの男の人は……?」
「はいはい。詳しい話はあと」
「お婆さんは?」
「私の名前はシュトラエル」
「シュトラエル、さん」
「ああ、そうさ。いいから、とりあえずこれをお食べ」
差し出されたそれは、パンケーキ。先ほどから漂っていた甘い香りの正体はこれだったようだ。
二段に重なったフワフワの生地には、四角くカットされたバターが載っており、上からは蜂蜜がたっぷり垂らされていた。とてもおいしそうなパンケーキで、眺めているとまたぐうとお腹が鳴った。
――見ず知らずの人の家で介抱され、食事まで甘えることはできない。
優奈はそう思ったが、シュトラエルと名乗る猫頭の老婆は、一口大に切り分けられたパンケーキをフォークに刺して、優奈の口元へと差し出してくる。
「このパンケーキを食べたら、みんな笑顔になるんだよ。とってもおいしいから、お食べ」
「笑顔になれる……パンケーキ?」
戸惑いながらも口を開くと、老婆はそのままパンケーキを食べさせてくれた。
フワフワの生地に、蜂蜜の優しい甘さと、バターのほんのりとした塩気がよく合う。
おいしくて、老婆の温かな優しさが身に沁みて、優奈は涙をポロポロと流した。
「おやおや、今まで、大変だったんだね」
優しく背中を撫でられ、優奈は両手で顔を覆う。
「頑張った。あなたは、よく頑張った。偉いよ。だから、このパンケーキをたくさん食べて、ゆっくりお休み。そうすれば、元気になるから」
老婆の話を聞きながらこくこくと頷く。思う存分泣いて、少し落ち着いた優奈はパンケーキを食べ進めた。驚いたことに、冷めてもおいしい。綺麗に完食する頃には、お腹の虫も鳴きやんでいた。
「ありがとうございました、おいしかったです」
「そうかい、そうかい」
優奈の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。食べたら幸せな気分になれる。老婆の言葉は本当だった。優奈はもう一度、シュトラエルにお礼を言う。
「あとはゆっくりお眠り。酷いクマができている。しっかり睡眠を取って、元気になるんだよ」
その後、優奈は泥のように眠った。
目覚めたのは、陽が沈んで夜となり、再び太陽が顔を出す時間帯。
――コーケコッコ~~~!!
「うわっ!!」
鶏の甲高い鳴き声で目を覚ます。勢い良く起き上がり、手元にあるスマホを掴んだが――
『グエッ!!』
手に取ったのは、つるりとしたスマホではなく、ふかふかの白い塊。見た目はシマエナガな妖精、アオローラであった。
「あら、あなたは……」
『うう~ん、扱いが、雑……ってユウナ、目が覚めたんだ!』
驚いて手を離すと、アオローラは小さな翼を羽ばたかせ、優奈の周りを飛び始めた。
「えっと、うん、おはよう」
『おっはよ~』
体調は大丈夫かとアオローラに聞かれ、優奈は首を傾げる。いまだに頭の整理がついていなかった。
「あの、まず、アオローラ、あなたについて教えてくれる?」
とりあえず、目の前の不思議な生物から、解析してみることにした。
優奈を導く妖精、アオローラ。性別はない。主な能力は、ものの本質を見抜く、鑑定の能力らしい。
「えっと、アオローラは何か食べたりするの?」
『もちろん!』
女神の一部と、優奈の心から生まれた妖精は、食事も普通にすると話す。本当は食べなくても生きていけるそうだが、そこは女神の加護のおかげらしい。
『ユウナが食べるの大好きだから、同じように好きになったんだと思う』
「そっか。あの……肉とかも食べるの?」
『食べられるよ! 妖精だから、共食いではないよね?』
「あ、うん。たぶん」
次に、この家の主である、シュトラエルについて聞いてみた。
『この世界には、獣人っていう、獣の頭を持つ種族がいるんだ』
人間と同じで、良い人も悪い人もいるので、気を付けるように言われた。
『シュトラエルは良い人だよ』
「うん、知ってる」
見ず知らずの優奈を受け入れ、涙が出るほどおいしいパンケーキを振る舞ってくれたのだ。
