化粧通貨

rara33

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 あの事件から4ヶ月が経った。

 4月の春の到来とともに、マロさんの頬からようやく完全にガーゼがとれた。

 傷跡は思っていたよりも薄くて目立たず、コンシーラー等でごまかせそうな範疇だったが、それでも「5美円」の判定を得るのは難しいと思われた。

 金髪から黒髪へと「衣替え」したマロさんは、悟りを開いたような顔で鏡の中のマロさんを見ていた。

「ネィちゃん、もうボクは『インフル美円サー』じゃないから、キミには必要ないと思うよ」

 私がほぼ住み込みで身の回りの世話をするうちに、マロさんは私にタメ口で話すようになってくれた。

 昨年の「見切り告白」はうやむやとなったままで恋人関係ではないが、他人の中では一番心を許してくれているのが分かった。

「マロさんの顔に傷があってもなくても、私にとっての価値は変わりません。追い出されない限り、ずっとそばにいますから」

 私がマロさんの目を真っ直ぐに見て言ったら、彼は悲しそうに笑ってうつむいた。

 その時のマロさんの顔を、私はノーメイクでも十分美しいと思った。

 ◇ ◇

 5月のゴールデンウイークに入った。

 ある星座の流星群が、数十年ぶりに都会の空でも観測できるという日だった。

 夕刻を迎えて丸い月が早くも上空に浮かび、絵の具を水に溶かすように夕焼けが少しずつ降下していく。

 先月と比べていくぶん柔らかくなった5月の風が、マンションのバルコニーで作業する私の手足を気まぐれに通り抜けた。高層フロアの風は地上よりも強く吹いて、心臓にも直接触れてきそうな圧迫感がする。

