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アリス
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◇
行為の余韻がまだ残っている。
乱れたシーツのベッドの上で、私はひとり動けずにいた。
ぼんやりとした頭で、夫のことを考えていた。新居の玄関先で、夫の愛情を感じたあの暑い夏の日のことを。
小さなかけらとなって今にも消えてしまいそうだった夫へ想いが、なぜかこんなときになってほんの微かに輝いている。これが最後だと言わんばかりに。
それに反して理性の女神が、だって夫は不倫した挙句に失踪して、その上寝ている間に私を襲った酷い男じゃない、ときっぱり言い放つ。
これが私が望んだ復讐なんだろうか。知らない男と不倫をしたことに後悔はしていなかったが、満足感もない。
そこにあるのはただ、虚しさだった。
ふと、部屋の大きな窓からほのかに赤い光が差し込んでいることに気がついた。
その光に誘われるように、私は疲れ切ったからだを起こし、バスローブを羽織ってベッドから立ち上がった。
その光の正体は、東京タワーだった。
夜空に煌々と輝きを放つ東京タワーが、すぐ間近にそびえ立っている。この部屋に来た時は、景色を眺める余裕なんてなかったから気づかなかったが、それはとても美しく感じた。どこか遠くの世界へ来てしまったような心細さが、この景色を見て現実なんだとほっとする。
「おい、アリス」
呼ばれて振り返ると、男がハダカのまま立っていた。
「なんでしょうか、エムさん」
「覚えておけ。怒りはなにも生み出さないということを。そればかりか、大事なものを無くしていく」
「どうして私が、怒りを持っていると思うんですか?」
「ふん、私を甘く見るな。最初にドアをコンコンと叩く音で、そのくらいわかっておったわ」
エムはそう言うと、黒い封筒を私に差し出した。
それが何なのかはすぐにわかった。瑠美子が言っていた『保証金』だ。
私はそれを受け取る。保証金だと思えば、不思議と罪悪感は感じなかった。呼び方によってそういった心理に向かわせるところも、クラブの巧妙な罠かもしれないが。
「もうこれで、会うこともないだろう。だから最後に頼みがある」
「なんでしょうか?」
「これからクラブでは、アリスと名乗ってくれ。せっかく俺が名付けてやったんだ」
「でも……これで最後かもしれません」
そう言うと、エムは私を見つめたまま頭を傾げ、それはどうかな、と呟いた。
「もう、これっきりにしようと思ってます。こんなことを続けてたら……」
「今日ですっかり満足したのか、アリス」
「そ、それは……わかりません」
「俺はこうしろとは言わん。アリスが行きたいところに行けばいい。チェシャ猫もそう言っておる」
それっきりエムは興味をすっかり失ったかのように、ハダカのまま窓際のソファに腰掛けて夜景を眺めた。二度と言葉を発することもなかった。
なんだか居づらくなってシャワーも浴びずに服を着ると、そのまま部屋を出た。いつしか頭のなかは真っ白で、考えることも苦痛だった。早く家に帰りたい。ただそれだけの気持ちしか残されていない。
だけど私は今夜、初めて会う男と寝た。それだけは事実だ。
エレベーターの中で黒い封筒を開けてみた。
中には、新札で10万円が入っていた。
行為の余韻がまだ残っている。
乱れたシーツのベッドの上で、私はひとり動けずにいた。
ぼんやりとした頭で、夫のことを考えていた。新居の玄関先で、夫の愛情を感じたあの暑い夏の日のことを。
小さなかけらとなって今にも消えてしまいそうだった夫へ想いが、なぜかこんなときになってほんの微かに輝いている。これが最後だと言わんばかりに。
それに反して理性の女神が、だって夫は不倫した挙句に失踪して、その上寝ている間に私を襲った酷い男じゃない、ときっぱり言い放つ。
これが私が望んだ復讐なんだろうか。知らない男と不倫をしたことに後悔はしていなかったが、満足感もない。
そこにあるのはただ、虚しさだった。
ふと、部屋の大きな窓からほのかに赤い光が差し込んでいることに気がついた。
その光に誘われるように、私は疲れ切ったからだを起こし、バスローブを羽織ってベッドから立ち上がった。
その光の正体は、東京タワーだった。
夜空に煌々と輝きを放つ東京タワーが、すぐ間近にそびえ立っている。この部屋に来た時は、景色を眺める余裕なんてなかったから気づかなかったが、それはとても美しく感じた。どこか遠くの世界へ来てしまったような心細さが、この景色を見て現実なんだとほっとする。
「おい、アリス」
呼ばれて振り返ると、男がハダカのまま立っていた。
「なんでしょうか、エムさん」
「覚えておけ。怒りはなにも生み出さないということを。そればかりか、大事なものを無くしていく」
「どうして私が、怒りを持っていると思うんですか?」
「ふん、私を甘く見るな。最初にドアをコンコンと叩く音で、そのくらいわかっておったわ」
エムはそう言うと、黒い封筒を私に差し出した。
それが何なのかはすぐにわかった。瑠美子が言っていた『保証金』だ。
私はそれを受け取る。保証金だと思えば、不思議と罪悪感は感じなかった。呼び方によってそういった心理に向かわせるところも、クラブの巧妙な罠かもしれないが。
「もうこれで、会うこともないだろう。だから最後に頼みがある」
「なんでしょうか?」
「これからクラブでは、アリスと名乗ってくれ。せっかく俺が名付けてやったんだ」
「でも……これで最後かもしれません」
そう言うと、エムは私を見つめたまま頭を傾げ、それはどうかな、と呟いた。
「もう、これっきりにしようと思ってます。こんなことを続けてたら……」
「今日ですっかり満足したのか、アリス」
「そ、それは……わかりません」
「俺はこうしろとは言わん。アリスが行きたいところに行けばいい。チェシャ猫もそう言っておる」
それっきりエムは興味をすっかり失ったかのように、ハダカのまま窓際のソファに腰掛けて夜景を眺めた。二度と言葉を発することもなかった。
なんだか居づらくなってシャワーも浴びずに服を着ると、そのまま部屋を出た。いつしか頭のなかは真っ白で、考えることも苦痛だった。早く家に帰りたい。ただそれだけの気持ちしか残されていない。
だけど私は今夜、初めて会う男と寝た。それだけは事実だ。
エレベーターの中で黒い封筒を開けてみた。
中には、新札で10万円が入っていた。
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