きっと優しい人に違いない。優奈は少しずつ、このファンタジーの世界を受け入れる。
『一応、この世界について、ユウナに軽く説明しておくね』
優奈は布団の上に正座をして、アオローラの話を聞く姿勢を取った。
『ここはエクリプセルナル。世界樹に支えられていて、五つの国から成り立つ魔法の世界』
五つの国はそれぞれ、白竜の守護する国『アスプロス』、黒竜の守護する国『メラース』、赤竜の守護する国『エリュトロス』、青竜の守護する国『カエルレウス』、緑竜の守護する国『ウィリティス』というらしい。
『ここは緑竜の守護する国、ウィリティス。一番緑が豊かでのんびりした国だね』
ウィリティスは人族が多く暮らす国。アスプロスは獣人、メラースは手先が器用なドワーフ、エリュトロスには魔法が得意なエルフ、カエルレウスは半身が魚類のマーマンが住んでいるのだとか。
「国ごとに、いろんな種族が住み分けをしているんだ」
そして話を続けるうち、驚くべき事実が発覚する。
『ちなみに、ここの文明は地球と変わらないんだよ』
「え!?」
『機械の代わりに、魔法が発展しているからね』
混乱する優奈に、アオローラは例を挙げる。
『例えば、ユウナが持ち歩いていたスマートフォン。これも似たような物があるんだ』
アオローラは身振り手振りで説明する。
『こんな、丸くて、腕に嵌める装飾品みたいなやつなんだけど、それに刻まれた呪文を指先でなぞれば、話したい相手に思念を飛ばすことができるんだ』
「へえ、便利。動力源はなんなの?」
『自身の中にある、魔力を使うんだ』
魔力とは、魔法の源となる大いなる力のこと。『エクリプセルナル』の住人は皆、生まれつき体の中に宿している。
『ここの世界の人達は、電力の代わりに魔力を使って、便利な生活を送っているんだ』
魔力を必要とする道具類は魔道具と呼ばれ、魔力が含まれる石を動力源として力を発揮する。
「ふうん。魔法の杖みたいね」
『そうだよ。魔法を使う時の補助にも使うんだ。魔法使いであっても、個人が持つ魔力には限りがあるからね!』
「魔道具か……。でも、その前に住む家と仕事を探さなきゃいけないね」
頬を打って気合を入れて、優奈は立ち上がる――が、くらりと眩暈を覚えた。息苦しさも感じる。すぐに寝台に腰かけ、息を整えた。
『ユウナ、大丈夫?』
「……ええ、平気だけど、なんだろう、これ?」
『もしかしたら、ずっと地球にいたせいで、体内の魔力が足りていないのかもしれない』
この世界では魔力がないと動き回るのも辛い状態になるが、魔力の濃い薬草園でしばらく過ごせば回復するだろうとアオローラは話す。そんな会話をしているところに、トントンと扉が叩かれた。
「もう、起きたのかい?」
外から聞こえた声を聞いて、優奈は不思議に思う。言葉の響きは日本語や英語ではないのに、理解できる、と。
『ユウナ、起きてま~す!』
ポカンとしていた優奈の代わりにアオローラが返事をすると、部屋の扉が開いた。入って来たのは、昨日介抱をしてくれた猫の老婆。手には朝食の載った盆を持っている。
「おはよう」
優奈は立ち上がり、「おはようございます」と頭を下げた。
「私、伊藤優奈と申します。昨日はおいしいパンケーキをいただいただけでなく、こうして一晩泊めてくださって、本当にありがとうございました」
「いいんだよ。イトウ、と言ったかな。変わった名だねえ」
「あ、伊藤は苗字で、名前は優奈です」
「そうかい。ユウナか。良い名前だ」
改めて、自己紹介し合う。シュトラエルは、日々薬草園の草花の世話を生きがいにする、猫獣人だと名乗った。
「この子はアオローラと言います。私を導いてくれる妖精、らしいです」
『ユウナ、らしいじゃなくて、そうなの!』
二人のやりとりを見て、シュトラエルは目を細める。何か思うところがあったようだ。
「ユウナ、食事を取りながらお聞き」
