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祝言。重なる面影、二人目の妻。
馴染み不覚悟
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(……悪くない情報だ。鈴蘭のやつ、本当、よくやってくれている)
宴の支度で鈴蘭が中座している間、彼女の部屋に一人残された八徳。
彼女の客である外国人居留地の上の立場の男からの情報が、筆記にて記された用紙を、にらみつけていた。
(生糸、穀物に茶、蚕卵紙。異国の所要は大きく、地方商と近く商談予定……と。ていうか、本当に金持ちだなこの異国の廻船問屋ってのも。俺なんか比にならんほどの頻度でここに遊びに来てるのかよ)
鈴蘭が、「安心しなんし」と言ったのは気休めではなかった。真に有益な情報が記されていた。
「こりゃ、どっちの側にも有益だ。呉服屋の助兵衛旦那にもヴァルピリー……」
読み込んでいけば読み込んでいくほど、その情報の使い道、使い時というのが頭に浮かんだ。
(すっごい情報と、すっげぇくだらねぇ情報もあるが。っていうか、振れ幅でかすぎて、同じやつが発した内容に思えないんだが)
が、自ら口にし、耳にし、頭に刻み込む過程で、外国人居留地のかつての雇用主の顔が浮かんだことで、払拭した。
「あー、もぅっ!」
だが、払拭できたことも、完全にいいこと……とまでは言えなかった。
情報に向き合い没頭した時には考えなくて済んだことが、こうして一旦空っぽにした頭を、一気に占めた。
「なんの皮肉か冗談だ? 祝言(結婚)? 鈴蘭と?」
最近客の入りが悪い鈴蘭に、妓楼への貢献、高い売上げをつけさせようとして宴を開いたのは別にいい。
そこで発生する高額な費用が、呉服屋に付くことだって、いま、手元に広がっているエゲレス語で書かれた情報の数数を翻訳し、呉服屋に伝えることで、十分賄えるはず。
しかしこの宴、祝言(結婚式)という性格で開催される趣であると、鈴蘭から受け取ったから、頭は痛くなった。
「おいおい八徳。いよいよ俺ぇ。本格的に忘八になってきてんぞ?」
花魁のしきたりから考えれば、今回の宴をもって祝言となることも、元遊郭始末屋の八得なら理解はできた。
三度目の花魁との時間の共有。これを、遊郭では《馴染み》といった。
一度目の《初回》。花魁は、ツレない態度を初対面の客にとる。言葉をかわすこともしなければ、視線を向けることもない。人形のように無表情でその場に佇み、出された酒にも料理にも手を付けない。
二度目、《裏》。男たちにとって厳しすぎる《初回》を通してなお、《裏》という催しが存在するのは、そんな凛として、ツンとお高くとまった美女を、何が何でも自分のものにせんと、男たちが息巻く結果。
やっとこのとき、少しだけ言葉を交わしてくれる。感情を、視線を、花魁たちは男達に向ける。
忘れてはならない。この《初回》も、《裏》においても、男たちは莫大な代金を払う……だけじゃない。会うたびに、好みの花魁に、ご祝儀を持参した。
さて、あくまでそれは遊女一般格の《散茶女郎》の場合の話。
《格子》格、それが鈴蘭の遊女としての格。
吉原なら最上級《大夫》格に続く上位格。しかしここ横浜において。永真でも、港崎遊郭でも、《格子》格というのは、最上格に位置した。
なら、先に言及した代金や、ご祝儀額はさらに一段も二段も跳ね上がる。
さらに人気花魁ということもあって、客を振るような気難しさもあった。
そういった、金もかかって、苦労も掛けて、そうして何とかして自分のものにしたいというのが《格子》格の花魁であるはずなのに……
(《馴染み》かよ……正真正銘。俺が、鈴蘭と? それだけはあっちゃなんねぇだろうが)
《初回(お見合い)》と《裏(お食事会)》を通り、客と花魁二人の関係はついに三回目、《馴染み(夫婦)》に至る。
となれば、《馴染み》回の一席は、祝言(結婚式)扱いとなるのが遊郭の慣習だった。
