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「いけません、ラーファ様。このような所で……」
そんな切羽詰まった女性の声を聞いてしまったのは、イズが白い結婚を受け入れようとした矢先のことだった。
夕食の準備をしようと離れの貯蔵庫に向かう途中、どこから声がし、イズは反射的に立ち止まった。
声の主は、イズのすぐ目の前にある建物の角を曲がった先にいるようだった。壁から顔を出して覗けば、何をしているのか見えるかもしれない。
イズはもたれかかるように背中を壁につけ、食材を入れようと持ってきた編み籠《かご》を胸に抱いた。耳に神経を集中させる。
「すまない。だが、イズに見られたかもしれないんだ。急がないと……」
男性の声が聞こえ、イズは編み籠を落としそうになった。
心地の良い低音は、まぎれもなくラーファのものだ。
(ラーファ様……?)
イズの視界がぐるぐると回る。吐き気がした。目蓋を閉じても、頭を揺らされているようだった。
「わかりました、ラーファ様。俺なら大丈夫です」
ラーファでも女性でもない声が聞こえてくる。もう一人誰かがいるようだ。
「元はといえば言い出したのは俺ですし。思う存分ためしてみてください」
(どういうこと?)
イズは頭を抱えたくなった。少なくとも、壁を曲がった先には、ラーファと、女性と、男性、の三人がいる。おそらく屋敷で働く侍女と従者だろう。
「すぐに済む。痛かったら無理をせず言ってくれ」
(どういうこと???)
意味深で断片的な情報に耐え切れなくなったイズは、壁からそっと顔を出す。
イズの瞳に映ったのは、わけのわからない光景だった。
従者のはだけた胸板を、ラーファの手がまさぐっている。
イズの手から編み籠が落ちた。決して大きくはない音だったが、ラーファたちの視線を集めるのには充分だった。
「……イズ!?」
ラーファに名前を呼ばれ、イズははっと我に返る。
次の瞬間、足が勝手に動いていた。一刻も早くこの場から離れようと、もつれながらも前に進む。
(ラーファ様が、ラーファ様は、侍女と……いえ、従者と、男の方《かた》と……?)
イズの頭の中で嫌な想像が駆け巡る。
何かの間違いであってほしい。そう願っても、先ほどの光景が邪魔をする。
イズは寝室に駆け込み、勢い良くベッドに倒れ込んだ。
(屋外であんな、男の方と、屋外で、屋外で……。ということはやはり、わたくしとの婚姻は世間体を保つためのもの?)
偽装結婚であると感付いてはいたものの、あんな形で突きつけられるとは思ってもみなかった。
「……ぅ」
イズはくしゃくしゃにゆがんだ顔を枕に押し付けた。声を上げて泣けば人が来てしまうかもしれない。みじめな姿を誰にも見られたくなかった。
(こんなにつらいと思うほど、わたくしは、いつの間にかラーファ様のことをお慕いしていたのね……)
イズは肩を震わせ、子供のように泣きじゃくりながらも、どこか冷静に自分の気持ちを顧《かえり》みる。
行き遅れの自分に舞い降りた幸運。犬耳と尻尾がかわいらしい旦那様。髪を撫で、唇を重ねた初めての人。
「イズ!」
鼓膜が痛くなるほど大きな音を立てて、寝室の扉が開け放たれた。
イズはのろのろと身体を起こし、乱れた髪を手で押さえる。
ずっとラーファがここに戻って来ることを待ち望んでいたが、今のイズは少しも嬉しくなかった。
「無礼を承知で申しあげます。エスト辺境伯ラーファ・ダルク・エスト様、どうかわたくしと……離縁、してください」
たかが貴族令嬢風情が、辺境伯である夫に離婚を切り出すなどありえないことだとわかっている。
「侍女だけでなく、従者とも……その、屋外でいかがわしいことをするなんて、あんまりです……!」
それでもイズには、言葉も涙も止められなかった。
すべてを飲み込み、偽装結婚を続けられるほど、イズは強《したた》かではなかった。
「誤解だ、イズ!」
ラーファは声を荒げ、イズの身体を強く抱きすくめた。
「やめてください! わたくしに触れるのもお嫌でしょう! あの夜も、書斎の時だって……」
イズは両手を突っ張って逃れようとするが、ラーファの身体はびくともしない。
「二十日近く放っておいたのは悪いと思っている」
「二十一日です」
「……とにかく、落ち度は私にある。だが弁解をさせてくれ」
ラーファは偽りのない真摯《しんし》な瞳でイズを見つめた。真剣さを裏付けるように犬耳もピンと立っている。
耳や尻尾に感情が出てしまうため、獣人は一様《いちよう》に嘘が下手だ。
「……はい」
イズは数秒迷った後、うなずいた。
「どこから話すのが一番良いのかわからないが――そうだな、書斎でのことも誤解だ。あれは、読んでいた本を見られたくなかっただけで……」
ラーファの巻き尾が急にばたばたとせわしなく動き出した。
「本、ですか。最近ずっと同じ本を熱心に見ていらっしゃるとは思っていましたが」
「……せ」
「せ」
「……性愛の手引書だ」
ラーファは自分の口元を手で覆い隠し、聞き取りづらい小声で告げた。
イズは首をかたむけ、まばたきをする。尋ねたいことは数多あるが、言葉が出てこなかった。
そんな切羽詰まった女性の声を聞いてしまったのは、イズが白い結婚を受け入れようとした矢先のことだった。
夕食の準備をしようと離れの貯蔵庫に向かう途中、どこから声がし、イズは反射的に立ち止まった。
声の主は、イズのすぐ目の前にある建物の角を曲がった先にいるようだった。壁から顔を出して覗けば、何をしているのか見えるかもしれない。
イズはもたれかかるように背中を壁につけ、食材を入れようと持ってきた編み籠《かご》を胸に抱いた。耳に神経を集中させる。
「すまない。だが、イズに見られたかもしれないんだ。急がないと……」
男性の声が聞こえ、イズは編み籠を落としそうになった。
心地の良い低音は、まぎれもなくラーファのものだ。
(ラーファ様……?)
