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第1章

クロエの憧れ

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「お嬢様、悩み事ですか?」


『ううん……でも、シリウス様何故ですか?』


「剣に迷いが見えます。」


 若き剣士、公爵家騎士団長シリウス・ウィンストンは騒動を聞いたのだろう。街でも噂になっているらしい。「神殿の水晶が割れた」「聖女が現れた」とあの後神殿に人が押し寄せたらしい。聖女云々は、スキル【神の加護】のせいだろう。神殿のプライバシーはガバガバだった。
 来週から早速クロエは魔法についての勉強をすることになった。エドガーが専門の家庭教師を呼ぶと言っていた。魔法が使えるのは楽しみだったが、複数属性持ちは暴走や暴発が起こると聞いて気が重かった。前世で死を経験しているからか。
 

 シリウスはクロエに片膝を折ると手を差し出す。シリウスのする騎士の誓いは優美で凛々しい。クロエの心臓が速度を上げて、息をするのを忘れてしまいそうなほどに。


「お嬢様、本日は森へ行きませんか?獣が出ても必ずお守りいたします。」


『森!行きたいっ!あ……し、失礼しました』


 森は一人では入れてもらえない。嬉しくてついつい素が出てしまった。クロエは幼くとも公爵令嬢。咳払いをし、シリウスの手を取った。


「馬を連れて参ります。」


 シリウスはクロエに一礼すると、副団長メフィスと一言二言話して馬小屋へと向かった。


「姉上、何処に行くのですか?」


『散歩よ。』


 行きたそうな顔をするメイソンには悪いが、森は特別だ。特にまだ小さなメイソンでは恐ろしくて耐えられないと思う。


『メイソンがもっと大きくなったら行こうね。』


「はーい……」


 メイソンに見送られ、クロエとシリウスを乗せた馬は屋敷の裏手にある森へと向かった。シリウスは昔からクロエが悲しそうな顔をしているとこうして散歩に誘ってくれた。


「良い天気ですね。」


『はい。あっ!うさぎがいますよ!』


 うさぎ指差してシリウスを振り返ったクロエはシリウスとの距離の近さに硬直する。無邪気なクロエにシリウスはクスッと微笑した。前世が男の澄人でもシリウスの美貌に緊張した。エドガーもそうだが、綺麗すぎると緊張させられる。この屋敷の人間は誰も彼も目鼻立ちが良く美しい顔をしている者が多い。


『シリウス様の属性はなんですか?』


「自分は雷と闇です。」


『複数属性持ちなのですね。』


「はい。訓練すれば複数属性は暴走や暴発することはありません。」


 咄嗟に全く関係ない話を振った。
 クロエがシリウスに緊張するのはそれだけではなかった。なんと言ってもクロエの初恋はシリウス。8年間の前世の記憶を忘れていた普通のクロエは優しいシリウスに帰ってこない父の愛を求めた。それはいつの日からか憧れに変わり、初恋になった。
 俺にもクロエの気持ちが分かる。俺の初恋は幼稚園の先生だったから。素行の悪い不良とて、初恋の頃は純粋だった。いつから荒れたっけ?


「お嬢様なら、乗り越えられます。」


『シリウス様……』

 
 シリウスにはクロエの不安が分かっていたらしい。声音に励ましが混じっている。これが気遣いできるモテ男か。


『シリウスはいつ結婚するのですか?』


 クロエの胸がチクリと痛むのを俺は知らないフリをした。クロエというより、俺の不安は魔法のことではない。


「自分はまだ若輩者ですので。」


 シリウスはのほほんっとした顔でそう言い放つ。心からの言葉なのだろう。これはつまり、クロエも眼中にない。残念、クロエ。俺からしたら、8歳のクロエを成人しているシリウスが女として見ていたら「ロリコン」と罵ってしまいそうだった。良かった。シリウスはロリコンではない。


『シリウス様は今年で何歳ですか?』


「20になります。」


 一回り違うじゃん。てかまだ未成年だったの!?いや、この世界だと18歳は大人。女の結婚適齢期は16歳~18歳。クロエが16歳になる頃にはシリウス28歳だぞ。


「お嬢様?」


『結婚したくないな……』


 クロエは女だが、前世の男としての年数が多い俺には遠い世界の話の気がする。でも公爵令嬢だもんな。いつかは嫁がなければ……。澄人年数よりクロエ年数が増えれば考えは変わるのだろうか。想像つかない。
 俺の不安は、先日エドガーたちが話していたクロエの婚約やらなんやらだった。クロエのこの容姿は社交の場に出たら絶対モテる。……ああ、ヒロインにはなりたくない。俺はまだ対策が何も出来ていない。


「お嬢様はまだ婚約相手もいらっしゃらかったはずでは……?」


『いずれは何処の家に嫁がなければならないのでしょう?』


「そんなことはありませんよ。旦那様はお嬢様を溺愛されておりますので。それに、今は嫌でも社交の場や学園で素敵な方と出会うでしょう。その時にはきっとお気持ちも変わりますよ。」


『私、ここにいる人たちが好きよ。離れたくないな。』


 辿り着いたのは小高い丘の上。ここからの眺めがクロエは好きだった。領地が一望できるから。


「お嬢様がそれを望まれるのであれば、叶いますよ。」


 クロエは胸の前で手を握り、祈りのポーズをした。


─────どうか、ヒロインになりませんように。それから、そろそろクロエの良い子ちゃんキャラも飽きてきたからどうにかしたい。


 これは前世で死んだ俺のやり直しチャンスなんだ。多くは望まない。好きなことをして、のんびりと長生きする。それだけでいい。ヒロインなんてドラマチックな人生はいらない。


 クロエは今世の澄人であるが、前世の記憶がなかったクロエはただのクロエだった。この数ヶ月、“クロエ”と“澄人”はとても不完全で不安定だった。それがクロエの中で、徐々に澄人の存在が混ざり始めた予兆を、この時の俺はぼんやりと感じ始めていた。







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