寝台の傍にある、円卓の上に朝食が置かれる。パンにジャム、スープ、チーズ、サラダに茶が並んでいた。シュトラエルは、じっと優奈を見つめて食事を促す。優奈はいただきますと言い、匙を手に取った。
スープには野菜がゴロゴロとたくさん入っている。匙で掬って食べると、コンソメスープみたいな味わいだった。野菜は柔らかく煮込まれ、噛むだけでほろりと解れる。
パンは焼きたてで、フワフワもっちり。木苺のジャムは甘酸っぱくてパンと良く合う。
チーズにはハーブが入っていた。匙で掬えるほど柔らかいので、これもパンに塗って食べた。
サラダには柑橘系のドレッシングが掛かっている。葉はルッコラに似ているが、色が地球の物より濃い気がした。でもおいしいので、気にせず食べる。
その食べっぷりを見て、シュトラエルは微笑んだ。思わず夢中になっていたことに気づき、優奈は頬を染める。
「あ、すみません、おいしいです」
「顔色は悪いけれど、食欲はあるみたいで良かったよ」
「はい、おかげさまで」
ここで、本題に移る。
「妖精の導きがあるということは、ユウナは違う世界から来たんだろう? 昔から、そう決まっているんだ。妖精と一緒にいる人は、異世界人だってね」
本当は生まれ故郷に戻ってきた形なのだが、説明が難しいため、優奈は否定せずにコクリと頷く。
「そうかい……。私は若い頃、妖精付きの異世界人に世話になったことがあってね」
なんとここは、かつてその異世界人が住んでいた家だった。トリップした時の状況などもいろいろと聞いていたようで、シュトラエルは眩暈などを感じていないかと気遣ってくる。頷くと、異世界人によく見られる現象であると教えてくれた。
「でも、大丈夫さ。この世界に慣れたら、魔力も体に馴染む。この世界のありとあらゆる物に、魔力は宿っているんだ。おいしい物を食べて、薬草茶を飲んで、自然豊かな薬草園でのんびり過ごせば、きっとこの世界にも慣れるだろう」
「はい、ありがとうございます」
話を聞いている間に、食事を食べきってしまった。
「パンとスープはまだまだあるけれど、食べるかい?」
「いえ、もうお腹いっぱいです。ごちそうさまでした」
「それは良かった」
不思議なことに、食事をしたら、じわじわと元気が湧いてきたのだ。
これからどうするか考える。自分にできることはなんだろうかとも。けれどそれよりも、まずはこの地に慣れることが先決だった。優奈は息を大きく吸い込み、立ち上がる。
「あ、あの」
突然大きな声で話しかけたので、シュトラエルは目を見開く。尻尾もピンとまっすぐ伸びていた。
「ど、どうしたんだい?」
「シュトラエルさん、図々しいことを承知でのお願いなのですが、私をここに置いてくれませんか?」
炊事、洗濯、掃除、なんでもしますと、優奈は頼み込む。
「あと、薬草のお世話もできると思います。学生時代に留学した時、少し習いました。それから――」
「ユウナ、大丈夫だよ」
シュトラエルに落ちつくように言われ、恥ずかしくなる。
「もともとユウナさえ良ければ、ここに住めばいいと誘うつもりだったんだ」
「え!? あ、はい。その……ありがとうございます」
すとんと寝台に腰を下ろし、優奈は深々と頭を下げる。
「ふ、ふつつかものですが、よろしくお願いいたします」
シュトラエルはにっこりと微笑みながら、手を差し出してくる。優奈はそっと握り返した。
さっそく、家の中を案内してもらう。茅葺き屋根だという室内は、湿気が少なく、カラッとしていた。踏み締めるたびにきゅっきゅと鳴る木造の床は年季が入っており、白い壁とあいまって、どこか懐かしい雰囲気がある。
ちなみに優奈は、かつてここに住んでいた異世界人が着ていたという、紺のワンピースとブラウス、黒いリボンを手渡された。幸いにもサイズはぴったりだ。髪を櫛で梳かし、ポニーテールにしてリボンで結んでみる。
『わ~お、ユウナ、似合うじゃん!』
「ちょっと可愛すぎる気もするけれど」