 遠くに見える森林公園の緑が、風を受けて拍手のようなさざ波を立てた。

「よし、できた!」

 バルコニーに持ち出したアイテムの数々を見渡すと、口元が自然とほころんでしまう。

 流星群には少し早いが、私は今夜の準備を早めに始めることにした。

 前日に下ごしらえしておいた、薄切りのカボチャやニンジン、輪切りにしたトウモロコシ等を手際よく、小型コンロのプレートの上に並べていく。

 お昼寝中のマロさんが好きなナスも、起きてきたらすぐ冷蔵庫から取り出せるようにしてある。

 IH式の無煙型コンロの電源をつけたら、ピピピッと内蔵AIが起動した。

「オッケー、コンロ。炭火焼きモード『野菜』で焼いてちょうだい」

『はい、加熱を始めます。プレートにご注意ください』

 煙はまったく出ないのに、プレートの中の野菜たちがじわじわと焼かれ始めた。


 ――むかしはこんな便利なコンロなんてなかったから、ベランダでバーベキューなんかしたら、煙臭いってお隣さんからすぐに苦情が来たのよ。


 おばあちゃんが言っていた頃の時代を想像していると、空はあっという間に暗くなっていた。

 しばらくすると、炭で焼いた時と同じ香ばしい匂いがコンロのプレートから立ち昇って鼻腔をくすぐった。

 一口大の乱切りに切った赤と緑のパプリカたちが、鮮やかな色の国旗みたいに並んで、良い感じにしんなりしている。

 朝から我慢してなにも食べていないから、お腹がすいてたまらなかった。

「なんかいい匂いするね」

「わっ!」

 驚いて顔を上げた私を見て、マロさんが「フフ」と笑った。

 寝起きのマロさんの顔は少しむくんでいるけど、潤んだ目がセクシーで肌も瑞々しかった。

「昨日は食べないかもって言ったけど、やっぱりボクもお腹すいてきたな」

「そうだと思って、ナス切ってありますよ。ちなみに最後にマシュマロも焼くつもりです」

「食べ物の話になると、ネィちゃんって生き生きするよね」

 そう言って笑うマロさんの顔も、こころなしか上気している。

 二人ハモるように腹が鳴ると、私たちは顔を見合わせて笑った。

「ナスと一緒に飲み物もとってきますね」

「じゃあボク、ビールにするよ。買ってある?」

「もっちろん! バーベキューにはビールが一番ですよね!」

 私は一緒に冷やしたグラスも持ってこようと、一目散に冷蔵庫へと駆け出していった。

 ◇ ◇

「炭火焼き風味の肉や野菜って、こんなに美味しかったんだね」

 最後の焼きナスが入った皿を抱えて、マロさんがデッキチェアに腰かけたままポツリと言った。

「マロさんがこんなに食べたのって、久しぶりですよね」

「ネィちゃんも同じくらい食べてたでしょ」

 聞こえないふりをして、私は口の中に残る肉のうまみを舌で反芻した。

 夜空には、流星群の登場を今か今かと待ちかまえるように、星々がまたたいている。

 リビングから差し込んでくるほのかな光を頼りに、私は缶ビールを二人のグラスに注いだ。二人揃って飲むのは今日が初めてなのに、何度も一緒に晩酌したことがあるみたいに、私たちの飲むペースは近かった。

「『インフル美円サー』になってから、ボク、なにかを味わって食べたことがなかったかもしれない」

 マロさんは「よッ」と言って、チェアから立ち上がった。

「そういえば、私もです。ずっと最後の決済のことばかり考えていた気がします」

「第一、焼き肉とか全然行ってなかったし」

「汗や油で肌がテカると、『美円』の判定に響きますもんね」

「ラーメンなんかさ、顔に汁が飛んだらどうしよう、なんて心配してね」

 あははと笑って流しながら、私はハッとした。

 そもそも「美円」制度が導入されたのは、人々の生活をより豊かにするためではなかったのか。

 旧日本円の時よりも支払い金額を割り引いて安くすることで、その分、人々の暮らしに潤いを与えるために導入された通貨制度だったはずだ。

 それが「目に見える数値」という特性ゆえに、学校の偏差値や営業の成績やゲームのスコアみたいに、それ自身が「その人の価値」になるという誤った認識が世間に広まってしまった。

 お金を使ってほしい物を買ったり、食べたいものを思う存分味わったりして、生きていることに幸せを感じる。

 そんな根本的な幸せから、私たちはすっかり遠ざかってしまっていたのだ。

 「自分の価値」が認められる喜びにハマったせいで。

 こうして「美円」という「化粧通貨」に取りつかれた人たちは、自分の心にもメイクを塗り重ねて、人生を思うままに楽しみたいという本音を押し隠してしまったのかもしれない。

 遅かれ早かれあのような事件は起こっていただろうと、今になって冷静に思えた。


「あ! 流星群じゃない? ほら!」

 マロさんがお箸で星をつまむみたいに、夜空をゆびさした。

「え? あー! 消えたー!」

 星の退場は早すぎて、願いごとを言いだす余裕さえなかった。

「次は絶対に逃しませんよ!」

「なにかお願いしたいことでもあるの?」

 マロさんが振り返って、箸を皿に置いた。

 焼きナスもいつの間にか姿を消している。

 鼻で息をすると、炭火焼きと夜の匂いが鼻の奥に広がった。

 マロさんと一緒に食べた、幸せの匂いだ。

 こんな風に、好きな人と自分のために、お金を使うことができる人生を送れたら。


「……みんなが幸せになれるようなお金が、見つかればいいのになって」

 闇に放った私の一言に、マロさんの白い顔が舟をこぐように揺れた。


「あ!」


 また流れ星がツツ―っと流れてきたと思ったら、それがこの手に流れてきたみたいに、マロさんの手がスッと目の前に伸びてきた。

「一緒に見ようよ、並んで」

 温かくて穏やかな声が、マロさんの手から私の手へと優しく伝わった。

 さっき見たパプリカの赤と黄色みたいに、私たちは棒立ちで夜空を観測し続けた。

(第9章へ)
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