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Sのカード
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◇
ビルの外に出ると豪雨だった。狂ったように吹き荒ぶ突風も相まって横殴りの雨だ。
生憎傘は持ってきていない。あんな酷い朝だったせいで天気予報を確認するのを忘れていた。仕方なく新宿駅へと続く地下通路の入口まで走る。ほんの数十メートルほどだったが、髪も服もびしょ濡れになった。全く最悪の一日だ。だが、まだ終わっていない。
10分かけて長い地下通路を抜け、無機質な番号で記された出口の階段を上がりながら次第に憂鬱な気持ちへと沈み込んでいった。
ネットで調べたところによると、瑠美子が指定したサファイアなるカフェは、この出口から裏通りを5分ほど歩いたところにあるらしい。会社帰りに瑠美子に会うのも気が乗らないし、こんな雨もうんざりだった。そう、もうなにもかも、うんざり。
外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。どうやら通り雨だったらしい。路面にできた大きな水溜まりに映る派手やかな広告電飾の虹色の明かりがゆらゆらと揺らめいている。その水溜りを蹴飛ばしながら大勢の人々が闊歩していた。
大通りから小さい路地に入って進むと、とたんに人通りは途絶える。ここが新宿だとは思えないような、ひっそりとした寂しげな薄暗い小道。突然、まるで違う世界に迷い込んだような不安な気持ちに取り憑かれる。
そのいかにも古ぼけた雑居ビルは、暮れゆく薄日の中でうっすらと佇んでいた。1階は中華料理屋だが営業している気配はなく真っ暗だ。入口を入って階段で地階へと降りると、その店は目の前にあった。小さく古めかしい木製の扉の前に「サファイア」という看板が置かれている。どこがカフェなんだ。どう見たって昭和の時代の古臭い喫茶店だ。こんな店、入ったこともない。
扉を開けて店に入ると、店内は意外にも広大だった。カウンターはなく四人掛けのボックス席が奥まで延々と並んでいる。テーブルは年季の入った木製で、緑色のファブリックの椅子は過去から現在に至るまで、まるで大勢の人々の影を飲み込んできたかのように黒ずんでいた。湿ったカビとタバコの臭いが混じったような、むっとした空気に思わず顔をしかめる。瑠美子はなぜ、こんな店を選んだろうと不思議に思う。客は数組の中年カップルしかいない。どのカップルも、声を潜めてなにやらひそひそと話していた。
入口に近い席に腰掛けた。音もなく黒い制服を着た若い男の店員が近寄ってくる。面長に一重のその顔立ちはとても整っていて、まるでホストのようだった。水の入ったコップを置きながら尋ねてくる。「ご注文はお決まりですか」「……では、アイスティーで」「承知いたしました」店員は踵を返し、長い通路を戻っていく。
それから30分待ったが、瑠美子は現れない。
頭に来た。自分から誘っておいて、こんなに待たせるなんて冗談じゃない。もしかして、最初から来る気なんかなかったのかも。こうやって騙して、瑠美子は人の時間さえも奪っていくんだ。
伝票を引っ掴んで席から立ち上がりレジに向かおうとすると、すばやく走り寄って来たさっきの店員が、私の行く手を遮った。
「お帰りになるのはお待ちください。立花様から、お引き止めするよう言われております」
「瑠美子から? あなた、私のことを知っているの?」
「はい。立花様は間もなくいらっしゃるかと」
仕方なく席に戻りながら、あの店員はどうして私が瑠美子の知り合いだとわかっていたのか不審に思う。
それから10分経って、ようやく瑠美子が店に姿を現した。ごめんごめん、遅くなっちゃった。悪びれる様子もなくそう言いつつ向かいの席に腰を下ろす。長時間待たされて苛立っていた私は、不満げに瑠美子を睨みつけた。
「それで、話ってなんですか」
「まあまあ、そう怒らないで。準備にちょっと時間がかかったのよ。これも優里のためにしたことだから」
「私のための準備って……?」
瑠美子はバッグから1枚の封筒を取り出すと、はいこれ、と言って私に手渡した。
なにがなんだかわからずに受け取ったが、そこには何も書かれていない。普通のまっさらな封筒だった。
「開けてみて」
言われるがままに封筒を開けると、カードが1枚入っていた。手に取って、それを観察してみる。
カードは表も裏もブラックで磁気ストライプもなければ何も書かれていない。ただの板のようだった。
ただ、表と思われるほうに、金色でデザインされた『S』のロゴがうっすらと入っていた。
「これは、なに?」そう聞くと瑠美子はテーブルに肩肘をついて、まるでいたずらっ子な少女のような笑みを浮かべる。
「不幸で惨めな優里に、幸せをもたらすカードなの」
さっぱり意味がわからなかった。それに瑠美子から不幸で惨めとか言われる筋合いもない。
長い時間待たされた挙句、こんな訳のわからないカードを突然渡される。その意図がわからず私は、むっとするとともに困惑していた。
「優里は、選ばれたんだよ。それは、とあるクラブの会員証」
「はあ?」
「いいこと。これから先の話は、絶対に口外しちゃ駄目だからね」
そう言うと、瑠美子はふだんとは全く違った、心を射抜くような鋭い目で私をじっと見つめた。それは瑠美子の空気なんかじゃない。まるで夏日から氷点下へとがらりと変わったような突然のその温度差に、思わず背筋がぞっとした。