八徳だって、これに至る経緯がわからないわけじゃない。それゆえ、今、店側に着付けてもらった花婿衣装を纏いながら、頭を悩ませていた。
前回、この妓楼に来た時から既に、鈴蘭はカオナシの夜妻を自称していた。それは、呉服屋の命があったから。
だが、こうして3度目の出会いに至ってしまった。
しきたりから考えると、今度こそ、そういった忖度はなく。正式にこの遊郭で、夫婦の関係になる。
(遊郭の伝統と慣例に則り、この遊郭では夫婦になる……か? どの口が吠えやがる。今読んでいる手元の情報だって、鈴蘭が情報を得るために異国人と肌を重ねた結果だぞ。俺と、呉服屋のため。どこの世界に、己が仕事の為、嫁に身体を売らせる夫がいるよ)
きっと、普通に遊女と馴染みになる客の男なら、こんなことは思わない。
特にこの町で遊びなれている者なら、いかにお気に入りの花魁と馴染みの関係になったとて、花魁自身が生活のため、別の男と馴染みの関係になっていることは予測できているはずだった。
しかし……「自分のために、他の客とねんごろな関係になれ」というのは、カオナシくらいしかいなかった。
「カオナシ様、失礼いたします」
その時だった。自己嫌悪にすら陥っていた八徳に声をかけてきた者。取り残された部屋の外から聞こえてきたのは、先ほど、始末屋の八咫と別れた後に声をかけてきた、初老の男のものだった。
「祝言の支度、すべて整いましてございます」
(……あぁ、この口上……)
かけられたセリフを認めて、思わず八徳の中では、思い返されるものがあった。
何度も、かつて自分が身を置いていた遊郭で耳にしてきた、聞きなれたセリフ。
《馴染みの儀》を控え、祝言たる宴が始まるとき、妓楼の者が、毎度客の男にかけていたセリフ。
お約束の口上だから、一言一句、八徳の記憶にあるものと相違なかった。
そのセリフを、ある客は神妙な表情で聞いていた。
ある客は、うれしそうな笑顔で受け止めていた。
そうして、その口上が終わったとき、客の前に、化粧を直し、装いも新たにした一層華やかな、これから更なる懇意となるであろう花魁が、姿を現した。
よく、見送ってきた儀式だから、その記憶は強く残っていた。
永真遊郭で、八徳が世話になった、様々な花魁たちの《馴染み》の儀式。何度見てきたかわからなかった。
特に、印象に残っている馴染みの儀は三種類。
一つ。
幼い頃の八徳を、特に可愛がってくれた、のちにエゲレス語を話せるまでになった切っ掛けを八特に与えた。かつて彼が「姉さん」と呼んだ、とある花魁の威風堂々とした嫁入り姿の鮮烈さ。
二つ。
その妹分、紅蝶。一人前の花魁になったのち、彼女は、選んだ男たちとの馴染みの儀に際し、師匠でもあった「姉さん女郎」譲りの風格をまとっていた。しかと、八徳が憧れた「姉さん女郎」の流儀を受け継いでいた。
《馴染み》の日の花魁。可憐でありながら、女の心の強さを体現した佇まい。
そう、八徳の記憶に、それは深く刻まれていた。
「カオナシ様、お待たせしんしたなぁ」
「あ……」
「カオナシ様?」
「あ、ああ。すまないな。少し、圧倒されすぎて言葉を失った」
「その第一声、合格でありんす。カオナシ様はあまり、わっちのことを自分のオンナとして、見てくださりんせんから」
いつの間にか思い出に浸っていた八徳。声に、我を取り戻した。呼びかけたのは鈴蘭の声。
彼女は、打ちのめされたような八徳の感想に、満足そうに笑みを浮かべた。
確かに鈴蘭は見とれるほどに、圧倒的に、美しかった。しかし……
鈴蘭の出で立ち。纏う、夜妻になるための花嫁衣装を目に、八徳の脳裏に思い起こったもの。
お円の首代として、奉行所に出頭する前日、最期の一夜に、幼馴染の紅蝶が、八徳のために用意してくれたあの姿。
八徳にとって、印象に残っているなじみの儀式は三種類ある。
そして、これが三つめ。
「これで正真正銘、主様とわっちは夫婦でありんす。今度はちゃんと、わっちのことを、愛すべき妻として、恋人としてみてくりゃれ?」
