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遊郭じゃ、始末屋一流客五流

逃した魚はあまりに大きく。そして始末屋八徳は二度死ぬ。

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「かぁぁぁっ! とんでもねぇ事しでかした自覚があるっ!」

 あの時、あともう少しで鈴蘭に押し流されそうになったところ、コリンが駆け込んできたことには正直救われた感も強い。

「鈴蘭との一席を蹴っちまった!」

 しかし、話を聞いて、妓楼を飛び出したなら飛び出したで、物凄い不安が、八徳の胸に去来した。

「新進気鋭。旦那衆が泣いて欲しがる《月下の華》の、格子格だぞ!?」

 コリンが伝えてきた内容は、実に興味深いものがあった。とはいえ、それを理由にして鈴蘭の場を後にしたという事実。八徳に牽制をかけ、行動にまで移してくれた鈴蘭から、逃げたことと同義。
 即座にあの場を飛び出したところに、深層心理では逃げ出したいという気持ちがあったことが現れてしまったと言っても良かった。

「さすが格子格で、人気もあるから誇りもたけぇや! そ、ん、な、鈴蘭から逃げちまってアイツの面子を潰した! ま、まて。コレ‥‥‥マズいんじゃないか!? 今すぐ戻って謝れば、まだ許してくれる可能性も‥‥‥」

 フッと、脳裏に浮かんだ。あからさまに不機嫌な顔をした鈴蘭。想像の中の彼女は一言も声をかけず、八徳に視線すら寄こさない。
 あくまでそれは、次に会った時に鈴蘭が見せうるかもしれない、八徳の中の想像。

「そうだっ! 菓子折りでも持って行ってだな‥‥‥だめだっ! 格子格といやぁ客は富裕層ばかり。俺如きの手土産じゃあ、アイツの目にゃあ軽く映って‥‥‥いやいやいや! だが今の客は俺だけって……」

 《後悔後に絶たず》とは、まさにこのこと。

 冷や汗が止まらなくなった。
 頭によぎった、次に会う時に彼女が見せるかもしれない想像図。とんでもない。もっと酷いかもしれない。例えば同じ部屋にいながらにして、彼女はずっと八徳に背を向け続けたとしたら。
 いや、そもそも、もう次はないかもしれない。見世に顔を出しても、「会いたくない」と、鈴蘭が拒絶したとしたなら……

「折角の上玉っ! 四の五の言わず、抱いとくんだったぁぁぁぁぁっ!」

 すべての不徳は八徳にあった。さすがにそこまで来ると、呉服屋旦那も取りなしは効かないだろう。
 行き着く想像の果て、鈴蘭との関係の破綻。それが簡単に予測が出来たから、思わず頭を抱えて地面にしゃがみ込んだ八徳は、思いの丈を張り叫んだ。

『おい、なんだあれ』
『知らんよ。大方酒に飲まれて潰れた間に財布でもスられたんだろうさ』

 その様相、あまりに惨めなり。
 道の往来で見せる八徳の姿に、すれ違いの者たちは好き放題言っていた。

「……さて、終わったことは仕方ねぇ。妓楼出ちまった以上どうにもならねぇな。行くか? ”俺”の死体の所に」

 ひとしきり項垂れてから、立ち上がった。
 カオナシではない。今、この港崎遊郭の往来に立つ八徳は、頭巾を剥いでいた。

 一つ、この港崎であまりに有名になってしまった”カオナシ”では、行動がしにくいこと。
 二つ、その‥‥‥カオナシの死体を、これから見に行くため。

 先の鈴蘭の話を思い返すと、カオナシとしての八徳は有名。
 しかし、たった今すれ違いから馬鹿にされた様に、鈴蘭との席を放り出し、見世を出て暗がりに身を隠し、頭巾を剥いだのち明るみに顔を出したなら、誰も八徳がカオナシだとは思わなかった。 
 
「ハッハハ、始末屋八徳は奉行所に処刑され、カオナシは、この港崎で殺されるかよ。そしたらもう、俺は二度死んだ計算になるんだが。何べん死ぬつもりなんだ俺は‥‥‥ヒィッ!?」

 全てがすべて、全部己の身に起きた話なら、確かに八徳は2度死んでいるはずだった。これを自嘲気味に笑ったところで、ふと、目を向けた先の光景に、短い悲鳴を上げてしまった。

『オイ、見ろよアレ』
『鈴蘭じゃねぇか』

 当然だ。八徳の目に映っているのは、先ほどいた見世の上階出窓から、少しだけ身を乗り出した鈴蘭が、いつもの氷の表情そのまま、遠くを見ていたからだった。

『いやぁ、あの別嬪さ、たまんないねぇ!』

 同じ道を行きかう通行人たちも、気付いたようで、その場に立ち止まり、ポカンとした顔で鈴蘭の横顔に見とれていた。

(コイツァ‥‥‥)

 八徳も、唾と息を飲みこんだ。
 通りから上階を見上げると。横顔の覗ける鈴蘭の背景に、お月様が鎮座していた。
 冷たくも穏やかな月光は、白い鈴蘭の肌を、うす暗い青に染め上げ、ただでさえ美人である彼女に、そこはかとない、静けさを孕んだ美しさを差入れたようだった。

(なるほど、鈴蘭の華は大人しく、自己主張が強くない。却って、柔らかな月明りを、己が美しさとして無理なく取り込ませ、持ちうる魅力を一層光らせる。まさに《月下の華》。その由縁、初めて見た)

「……あ゛‥‥‥」

 瞬間で、凍り付いた。
 遠くを見ていた横顔の鈴蘭が、男どもの視線に気づき、八徳はじめ立ちつくした男たちを見やったからだ。
 吹雪を思わせる、冷たい眼差しが降りてきた。そしてすぐ、フイっと彼女は部屋の中に姿を消していった。

『おい! 見たか! あの鈴蘭が俺に目配せしたのを』
『このオタンコナス! 鈴蘭が見つめたのはこの俺だっての。いやぁ、俺ってば罪な男じゃねぇか!』
『何を言ってやがる! オイラだっての! あぁ、鈴蘭は待っているんだよぉ。格子格の高根の花に、オイラが近づくその日をば』
『稼ぎのない貧乏庶民が良く言うね!? まぁ、アタシもなんだが』

 誰が視線を受けたのか。彼女が姿を消して以降、男達は沸き立った。

「……俺じゃない。俺じゃないよな。俺じゃない」

 ただ一人だけを除いて。

「ち、違うさ。男たちからの視線が集まったからこっちを見ただけで、鈴蘭は俺がカオナシなことに気付いていない。気付いていないよな? 気づいていないはず」

 ガクガクブルブルと、八徳は体を震わせていた。
 そして……

「だぁぁぁぁっ! やっぱあの時抱いてりゃよかったぁぁぁぁぁ!!!」
『『『『はぁ?』』』』

 突然大声を張り上げ、両手で頭を抱えて天を仰いでのけぞった。勿論そんな八徳に、周囲の男たちは奇妙な眼差しを送っていた。
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