第1章 いずれ呑舟之魚となるために

東郷春幸

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第9話

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「兄貴、兄貴、起きなよ大丈夫?」

僕は揺さぶっても一向に起きない兄貴を、仕方無いから自室に引っ張ってきた。兄貴の部屋は、率直に言ってゴミ屋敷だからあんまり入りたくない。何か常時汗臭いすえた臭いがするし、間違い無くゴキブリとかいる。隣室なんだから勘弁してほしい。
失礼だから言わないが、兄貴の部屋を僕は真夏の回収日のゴミ捨て場と内心呼んでいる。弟は、半世紀前の野戦病院と。

「あーにーきー頼むよ、こっちは眠いし疲れてるんだよ、勘弁してくれよ」

僕は兄貴の肩を再び強く揺さぶるが、兄貴は痙攣一つ起こさない。一応、ダッフルコートのトッグルを外して、スベスベした防弾チョッキの上から胸に耳を当ててみたけど、ちゃんと心臓は丑三つ刻でも臆すこと無く動いていた。
団長は誤って人を殺したりなんかしない。中将の地位に就いても何千人と直々に手を下してきたから、そういうコツを隅の隅まで心得ているのだ。
さっきも、その気になれば僕を気絶させることくらい赤子の手を捻るより容易く出来たが、僕を猛省させることが目的だったのでやらなかっただけだ。
いくら不死身になったからと言って団長と殺し合うことになった場合、僕は果たしてあの人に勝てるだろうか?  心技体全てが戦闘の為に研鑽され尽くした闘争の傑物に。
手傷は負わせられるだろうが、多分勝てないだろう。
戦闘時においてのモチベーションの違いもあるだろけど、あの人は僕にとって蛇だ。さっきも言ったけど、僕はあの人に逆らえないように開発されてしまっている。幾ら自分を奮い立たせても途中で萎縮してしまうだろう。
あの人のおかげで僕は強くなれたけど、僕は所詮あの人の護衛、もっと言うなら腰巾着だ。あの人が命令することは何でもやった。
東に蜂起した農村があれば、行って火炎放射器で焼き払い、西に逃亡兵が潜伏しているという情報を得たら、行って射殺してやり、南の酒屋で一升瓶とピーナッツを買ってこいと言われたら10分で購入してやり、北に一張羅を預けたクリーニング屋があると言われたら、すぐさま走って受け取りに行った。
多分、服を脱げと言われたら脱いだし、やらせろと言われるたらその通りに抱かれただろう。団長は男色家では無いからそんなことを言われたことは無いのだけど。
だが、僕は別にあの人の寝首を掻いてやろうしているわけじゃない。あの人は身内以外で僕を掛け値無しに信頼し、必要としてくれる数少ない人だし、公衆の面前でも僕を部下では無く息子同然と扱ってくれるし、それに身寄りの無い僕を助けて、死ぬほど怖かったが兵士として教育してくれた恩もある。
必要とされたい信頼されたい、そんな僕の欲求という水瓶をあの人が満たしてくれるのなら、僕はあの人に終始付き従う所存だ。
だけど、いつか団長が僕を見限ったり、僕の全てを受け入れて心底愛してくれる女性などが現れた(僕の容姿なら現れないはずが無い、さっきの通り僕の片思いならいる)場合、果たして僕はあの人と袂を別つ勇気があるだろうか?  昨日の敵は今日の友というが、古今東西その逆もまた然り、なのだ。
でも、見知らぬ第三者に期待されるのは嫌だ。期待というのは勝手に良い結果予想しておきながら、一度それを裏切られただけで簡単に手の平を返し、軽視や侮蔑に変わるからだ。
僕のことを何も知らない無知な馬の骨に見下されるなんて、想像しただけで虫酸が走る。
ぐ、むっ......ようやく兄貴は衣摺れのような呻き声を口から零し、目をゆっくりと開け目尻にシワをよせて僕を見た。

「ちくしょー......だからああいう口より先に手を出すヤツは苦手なんだよ、くそっ頭痛がする...」

兄貴は手のひらで額をピシャピシャと叩き、両目の間をつねって深々とため息を吐いた。何だか疲れ切って落魄した青年実業家みたいだな。僕は心の中でそう思いながら水差しの冷水をコップに注いで兄貴に差し出した。

