毒の果実

夢 餡子

文字の大きさ
上 下
18 / 55
5

瑠美子の誘い

しおりを挟む
 会社には30分遅刻して到着した。
 席に着くなり、関口さんの嫌味ったらしい小言が耳に入ってくる。

「月曜から遅刻なんていい身分だこと。休日気分のままで会社に来られても周りが迷惑します」
「はい。すみません」
「パートだからって、あまり仕事を甘く見ないでください。気の緩みは大きなミスにも繋がりますからね」
「わかりました。気をつけます」

 短く返事しながら、パソコンを起動して仕事に取り掛かる。
 関口さんはそっけない私の態度が気に入らないのか睨んだまま、まだ何か言いたそうだったが、敢えて知らぬふりをした。
 気分は最悪だった。モニタに映し出された通常業務の社内文書であっても、目を通すのが面倒でイライラした。そんな私の様子を隣の席から瑠美子がちらちらと観察している。その視線も嫌だった。

 昼前に定例のパート面談で会議室に呼び出された。面談者は人事部の中年の男で、どこか冷めた目をしていた。
 仕事にモチベーションはありますか、人間関係に問題はありませんか、社内の情報を外部に漏らしたりしてませんよね。いつも聞かれるお決まりの質問に、作り出した笑顔で会社が求める理想の回答をすらすらと返した。そう、途中までは完璧だった。だが……。

「ところで。高橋さんは結婚されていますが、家庭に問題などございませんか?」

 予期しない唐突な問いかけに、そこで思わず言葉が詰まった。パート面談で家庭に踏み込んだ質問をされたことなど、これまで一度もなかったのに。

「仕事とは関係ない話で恐縮です。ですが最近、社員の間で家庭の事情によって出社しなくなる、もしくはできなくなるケースが多く発生しておりまして。パートさんであっても、急に出社されなくなると仕事が止まってしまうリスクを会社としては予防する必要があるのです。どうでしょうか、何か個人的な問題など抱えておられませんか?」
「全く問題など、ございません」

 もうひとりの私が、極めてにこやかに即答する。すると男は満足したように軽くうなずいた。「では、引き続きよろしくお願いします」その言葉で面談は終了だった。私は立ち上がって深々と頭を下げると、会議室から出る。面談は問題なかった。おそらく契約は更新されるだろう。

 時計を見たらちょうど12時を指していた。私は席に戻らず、そのまま食堂に向かうことにした。瑠美子と一緒に昼食を食べたくなかったからだ。それに、ひとりでじっくりと考える時間が欲しかった。
 食堂に入ってトレイに乗せたのは、おにぎりとミニサラダだけ。今朝のこともあり全く食欲がなかったが、なにか食べないと多忙を極める午後の仕事をこなす体力がもたない。
 多くの人でごった返すなか、空席を探してあたりを見渡していると、いきなり大声で名前を呼ばれた。

「優里、こっちこっち!」

 遠くの席にどっかと座った瑠美子が私を見ながら、両手をばたばたと大げさに振っている。どうやら瑠美子は昼前に職場をこっそり抜け出していたらしい。そうでないと、まるで椅子取りゲームのような食堂で、こんなに早く席を確保できるわけがない。
 とたんに憂鬱な気分となる。瑠美子が大声を上げたせいで、私は注目を浴びている。ここで無視をしようものなら、悪い噂になりかねない。『人間関係は良好ですか』さっきの面接官の男の目が鋭く光る。

 仕方なく私は瑠美子に歩み寄ると、向かいの席に腰掛けた。
 「優里が遅刻なんてめずらしいじゃない」「そうだね」「やっぱり旦那の浮気が原因? ついに現場を押さえて大げんかしたとか?」「そんなんじゃないよ」「あら、この唐揚げ、ジューシーでおいしい。こんなしけた食堂も捨てたもんじゃないね」「そう、よかった」いつものように絶え間なく話を続ける瑠美子に、私は淡々と答えた。早く食事を終えて、ひとりになりたい。その一心で。

「あのさ、優里」

 突然変わった低い瑠美子の口調に、ふと目を上げた。いつしか瑠美子はじっと私の顔を見つめている。その目からは感情が消え失せていた。我に返る。周囲のざわめきが、ふっと消え失せたような気がした。篠崎課長との不倫の件だろうか。また私を脅しにかかるのか。今はとてもそんな話なんてしたくない。ずっと酷い別の問題を抱えているというのに。

「そんな困った顔しないで。優里が想像してるような悪い話じゃないから」
「じゃあ、なに?」
「優里に相談があるの。と言っても篠崎さんとのことじゃないから安心して。それよりもっと重要な話。場合によっては、優里の人生を変えることすらあり得るかもね」
「それって、どんな話なの?」
「ここじゃとても話せない。会社が終わったら、駅近くにあるサファイアというカフェに来て。ネットで探せばわかるから」
「いや、でも……」
「わかったわね」

 いつしか瑠美子の強引さに、すっかり押されてしまっていた。とても瑠美子の話なんか聞く気分じゃない。だけど今や、瑠美子の言葉は『命令』として私の心をしっかりと掌握している。それはまるで悪い魔法のように。

しおりを挟む

処理中です...