ビルの外に出ると豪雨だった。狂ったように吹き荒ぶ突風も相まって横殴りの雨だ。
生憎傘は持ってきていない。あんな酷い朝だったせいで天気予報を確認するのを忘れていた。仕方なく新宿駅へと続く地下通路の入口まで走る。ほんの数十メートルほどだったが、髪も服もびしょ濡れになった。全く最悪の一日だ。だが、まだ終わっていない。
10分かけて長い地下通路を抜け、無機質な番号で記された出口の階段を上がりながら次第に憂鬱な気持ちへと沈み込んでいった。
ネットで調べたところによると、瑠美子が指定したサファイアなるカフェは、この出口から裏通りを5分ほど歩いたところにあるらしい。会社帰りに瑠美子に会うのも気が乗らないし、こんな雨もうんざりだった。そう、もうなにもかも、うんざり。
外に出ると、いつの間にか雨は上がっていた。どうやら通り雨だったらしい。路面にできた大きな水溜まりに映る派手やかな広告電飾の虹色の明かりがゆらゆらと揺らめいている。その水溜りを蹴飛ばしながら大勢の人々が闊歩していた。
大通りから小さい路地に入って進むと、とたんに人通りは途絶える。ここが新宿だとは思えないような、ひっそりとした寂しげな薄暗い小道。突然、まるで違う世界に迷い込んだような不安な気持ちに取り憑かれる。
そのいかにも古ぼけた雑居ビルは、暮れゆく薄日の中でうっすらと佇んでいた。1階は中華料理屋だが営業している気配はなく真っ暗だ。入口を入って階段で地階へと降りると、その店は目の前にあった。小さく古めかしい木製の扉の前に「サファイア」という看板が置かれている。どこがカフェなんだ。どう見たって昭和の時代の古臭い喫茶店だ。こんな店、入ったこともない。
扉を開けて店に入ると、店内は意外にも広大だった。カウンターはなく四人掛けのボックス席が奥まで延々と並んでいる。テーブルは年季の入った木製で、緑色のファブリックの椅子は過去から現在に至るまで、まるで大勢の人々の影を飲み込んできたかのように黒ずんでいた。湿ったカビとタバコの臭いが混じったような、むっとした空気に思わず顔をしかめる。瑠美子はなぜ、こんな店を選んだろうと不思議に思う。客は数組の中年カップルしかいない。どのカップルも、声を潜めてなにやらひそひそと話していた。
入口に近い席に腰掛けた。音もなく黒い制服を着た若い男の店員が近寄ってくる。面長に一重のその顔立ちはとても整っていて、まるでホストのようだった。水の入ったコップを置きながら尋ねてくる。「ご注文はお決まりですか」「……では、アイスティーで」「承知いたしました」店員は踵を返し、長い通路を戻っていく。
それから30分待ったが、瑠美子は現れない。
頭に来た。自分から誘っておいて、こんなに待たせるなんて冗談じゃない。もしかして、最初から来る気なんかなかったのかも。こうやって騙して、瑠美子は人の時間さえも奪っていくんだ。
伝票を引っ掴んで席から立ち上がりレジに向かおうとすると、すばやく走り寄って来たさっきの店員が、私の行く手を遮った。
「お帰りになるのはお待ちください。立花様から、お引き止めするよう言われております」
「瑠美子から? あなた、私のことを知っているの?」
「はい。立花様は間もなくいらっしゃるかと」
仕方なく席に戻りながら、あの店員はどうして私が瑠美子の知り合いだとわかっていたのか不審に思う。
それから10分経って、ようやく瑠美子が店に姿を現した。ごめんごめん、遅くなっちゃった。悪びれる様子もなくそう言いつつ向かいの席に腰を下ろす。長時間待たされて苛立っていた私は、不満げに瑠美子を睨みつけた。
「それで、話ってなんですか」
「まあまあ、そう怒らないで。準備にちょっと時間がかかったのよ。これも優里のためにしたことだから」
「私のための準備って……?」
瑠美子はバッグから1枚の封筒を取り出すと、はいこれ、と言って私に手渡した。
なにがなんだかわからずに受け取ったが、そこには何も書かれていない。普通のまっさらな封筒だった。
「開けてみて」
言われるがままに封筒を開けると、カードが1枚入っていた。手に取って、それを観察してみる。
カードは表も裏もブラックで磁気ストライプもなければ何も書かれていない。ただの板のようだった。
ただ、表と思われるほうに、金色でデザインされた『S』のロゴがうっすらと入っていた。
「これは、なに?」そう聞くと瑠美子はテーブルに肩肘をついて、まるでいたずらっ子な少女のような笑みを浮かべる。
「不幸で惨めな優里に、幸せをもたらすカードなの」
さっぱり意味がわからなかった。それに瑠美子から不幸で惨めとか言われる筋合いもない。
長い時間待たされた挙句、こんな訳のわからないカードを突然渡される。その意図がわからず私は、むっとするとともに困惑していた。
「優里は、選ばれたんだよ。それは、とあるクラブの会員証」
「はあ?」
「いいこと。これから先の話は、絶対に口外しちゃ駄目だからね」
そう言うと、瑠美子はふだんとは全く違った、心を射抜くような鋭い目で私をじっと見つめた。それは瑠美子の空気なんかじゃない。まるで夏日から氷点下へとがらりと変わったような突然のその温度差に、思わず背筋がぞっとした。
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