イズの視界がぐるぐると回る。吐き気がした。目蓋を閉じても、頭を揺らされているようだった。
「わかりました、ラーファ様。俺なら大丈夫です」
ラーファでも女性でもない声が聞こえてくる。もう一人誰かがいるようだ。
「元はといえば言い出したのは俺ですし。思う存分ためしてみてください」
(どういうこと?)
イズは頭を抱えたくなった。少なくとも、壁を曲がった先には、ラーファと、女性と、男性、の三人がいる。おそらく屋敷で働く侍女と従者だろう。
「すぐに済む。痛かったら無理をせず言ってくれ」
(どういうこと???)
意味深で断片的な情報に耐え切れなくなったイズは、壁からそっと顔を出す。
イズの瞳に映ったのは、わけのわからない光景だった。
従者のはだけた胸板を、ラーファの手がまさぐっている。
イズの手から編み籠が落ちた。決して大きくはない音だったが、ラーファたちの視線を集めるのには充分だった。
「……イズ!?」
ラーファに名前を呼ばれ、イズははっと我に返る。
次の瞬間、足が勝手に動いていた。一刻も早くこの場から離れようと、もつれながらも前に進む。
(ラーファ様が、ラーファ様は、侍女と……いえ、従者と、男の方《かた》と……?)
イズの頭の中で嫌な想像が駆け巡る。
何かの間違いであってほしい。そう願っても、先ほどの光景が邪魔をする。
イズは寝室に駆け込み、勢い良くベッドに倒れ込んだ。
(屋外であんな、男の方と、屋外で、屋外で……。ということはやはり、わたくしとの婚姻は世間体を保つためのもの?)
偽装結婚であると感付いてはいたものの、あんな形で突きつけられるとは思ってもみなかった。
「……ぅ」
イズはくしゃくしゃにゆがんだ顔を枕に押し付けた。声を上げて泣けば人が来てしまうかもしれない。みじめな姿を誰にも見られたくなかった。
(こんなにつらいと思うほど、わたくしは、いつの間にかラーファ様のことをお慕いしていたのね……)
イズは肩を震わせ、子供のように泣きじゃくりながらも、どこか冷静に自分の気持ちを顧《かえり》みる。
行き遅れの自分に舞い降りた幸運。犬耳と尻尾がかわいらしい旦那様。髪を撫で、唇を重ねた初めての人。
「イズ!」
鼓膜が痛くなるほど大きな音を立てて、寝室の扉が開け放たれた。
イズはのろのろと身体を起こし、乱れた髪を手で押さえる。
ずっとラーファがここに戻って来ることを待ち望んでいたが、今のイズは少しも嬉しくなかった。
「無礼を承知で申しあげます。エスト辺境伯ラーファ・ダルク・エスト様、どうかわたくしと……離縁、してください」
たかが貴族令嬢風情が、辺境伯である夫に離婚を切り出すなどありえないことだとわかっている。
「侍女だけでなく、従者とも……その、屋外でいかがわしいことをするなんて、あんまりです……!」
それでもイズには、言葉も涙も止められなかった。
すべてを飲み込み、偽装結婚を続けられるほど、イズは強《したた》かではなかった。
「誤解だ、イズ!」
ラーファは声を荒げ、イズの身体を強く抱きすくめた。
「やめてください! わたくしに触れるのもお嫌でしょう! あの夜も、書斎の時だって……」
イズは両手を突っ張って逃れようとするが、ラーファの身体はびくともしない。
「二十日近く放っておいたのは悪いと思っている」
「二十一日です」
「……とにかく、落ち度は私にある。だが弁解をさせてくれ」
ラーファは偽りのない真摯《しんし》な瞳でイズを見つめた。真剣さを裏付けるように犬耳もピンと立っている。
耳や尻尾に感情が出てしまうため、獣人は一様《いちよう》に嘘が下手だ。
「……はい」
イズは数秒迷った後、うなずいた。
「どこから話すのが一番良いのかわからないが――そうだな、書斎でのことも誤解だ。あれは、読んでいた本を見られたくなかっただけで……」
ラーファの巻き尾が急にばたばたとせわしなく動き出した。
「本、ですか。最近ずっと同じ本を熱心に見ていらっしゃるとは思っていましたが」
「……せ」
「せ」
「……性愛の手引書だ」
ラーファは自分の口元を手で覆い隠し、聞き取りづらい小声で告げた。
イズは首をかたむけ、まばたきをする。尋ねたいことは数多あるが、言葉が出てこなかった。
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