「あ、うん。そうだ……な」
八徳は、祝言のために一層己を華やかした鈴蘭を通し、彼女のその後ろに、紅蝶を見た気がした。
宴の支度で鈴蘭が中座している間、彼女の部屋に一人残された八徳。
彼女の客である外国人居留地の上の立場の男からの情報が、筆記にて記された用紙を、にらみつけていた。
(生糸、穀物に茶、蚕卵紙。異国の所要は大きく、地方商と近く商談予定……と。ていうか、本当に金持ちだなこの異国の廻船問屋ってのも。俺なんか比にならんほどの頻度でここに遊びに来てるのかよ)
鈴蘭が、「安心しなんし」と言ったのは気休めではなかった。真に有益な情報が記されていた。
「こりゃ、どっちの側にも有益だ。呉服屋の助兵衛旦那にもヴァルピリー……」
読み込んでいけば読み込んでいくほど、その情報の使い道、使い時というのが頭に浮かんだ。
(すっごい情報と、すっげぇくだらねぇ情報もあるが。っていうか、振れ幅でかすぎて、同じやつが発した内容に思えないんだが)
が、自ら口にし、耳にし、頭に刻み込む過程で、外国人居留地のかつての雇用主の顔が浮かんだことで、払拭した。
「あー、もぅっ!」
だが、払拭できたことも、完全にいいこと……とまでは言えなかった。
情報に向き合い没頭した時には考えなくて済んだことが、こうして一旦空っぽにした頭を、一気に占めた。
「なんの皮肉か冗談だ? 祝言(結婚)? 鈴蘭と?」
最近客の入りが悪い鈴蘭に、妓楼への貢献、高い売上げをつけさせようとして宴を開いたのは別にいい。
そこで発生する高額な費用が、呉服屋に付くことだって、いま、手元に広がっているエゲレス語で書かれた情報の数数を翻訳し、呉服屋に伝えることで、十分賄えるはず。
しかしこの宴、祝言(結婚式)という性格で開催される趣であると、鈴蘭から受け取ったから、頭は痛くなった。
「おいおい八徳。いよいよ俺ぇ。本格的に忘八になってきてんぞ?」
花魁のしきたりから考えれば、今回の宴をもって祝言となることも、元遊郭始末屋の八得なら理解はできた。
三度目の花魁との時間の共有。これを、遊郭では《馴染み》といった。
一度目の《初回》。花魁は、ツレない態度を初対面の客にとる。言葉をかわすこともしなければ、視線を向けることもない。人形のように無表情でその場に佇み、出された酒にも料理にも手を付けない。
二度目、《裏》。男たちにとって厳しすぎる《初回》を通してなお、《裏》という催しが存在するのは、そんな凛として、ツンとお高くとまった美女を、何が何でも自分のものにせんと、男たちが息巻く結果。
やっとこのとき、少しだけ言葉を交わしてくれる。感情を、視線を、花魁たちは男達に向ける。
忘れてはならない。この《初回》も、《裏》においても、男たちは莫大な代金を払う……だけじゃない。会うたびに、好みの花魁に、ご祝儀を持参した。
さて、あくまでそれは遊女一般格の《散茶女郎》の場合の話。
《格子》格、それが鈴蘭の遊女としての格。
吉原なら最上級《大夫》格に続く上位格。しかしここ横浜において。永真でも、港崎遊郭でも、《格子》格というのは、最上格に位置した。
なら、先に言及した代金や、ご祝儀額はさらに一段も二段も跳ね上がる。
さらに人気花魁ということもあって、客を振るような気難しさもあった。
そういった、金もかかって、苦労も掛けて、そうして何とかして自分のものにしたいというのが《格子》格の花魁であるはずなのに……
(《馴染み》かよ……正真正銘。俺が、鈴蘭と? それだけはあっちゃなんねぇだろうが)
《初回(お見合い)》と《裏(お食事会)》を通り、客と花魁二人の関係はついに三回目、《馴染み(夫婦)》に至る。
となれば、《馴染み》回の一席は、祝言(結婚式)扱いとなるのが遊郭の慣習だった。
八徳だって、これに至る経緯がわからないわけじゃない。それゆえ、今、店側に着付けてもらった花婿衣装を纏いながら、頭を悩ませていた。
前回、この妓楼に来た時から既に、鈴蘭はカオナシの夜妻を自称していた。それは、呉服屋の命があったから。