ブラウスはパフスリーブの袖付けが膨らんだもの。スカートの裾にはひらひらのフリルがあしらわれていた。着替えが終わり、さっそく仕事をしようと腕まくりをして一階に下りて行ったが、今日は働かなくていいと言われてしまった。
暇になってしまった優奈は、何をしようかと考えて、そう言えばと思い出す。ここに来たばかりの頃、介抱しようとしてくれた青年のことを。
「そうだ。お礼を言いに行かなくちゃ……。あの、シュトラエルさん、私を助けてくれた、金髪の男性をご存じですか?」
「ああ、ヴィリバルト坊ちゃんのことかい? ユウナを運んできた……」
「ヴィリバルトさんとおっしゃるんですね。はい。一言、お礼を言いたくて」
『ユウナ、居場所、わかるよ』
ついでに、途中にある商店で葡萄酒と牛肉を買ってきてくれないかと頼まれた。赤ずきんのお使いのように、籠とお金を手渡される。欲しい物があれば、買っていいとも言われた。
革袋に入っていた金は、十円玉に似た色の硬貨が五枚。首を傾げる優奈に、アオローラが教える。
『それは銅貨だね』
日本円にして二百円と同じくらいの価値があると言う。他に、十円と同じ価値のある『軽銅貨』、百円玉と同じ価値のある『半銅貨』、千円と同じ価値のある『銀貨』に、一万円と同じ価値のある『金貨』など、ウィリティス独自の貨幣の説明をしてくれた。
『よし、覚えたなら、出発だ!』
「ええ。ありがとう、アオローラ。では、シュトラエルさん、行ってきます」
「ああ、行ってらっしゃい」
シュトラエルの見送りを受け、優奈は家を出る。玄関を潜ると、視界いっぱいに豊かな風景が飛び込んできた。
「わっ……!」
吹く風は柔らかく、若草の爽やかな匂いが漂っている。優奈は目を細めながら、村へ繋がる道へ一歩を踏み出した。シュトラエルの自宅と薬草園は、村を一望できる小高い丘の上にあるようだ。
「屋根が真っ赤ね」
『あれは土を素焼きした瓦だよ。ここの土は鉄分を多く含んでいるから、焼くと赤みの強い瓦ができるんだ。この世界の一般的な家屋だよ。シュトラエルの家が茅葺き屋根なのは、前に住んでいた異世界人の好みだろうね~』
村へ続く小道を、アオローラと優奈はお喋りしながら進んで行く。
『遠くにある白亜のお屋敷は領主様のお屋敷で、村を囲んでいるのは葡萄畑。昔は、葡萄酒よりも綺麗な水のほうが高価だったから、葡萄酒を水代わりに飲んでいたらしいよ』
「すごい話ね」
村の様子を見ながら優奈は思う。ここはヨーロッパにある田舎の風景によく似ていると。
同じ地球でも、発展の仕方に差がある。文明レベルが同じだからといって、日本と同じくらい便利な暮らしができるとは限らないのだ。
「やっぱり、日本とは違う、か」
『それは、まあ』
けれど、優奈が住んでいた東京にはない、のどかで美しい自然があった。木々の重なる自然のトンネルを抜け、緩やかな坂を下り、小川にかかった石橋を渡ると、村に到着する。門を潜ると、黄色や白、青など、色とりどりの外壁を持つ建物が並ぶ通りに出た。
「可愛い建物。まるで、童話の世界みたい」
『魔法の世界だから、ある意味童話の世界だけどねえ~』
柱が外壁に露出した造りが特徴的な建築物である。窓辺には、美しい花々が植えられていた。地面は石畳が敷き詰められている。道行く村人は優奈を気にしない。日本にいた時も、たまにハーフっぽい顔立ちだと言われることもあったから、この世界の人にしてみれば、そこまで気にかけるような容姿ではないのかもしれない。
「そういえばアオローラ、あの、ヴィリバルトさんはどこにいるの?」
『お坊ちゃんはね~、村の外れで作業しているみたい』
「作業って、何をしているのかしら?」
『お仕事っぽいね~』
優奈は首を傾げる。おぼろげではあるが、確か彼は、仕立ての良い服を着ていたような気がした。それにシュトラエルも、彼のことを「ヴィリバルト坊ちゃん」と呼んでいたから、てっきり貴族のお坊ちゃんだろうと思っていたのに、働いているとは?
