I don't like you.

広瀬 晶

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過去

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    微かな寝息を立てて眠る、綺麗な横顔。広い背中をまるめて机に突っ伏す様子は、獣が昼寝でもしているかのように見える。緩く纏ったシャツの隙間からは、首筋に残る、赤く鬱血した痕が見えた。
「四谷」
 小声で呼びかけるが、返事はない。
「四谷琉聖」
 再度名を呼ぶと、彼は姿勢を変えずに言った。
「何」
「……授業中。英語」
 むっとしてしまったのが、声にも表れていたのだろう。四谷琉聖は、低い声で笑った。
「Thank you for your kindness.」
 流暢な発音に、僕はそっと溜め息をついた。

 四谷のことは、一応一年のときから知っていた。ただし同じ学校の生徒だという以外に接点はなく、三年になるまで言葉を交わしたことは一度もなかった。彼と自分は属する世界が違っていて、どちらかといえば苦手な方で。同じクラスになったとしても、それは変わらないはずだった。
 あのとき、僕が彼に話しかけたりしなければ。

 四月、最初の席替えで四谷琉聖と隣の席になって、一週間ほど過ぎた日のことだった。
 彼は窓際のいちばん後ろの席、僕はその右隣の席にいて、五限目の英語の授業を受けていた。開け放たれた窓からは、時折春の風が吹き込んでいる。日射しもやわらかく、心地よい午後だった。何気なく窓の方に目をやると、四谷琉聖がすやすやと眠りに落ちていた。
 普段なら、ちゃんと授業を受ければいいのに、などと思ってしまう自分が一瞬、彼の姿に目を奪われた。彼の寝姿には動物的な美しさがあった。自分の欲求に忠実で、罪悪感や葛藤のようなものは見られない。そのことが彼をひどく自由に見せている。綺麗な生き物だなと、素直に思った。
 その約十分後、視線を彼に戻してみるも、完全にその目は閉じられていて起きる気配はない。
     授業は和訳に入っていて、指名された生徒が指定された箇所の訳を読み上げている。窓際の列から順に指名されているので、もうじき四谷琉聖にも順番が回ってくるはずだった。彼が本文を訳せるかどうかは分からないけれど、寝ているよりは起きていた方がいいだろう。
    そう思い、僕は彼の方を向いて言った。
「四谷君」
 彼は反応しなかったが、なぜか周りがざわついた。さっきより少しだけ大きめの声で、僕は彼に呼びかけた。
「四谷、琉聖」
 フルネームで呼び直すと、ぴくっと肩が動いた。
「訳、次の次、当たるよ」
 僕は用件だけ伝えて授業に戻るつもりだった。彼の次には、隣の席の自分が当たるかもしれない。他人の心配ばかりしてもいられない。
「ん……」
 身じろぎして、腕でつくった輪の中から顔を上げる。彼の表情は、大変不機嫌そうだった。怖い、と言ってもいいくらいだったのだが。おそらく、腕が当たっていたのだろう。額の左の方がうっすらと赤くなっている。その不注意さが、まるでこどもみたいで。僕は微かに笑ってしまった。
    四谷琉聖は、睨みつけるような目で僕を見た。起き抜けで急に笑われたら、いらっとしても仕方がない。ごめん、と僕が謝ろうとすると。
「何行目?」
    身を起こして、彼は言った。
「訳、何行目から?」
    周りがまたざわついた。
「十行目からかな。その段落全部になると思う」
「ん」
    教科書に、ざっと目を通し始める四谷琉聖。すぐに、彼の番が来た。先生は自分で指名しておきながら、彼が起きていることにどこか戸惑っているように見えた。
    彼の訳は口語的で、自然だった。答え終えると、彼はまた机の上でうつらうつらと船を漕ぎ始めた。

    授業が終わり、目を覚ました四谷琉聖は教室を出ていった。彼の姿が見えなくなると同時に、前の席の男子が勢いよく僕の方を振り返った。
「雪下、おまえすごいな……。あの四谷琉聖に注意するとか。聞いてるだけではらはらしたわ」
「えっと、ごめん……?」
    どう答えていいか分からず、はらはらさせたことについて僕は謝った。四谷琉聖を起こしてはいけないというのが暗黙の了解となっていたことを、僕はこのとき初めて知った。恐ろしく寝起きの悪い四谷は、普段は他人に絡んだりはしないが、寝ているところを起こされるとガチ切れするらしい。
「つか、そんなの知らなくても相手が四谷だったら、普通寝ててもほっとくだろ」
    僕は曖昧に頷いた。四谷琉聖に声をかけた理由は、自分でも上手く説明できる気がしなかった。
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