だが、こうして3度目の出会いに至ってしまった。
しきたりから考えると、今度こそ、そういった忖度はなく。正式にこの遊郭で、夫婦の関係になる。
(遊郭の伝統と慣例に則り、この遊郭では夫婦になる……か? どの口が吠えやがる。今読んでいる手元の情報だって、鈴蘭が情報を得るために異国人と肌を重ねた結果だぞ。俺と、呉服屋のため。どこの世界に、己が仕事の為、嫁に身体を売らせる夫がいるよ)
きっと、普通に遊女と馴染みになる客の男なら、こんなことは思わない。
特にこの町で遊びなれている者なら、いかにお気に入りの花魁と馴染みの関係になったとて、花魁自身が生活のため、別の男と馴染みの関係になっていることは予測できているはずだった。
しかし……「自分のために、他の客とねんごろな関係になれ」というのは、カオナシくらいしかいなかった。
「カオナシ様、失礼いたします」
その時だった。自己嫌悪にすら陥っていた八徳に声をかけてきた者。取り残された部屋の外から聞こえてきたのは、先ほど、始末屋の八咫と別れた後に声をかけてきた、初老の男のものだった。
「祝言の支度、すべて整いましてございます」
(……あぁ、この口上……)
かけられたセリフを認めて、思わず八徳の中では、思い返されるものがあった。
何度も、かつて自分が身を置いていた遊郭で耳にしてきた、聞きなれたセリフ。
《馴染みの儀》を控え、祝言たる宴が始まるとき、妓楼の者が、毎度客の男にかけていたセリフ。
お約束の口上だから、一言一句、八徳の記憶にあるものと相違なかった。
そのセリフを、ある客は神妙な表情で聞いていた。
ある客は、うれしそうな笑顔で受け止めていた。
そうして、その口上が終わったとき、客の前に、化粧を直し、装いも新たにした一層華やかな、これから更なる懇意となるであろう花魁が、姿を現した。
よく、見送ってきた儀式だから、その記憶は強く残っていた。
永真遊郭で、八徳が世話になった、様々な花魁たちの《馴染み》の儀式。何度見てきたかわからなかった。
特に、印象に残っている馴染みの儀は三種類。
一つ。
幼い頃の八徳を、特に可愛がってくれた、のちにエゲレス語を話せるまでになった切っ掛けを八特に与えた。かつて彼が「姉さん」と呼んだ、とある花魁の威風堂々とした嫁入り姿の鮮烈さ。
二つ。
その妹分、紅蝶。一人前の花魁になったのち、彼女は、選んだ男たちとの馴染みの儀に際し、師匠でもあった「姉さん女郎」譲りの風格をまとっていた。しかと、八徳が憧れた「姉さん女郎」の流儀を受け継いでいた。
《馴染み》の日の花魁。可憐でありながら、女の心の強さを体現した佇まい。
そう、八徳の記憶に、それは深く刻まれていた。
「カオナシ様、お待たせしんしたなぁ」
「あ……」
「カオナシ様?」
「あ、ああ。すまないな。少し、圧倒されすぎて言葉を失った」
「その第一声、合格でありんす。カオナシ様はあまり、わっちのことを自分のオンナとして、見てくださりんせんから」
いつの間にか思い出に浸っていた八徳。声に、我を取り戻した。呼びかけたのは鈴蘭の声。
彼女は、打ちのめされたような八徳の感想に、満足そうに笑みを浮かべた。
確かに鈴蘭は見とれるほどに、圧倒的に、美しかった。しかし……
鈴蘭の出で立ち。纏う、夜妻になるための花嫁衣装を目に、八徳の脳裏に思い起こったもの。
お円の首代として、奉行所に出頭する前日、最期の一夜に、幼馴染の紅蝶が、八徳のために用意してくれたあの姿。
八徳にとって、印象に残っているなじみの儀式は三種類ある。
そして、これが三つめ。
「これで正真正銘、主様とわっちは夫婦でありんす。今度はちゃんと、わっちのことを、愛すべき妻として、恋人としてみてくりゃれ?」
「あ、うん。そうだ……な」
八徳は、祝言のために一層己を華やかした鈴蘭を通し、彼女のその後ろに、紅蝶を見た気がした。
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