疑問に思いながら、石畳の道を進んで行く。村のすぐ外にある家畜用の柵の前に、ヴィリバルトはいた。周囲の男達はシャツにズボンという簡素な服装であったが、ヴィリバルトは紺の詰襟の上着にズボンという、貴族めいた装いであった。そんな彼は周囲の男達数名に、作業を命じている。
「そこ、三本杭を打ち直して。そっちは修繕するからそのままで」
どうやら家畜を放牧する柵の修理をしているようだ。声をかけていいのかわからず、優奈はその様子をしばらく遠巻きに見る。少し経つと、終わったのか、男達は解散し始めた。優奈のいるほうに男衆がやってきたので、慌てて木の陰に隠れる。けれど人が通り過ぎたあとも、ヴィリバルトは柵のある方向を覗き込んでいた。一人作業を続けているらしい。
「声、かけてもいいかな?」
『いいんじゃないかな』
背後にゆっくりと近付くが、彼が気づいた様子はない。しゃがみ込んで何をしているのかと思えば、急にヴィリバルトの手元が光り、魔法陣が浮かび上がった。途端、地面から蔓が生え、傾いていた柵に巻き付いてまっすぐ支える。
「わっ、すごい!」
「え?」
ヴィリバルトはビクリと肩を揺らし、驚き顔で振り返った。
「あれ、君は――」
「あ、ご、ごめんなさい」
集中しているところに声をかけたのだ。申し訳なかったと、頭を下げる。
「こちらこそ、気づかなくてごめん。君、名前は――?」
「伊藤……、あ。優奈、伊藤と申します」
先ほど普通に名乗った時、シュトラエルに伊藤が名前だと勘違いされた。この世界では、名前が先、苗字を後に言うと知ったので、言い直す。
「ユウナ、ね。私はヴィリバルト」
彼はにっこりと微笑みながら手を差し出してくる。握り返すと、ごつごつしていて、手の平にはマメのようなものがあった。貴族めいた外見に似合わない、働き者の手である。
「昨日は助けてくださり、ありがとうございます」
優奈は再度頭を下げた。重かっただろうと、頬を染めながら謝罪する。
「ぜんぜん重くなかったよ。君はもっと食べたほうがいい。腕は細すぎて、見ていて心配になる」
「はあ、そうですね。その辺は、おいおい」
そのまま、少し座って話をしないかと誘われた。サラサラと風が流れる草原に腰かける。ヴィリバルトは上着を脱ぎ、地面に置く。
「どうぞ。ここに座って?」
ヴィリバルトは天使と見紛うほどの笑顔で言う。こういった扱いに慣れていない優奈は戸惑う。
それに気がついたのだろう。ヴィリバルトは「じゃあ、ユウナは私のお姫様ということにしよう」とおどけてみせた。そのまま片膝を突き、驚くユウナに手を差し伸べる。
「姫、どうか、ここに座っていただけますか?」
どういう反応をすればいいのかわからず、困惑する。優奈がおろおろしていると、アオローラが肩に止まって耳元で囁いた。
『ユウナ。彼のことはイタリア人だと思えばいいよ』
「イタリア人って……」
優奈のイメージするイタリア人といえば楽天家でおおらか、そして情熱的で女性が大好き。
彼も女性全般に優しく、優奈だけを特別扱いしているわけではないのだろう。アオローラの助言を受けてヴィリバルトの態度を気にしないことにした優奈は、彼の手を取って上着に座ることにした。
「妖精と一緒にいるってことは、ユウナは、異世界からやって来た人間という認識でいいのかな?」
「ええ。皆さん、よくご存知なんですね。この世界では常識なんですか?」
「知っているのは一部だと思う。私はシュトラエルに教えてもらったから」
とはいえ、異世界人についての伝承は各地にあると、ヴィリバルトは語り出す。
「世界を救った勇者、人々に救いの手を差し伸べた聖女、さまざまな物を発明した賢者……」
「すごい人達ばかりなんですね」
「そうだね。そういう人達は、この世界に来たときに女神からの祝福があったらしいよ」
優奈がここに来る前に叶えてもらった願いは――一つは、自然が豊かな場所で暮らしたいということ。二つ目は、お菓子が作れる環境であること。三つめは、優奈の力が誰かの助けになること。
優奈の他にも異世界人はこの世界に降りていて、自分の望んだ力を使って英雄になったのだろう。
「でも、この情報は国によって伏せられているんだ。英雄のほとんどが本当は自国民じゃないなんて、公にしたくないだろうからね。各国にも、自尊心というものがある」
確かにそれは、あまり広めたくない情報だろう。
「ユウナも、何かすごい力をもらった?」
ぶんぶんと、首を横に振る。英雄になれるような力を得ることなど、考えもしなかった。
そんな優奈に、ヴィリバルトは「良かった」と言う。
「中には、異世界人の超人的な力を利用しようと、画策する輩もいるかもしれないしね」
優奈はハッと息を呑む。力などないのに、あると勘違いされることは、恐ろしいことである。
優奈が受けた祝福は、特別な物ではない。この世界の誰もが持っているかもしれない、ささいなものなのだから。
「ユウナ、だから――」
ヴィリバルトは、真剣な眼差しを向けて、優奈に言った。
「異世界人であるということは、黙っていたほうがいい」
幸い、優奈の妖精アオローラは一見普通の鳥にしか見えない。黙っていれば妖精であると気づく者はいないだろうと、ヴィリバルトは話す。
「いいね?」
優奈が「わかりました」と返事をすると、ヴィリバルトは「いい子だ」と言って、頭を優しく撫でてくる。それは心の中の不安が剥がれ落ちていくような、慈愛に満ちた仕草だった。初対面に近い相手なのにこんなに安心できるなんて、不思議なものだと思う。
ざわめいていた心は、今や驚くほど落ちついていた。
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