毒の果実

夢 餡子

文字の大きさ
上 下
29 / 55
8

心の変化

しおりを挟む
 さざ波は嵐の前兆だった。

 やがて海は荒れ狂う。水面は幾重にもうねりが重なり、それは巨大な波となって砂浜へと叩きつけた。
 それはなにもかも、すべて壊してしまうような巨大な力で。
 どこまで逃げても、波はその勢いを増しながら私を飲み込んでしまおうと牙をむく。幾度となく波にさらわれ、激しい水流でからだをもみくちゃにされた。息ができなくて苦しい。からだが引き裂かれてしまいそうに痛い。ただただ、それに耐えるだけーー

 そうして何時間経っただろう。ふと気づくと、真っ白な砂浜に倒れていた。
 海は凪となりすっかり穏やかで、あれほど私を苦しめた大波はすっかり消え去っている。嵐は去った。柔らかな太陽の光がそっと辺りを照らし、海は優しくきらきらと輝いていた。

 ……それは、昨日の夜から今朝にかけての私の心に起きたこと。



 テーブルに置かれたランチに手もつけず、瑠美子は私の顔をしげしげと見つめていた。

「なに? 私の顔になんかついてる?」
「優里。あんたヤリました、って顔をしてるよ」

 瑠美子は大勢の人がいる食堂であっけらかんとそう言い放つ。私は慌ててあたりを見渡し、瑠美子を牽制するように睨んで声を潜めた。言い方にもほどってものがある。

「そ、そんな顔してないってば」
「オンナはね。ヤッた翌日は下唇が少しだけ ゆるむの」
「嘘。聞いたことがないよ」
「私みたいに人間観察を極めちゃうとさあ、すぐにわかるんだよね。さて、誰とヤッたのかな? 浮気してる旦那が相手とは考えにくいし。とすれば、まさか……」

 はっとしたように、わざとらしく目をまん丸にして開けた口に手を当てる。そんな見えすいた演技にイラッとしながらも、心の中を見通されている気持ちがして落ち着かなかった。

「ついに、『電話』したんだね」
「してません」
「で、どんな相手だった? セックスは気持ちよかった?」
「だから、してないってば。もうやめてよ、瑠美子」

 少し強い口調で抗議つもりだったが、瑠美子は動じることなく、にやにやしながらふうんと何度も頷く。全てわかってるますよと言わんばかりに。

「なんかさあ。優里、昨日と全然違う。別人みたい」
「別人って、どういう風に? ふだんと変わらないけど」
「そうねえ。前はおどおどしたチワワだったのが、今じゃすっかり吹っ切れて、堂々としたハスキー犬みたい。私に対しても、なーんか反抗的だし」
「そんなの、瑠美子の気のせい」
「ほら、その突っぱねたような言い方。どうして急に、こんな悪い子になっちゃったんでしょうねえ。瑠美子、悲しいわあ」

 瑠美子と話をするのが面倒になっていた。どんなに詮索されようが、昨夜エムと会ったことは絶対に言わない。

 夫の行為への怒りが爆発して感情の歯止めが効かなくなり、あと先考えず衝動的にクラブに電話してエムと寝てしまった。それは所謂 いわゆる、ゆきずりの関係だ。話には聞くが、まさか自分がそんなことをするなんて思ってもいなかった。
 だけど、終わってみたら……なぜか後悔はしなかった。だけどそれから心は大きく揺れ動いた。悲しさと苦しさで昨夜はほとんど寝れなかったが、朝を迎えると嘘のように落ち着いていた。そんな自分を愛おしくさえ思える。最低なことをしてしまっても、人の心は失っていなかったんだなって。だからこそ、もう二度とクラブには電話しない。

 昨日のことは過ちだ。でもその過ちのおかげで、結果的に心に安定をもたらした。サーカスの綱渡りで、綱から危うく落ちそうになりながらも、棒でうまくバランスを取って体勢を持ち直したように。でも、もうバランスを取る必要はない。演技は終わり、拍手喝采の只中にいる。もう、全ては終わったことなんだ。

 瑠美子はランチを食べながら せわしなく辺りをきょろきょろと見渡し、あっ見なよ、あそこのケバそうな若いオンナさあ、昨日、めちゃくちゃ何度もヤッたに違いないよ。だって下唇がすっごく弛みまくってるもん、などと相変わらず下品な言葉を振り撒いていた。
 これからも瑠美子は、ずっと変わらないんだろう。だけど、私はきっと変わっていく。

 昼食が終わり食堂を出ると、私は瑠美子と別れてビルの地下にあるコンビニに向かった。
 確か今日は、ドリンクコーナーに紅茶の新製品が並んでいるはず。それを飲むのが楽しみだった。

 下りのエスカレーターに乗っていると、スマホが鳴った。
 取り出して画面を見ると非通知だ。なぜか嫌な予感がした。迷ったが、私はスマホを耳に当てた。

しおりを挟む

処理中です...