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「村上さん」
洗面台の前で考え事をしていたら、急に至近距離に佐藤君がいた。ひっ、と言葉にならない悲鳴が口を突いて出る。
「ああ、すみません。驚かせてしまって。今夜はごはん、うちで食べます?」
「あ、うん……」
「分かりました。寒くなってきたんで、キムチ鍋とかどうですか」
「うん。食べたいです」
「じゃあ、遅くなりそうなときはできれば連絡ください」
歯ブラシに歯磨き粉を絞り出しつつ、僕は昨夜四谷さんから受けたアドバイスを思い出す。
まず、佐藤君に付き合っている相手がいないか確認すること。次に、好きという気持ちを態度で表すこと。
確かに、ひとつめは必要だと思う。佐藤君が恋人と別れたのが、約ひと月前。もし今、彼が別の誰かと付き合っているのだとしたら、自分にはどうすることもできない。
ふたつめに関しては、とりあえずスキンシップを増やして距離を縮めろ、と四谷さんは言った。相手に自分を意識してもらうことが大切なのだと。
歯磨きを終え、口をゆすいでリビングに戻ると、ちょうど佐藤君が出かけるところだった。
「俺、先行きますね」
「あ、うん」
リビングから出ていく彼をぼーっと見送っていると、ふとテーブルの上に置かれたICカードが目に入った。ケースに入ったそれは自分のものではない。僕はカードを手に取り、玄関へと急いだ。
幸運なことに、佐藤君はまだ家を出てはいなかった。靴を履いている彼に声をかけようとした瞬間、不意に四谷さんの声が脳裏をよぎった。
──スキンシップ。
佐藤君、と呼びかけながら僕は彼へと手を伸ばした。
「村上さん? どうしました?」
伸ばした手は、服の裾を掴むに留まった。玄関先の段差をもってしても、佐藤君の身長の方が少し大きい。僕は彼の服から手を離して、カードを差し出した。
「あの、これ……」
「うわ、忘れてた。ありがとうございます」
「ううん。えっと、行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
彼はバッグの中にカードをしまうと、僕に挨拶を返して家を出た。
彼の姿が完全に見えなくなってから、僕は玄関先に座り込んだ。全然スキンシップにならなかった。自分にはできない。この調子だと、僕が佐藤君を意識させられるようになるまで、軽く百年はかかるだろう。僕はゆっくりと立ち上がり、出勤する準備を始めた。
職場で四谷さんに現状を報告したところ、それはそれで有りなのではないか、といった評価をいただいた。
「有り、ですか……?」
「若葉がそれをしてきたら、すごく萌える」
「若葉さんなら、そうかもしれませんけど」
美人と一緒にされても困る。身長体重くらいしか共通点はないのだから。
「まあ、できる範囲で頑張れ」
「はい」
雑な先生だが、おそらく彼の言うことは正しい。何もしないよりは、少しでも行動した方がいい。そう思うことにした。
洗面台の前で考え事をしていたら、急に至近距離に佐藤君がいた。ひっ、と言葉にならない悲鳴が口を突いて出る。
「ああ、すみません。驚かせてしまって。今夜はごはん、うちで食べます?」
「あ、うん……」
「分かりました。寒くなってきたんで、キムチ鍋とかどうですか」
「うん。食べたいです」
「じゃあ、遅くなりそうなときはできれば連絡ください」
歯ブラシに歯磨き粉を絞り出しつつ、僕は昨夜四谷さんから受けたアドバイスを思い出す。
まず、佐藤君に付き合っている相手がいないか確認すること。次に、好きという気持ちを態度で表すこと。
確かに、ひとつめは必要だと思う。佐藤君が恋人と別れたのが、約ひと月前。もし今、彼が別の誰かと付き合っているのだとしたら、自分にはどうすることもできない。
ふたつめに関しては、とりあえずスキンシップを増やして距離を縮めろ、と四谷さんは言った。相手に自分を意識してもらうことが大切なのだと。
歯磨きを終え、口をゆすいでリビングに戻ると、ちょうど佐藤君が出かけるところだった。
「俺、先行きますね」
「あ、うん」
リビングから出ていく彼をぼーっと見送っていると、ふとテーブルの上に置かれたICカードが目に入った。ケースに入ったそれは自分のものではない。僕はカードを手に取り、玄関へと急いだ。
幸運なことに、佐藤君はまだ家を出てはいなかった。靴を履いている彼に声をかけようとした瞬間、不意に四谷さんの声が脳裏をよぎった。
──スキンシップ。
佐藤君、と呼びかけながら僕は彼へと手を伸ばした。
「村上さん? どうしました?」
伸ばした手は、服の裾を掴むに留まった。玄関先の段差をもってしても、佐藤君の身長の方が少し大きい。僕は彼の服から手を離して、カードを差し出した。
「あの、これ……」
「うわ、忘れてた。ありがとうございます」
「ううん。えっと、行ってらっしゃい」
「はい。行ってきます」
彼はバッグの中にカードをしまうと、僕に挨拶を返して家を出た。
彼の姿が完全に見えなくなってから、僕は玄関先に座り込んだ。全然スキンシップにならなかった。自分にはできない。この調子だと、僕が佐藤君を意識させられるようになるまで、軽く百年はかかるだろう。僕はゆっくりと立ち上がり、出勤する準備を始めた。
職場で四谷さんに現状を報告したところ、それはそれで有りなのではないか、といった評価をいただいた。
「有り、ですか……?」
「若葉がそれをしてきたら、すごく萌える」
「若葉さんなら、そうかもしれませんけど」
美人と一緒にされても困る。身長体重くらいしか共通点はないのだから。
「まあ、できる範囲で頑張れ」
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雑な先生だが、おそらく彼の言うことは正しい。何もしないよりは、少しでも行動した方がいい。そう思うことにした。
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