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日付が替わる前に帰宅すると、リビングには明かりが灯っていた。自然光に近い、ほんの少し黄色い光。ただいま、と僕は扉を開いた。
「村上さん。お帰りなさい」
「……起きてたんだ」
佐藤君が、小さく笑う。
「まだ、十二時前ですよ」
確かに、十時や十一時に就寝するというのはあまり大学生らしくないかもしれない。
「ごはん、冷蔵庫に入れておいたので」
「ああ、ありがとう。明日いただきます 」
明日の朝食が万全であるしあわせを噛み締めながら、僕は彼に頭を下げた。
「お風呂、先に入らせてもらいました。まだ、追い焚きしなくても行けると思うけど」
「そっか。でも飲んだばっかだし、もう少ししてから入ろうかな」
僕はネクタイを緩めながら、ソファーに腰を下ろした。テーブルの上には大学のテキストがあったが、今は閉じられている。予習が終わった後なのかもしれない。
「結構、飲まれたんですか」
「まあ、それなりに。上司が強いひとだから。付き合ってると、量が増える」
僕も決して弱くはないが、あのひとの比ではない。彼なら、大蛇と飲み比べしても勝つのではないか。
「佐藤君は……うん、訊かないでおくことにします」
未成年の飲酒について、堅いことを言う気もなければ勧める気もない。だからスルーした。
そうですね、訊かないでください。そう言って、口の端を持ち上げて笑う顔はまるでいたずらっ子のようで。やはり少し、兄に似ているような気がした。
「……今日、仕事の合間にまた、電話してみたんだけど」
誰にと告げずとも、彼には十分伝わったらしい。
「どうでした?」
「ごめん、やっぱり繋がらなかった」
「そうですか……」
落胆のような安堵のような、複雑な色が瞳に宿る。
「ごめんね」
「どうして、あなたが謝るんですか?」
「え?」
「すみません。お兄さんの……あなたの身内に関することだから、責任を感じてるんだろうな、というのは分かってます。俺がその原因だってことも。でも、何だかすごく苦しそうに見えたので」
苦しそう、というなら。君の方がずっと苦しそうだと僕は思った。
人は、自分が自分のいちばんの理解者だと思いがちだ。だから自分の知らない自分がいることが許せない。傷つくと分かっていても、それを知ろうとする。
「……ごめん」
彼が何か言おうとするのを遮って、僕は言った。
「そうじゃないんだ。僕はたぶん、君に自分を重ねてたんだ」
「え?」
「僕も、自分の親を知りたいと思ったことがあったから」
彼が息を呑む音がした。
「それでつい、必要以上に肩入れしてるのかも」
笑いながら、こんな話を誰かにしていることが不思議だった。四谷さんにだって、まだ話したことはない。
「差し支えなければ、もう少し、詳しく聞いても構いませんか」
佐藤君に頷き返して、僕はまた口を開いた。
「中学三年の冬だったと思う。日曜日、父のところに人が訪ねてきていた。後で母が教えてくれたんだけど、親戚のひとがお金の無心に来ていたんだって。僕は図書館に行っていて、ちょうどそのひとが帰るときに戻ってきた」
今僕が住んでいる、まさにこのマンションでの出来事だった。
客人と目が合った僕は、こんにちは、と頭を下げた。交錯した視線の先で、相手の瞳が鈍く光った。
「そのひとは僕を見て、言ったんだ。『他人のこどもに遣う金はあるくせに』って」
「それって……」
「他人のこども、というのが僕のことだったんだよ」
それまで僕はそのことを知らなかった。二人のこどもだということを、疑ったことさえなかった。
「村上さん。お帰りなさい」
「……起きてたんだ」
佐藤君が、小さく笑う。
「まだ、十二時前ですよ」
確かに、十時や十一時に就寝するというのはあまり大学生らしくないかもしれない。
「ごはん、冷蔵庫に入れておいたので」
「ああ、ありがとう。明日いただきます 」
明日の朝食が万全であるしあわせを噛み締めながら、僕は彼に頭を下げた。
「お風呂、先に入らせてもらいました。まだ、追い焚きしなくても行けると思うけど」
「そっか。でも飲んだばっかだし、もう少ししてから入ろうかな」
僕はネクタイを緩めながら、ソファーに腰を下ろした。テーブルの上には大学のテキストがあったが、今は閉じられている。予習が終わった後なのかもしれない。
「結構、飲まれたんですか」
「まあ、それなりに。上司が強いひとだから。付き合ってると、量が増える」
僕も決して弱くはないが、あのひとの比ではない。彼なら、大蛇と飲み比べしても勝つのではないか。
「佐藤君は……うん、訊かないでおくことにします」
未成年の飲酒について、堅いことを言う気もなければ勧める気もない。だからスルーした。
そうですね、訊かないでください。そう言って、口の端を持ち上げて笑う顔はまるでいたずらっ子のようで。やはり少し、兄に似ているような気がした。
「……今日、仕事の合間にまた、電話してみたんだけど」
誰にと告げずとも、彼には十分伝わったらしい。
「どうでした?」
「ごめん、やっぱり繋がらなかった」
「そうですか……」
落胆のような安堵のような、複雑な色が瞳に宿る。
「ごめんね」
「どうして、あなたが謝るんですか?」
「え?」
「すみません。お兄さんの……あなたの身内に関することだから、責任を感じてるんだろうな、というのは分かってます。俺がその原因だってことも。でも、何だかすごく苦しそうに見えたので」
苦しそう、というなら。君の方がずっと苦しそうだと僕は思った。
人は、自分が自分のいちばんの理解者だと思いがちだ。だから自分の知らない自分がいることが許せない。傷つくと分かっていても、それを知ろうとする。
「……ごめん」
彼が何か言おうとするのを遮って、僕は言った。
「そうじゃないんだ。僕はたぶん、君に自分を重ねてたんだ」
「え?」
「僕も、自分の親を知りたいと思ったことがあったから」
彼が息を呑む音がした。
「それでつい、必要以上に肩入れしてるのかも」
笑いながら、こんな話を誰かにしていることが不思議だった。四谷さんにだって、まだ話したことはない。
「差し支えなければ、もう少し、詳しく聞いても構いませんか」
佐藤君に頷き返して、僕はまた口を開いた。
「中学三年の冬だったと思う。日曜日、父のところに人が訪ねてきていた。後で母が教えてくれたんだけど、親戚のひとがお金の無心に来ていたんだって。僕は図書館に行っていて、ちょうどそのひとが帰るときに戻ってきた」
今僕が住んでいる、まさにこのマンションでの出来事だった。
客人と目が合った僕は、こんにちは、と頭を下げた。交錯した視線の先で、相手の瞳が鈍く光った。
「そのひとは僕を見て、言ったんだ。『他人のこどもに遣う金はあるくせに』って」
「それって……」
「他人のこども、というのが僕のことだったんだよ」
それまで僕はそのことを知らなかった。二人のこどもだということを、疑ったことさえなかった。
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