「ありがとよ」

兄貴は食事中のような金属音を体から発しながら立ちあがり、うまそうに水を飲んだけど、兄貴は半分くらい飲んでから苦い顔で口を離した。
上目遣いで僕を兄貴を見上げる。

「冷たすぎた?」

「いや、カルキ臭いのと鉄とカビの臭いがする。ここの水は間違い無く発ガン性があるな。何だか廃工場の備品を煮詰めて濾したみたいだよ」

次から煮沸する、と僕は小さく返事を返す。兄貴は数回腕を回すと部屋の脇にある腰ほどの高さの本棚に近付き、分厚い一冊を手に取り、ページをパラパラとめくった。

「お前、重力の虹なんて読むのか。俺ですら何を伝えたいのかほとんど分からなかった本だぞ。中学中退のお前なんかじゃ......いや、悪い」

「いいよ、確かにテーマが愚鈍な僕には全く捉えられなかった」

兄貴は自分が口を滑らせたことに気付き、即座に謝罪した。恥ずかしい話、僕は14歳の時に住んでた街を爆撃されて以来学業に専念したことが一度もない。つまり、兄貴の言う通り中学校を中退したも同然だ。
川の流れに身を委ねる水草のように僕は何も行動を起こさずに運命のままに従っていたら、いつしか軍隊に入って今は過激派、もとい暴力団の構成員だ。
別に僕の得た力の前では学力など些末な事なのだけれど、それでもカタギの衆では武力よりそっちの方が優先されるというのを認識する度、僕は自分が誰も知らない大陸からやってきたような感じがして、堪らなく腹正しくなる。
自分で言うと格好付けてるみたいだけど、僕の逆鱗は学歴に対しての事柄全般だ。世のインテリやらなんやらが、どうでもいい君主論や資本論やら哲学を諳んじながら肩で風を切って歩き、その後ろを大勢の人間がそいつらにあやかろうと平身低頭して、金魚の糞のようについていくのを見るのは全くもって、火炎瓶を投げ付けてやりたいね。
血を分けた肉親という補正がある兄貴ですら、自分の横でさりげなく俺は国立を出てるとか深海のような雑学を披露しているのは、あんまり良い気持ちがしない。
今も少し頭に血が上ったけど、自分の部屋では僕は怒れないから抑え込んだ。
兄貴が背中から僕に抱きつき、頭を撫でる。兄貴は昔から僕をこうやって懐柔したり、機嫌を損ねた僕と仲直りしようとする。

「そう卑屈になるなって、いずれこんな乱痴気騒ぎが終わったら俺と一緒にデカい暴力団でも創設しようぜ。俺だったら法律の穴は心得てる。合法的に色々悪い事できるからな。お前は俺の右腕になって一緒に奢侈の限りを尽くそうぜ」

「兄貴はもう一般社会への復帰は諦めてるんだね。一度は軍の特権階級に手を伸ばしていたのに切り替えが早くて羨ましいよ」

「ま、俺の座右の銘は損して得取れだからな。こうなったら開き直って正常な世界すら牛耳る裏社会のドンになったらぁよ。それに今は悪魔が笑う時代だからな」

僕の座右の銘は他力本願と明日は明日の風が吹く。

「それに...ここも軍部もやることは大して変わりは無い。せいぜい遅いめの朝飯と早いめの昼飯くらいの違いさね。名称を変更しただけでジャンルは変わらんのさ、じゃあな」

そう言うと、兄貴は手をひらひらと振りながら部屋から出ていった。兄貴の言いたいことは以心伝心で分かった。要するに軍では無用の長物だった自分の知識を使ってみたくてたまらないようだった。新しい銃を手に入れた僕が、試射せずにはいられないように。
僕はトイレに入り、煙草を一本吸った。煙草の焦げた匂いを嗅ぐだけで僕はいつでも細やかな幸福感を得られて、自分を楽観的に見れるのだ。
兄貴は先を見据えていて、将来の目的を僕に打ち明けた。兄貴は聡明でミスをしても早い段階で軌道を修正できるからついて行くのも別に悪くは無いけど、それで良いのだろうか?
僕には僕の目的は無いのか?  何というか野心に満ちた壮大な目標が僕には存在しない。子どもの頃の夢は覚えているけど、既に潰えた夢だ。
目的が無いのが目的、目的が無いのは既に目的を叶えた証拠。なんて馬鹿みたいなことを言いたいわけじゃない。
目先の欲望なんかではない、僕が生涯を捧げるべきどでかい野望は無いのか?  誰のためでも無い我が人生の終着点は。

「......」

何だか嫌気がさしてきた。僕は洗面所で顔を洗うと、さっさとパジャマに着替えてしまった。口の中で舌を動かすと、顔を洗った際に入った水の味がした。
本当にゴミみたいな味だ。僕は戸棚から食べられないように隠しているマシュマロの袋から2粒取り出して、舐めて飲み込む。
そして、ベッドに入った。何だか怖いから僕は電気を消さない主義だ。
傍観的な静寂の音に耳を傾けながら、僕は思う。
僕は今、間違いなく自分の僅かな才能を空費している。欲望の赴くままに生きる勇気は無いけど、そうしてみたいという自分もいる。
だったらやはり、いずれは兄貴に付き従い黒社会の中で息を吸うことが正しいのだろうか?  
僕の才能は暴力と顔だけだ。力こそが正義と僕は団長から教わった。暴力は財力、武力、権力あらゆる力の祖先であると。兄貴が知力を生かしたいように、僕はそれを生かしたい。
だが、人として生まれたのだから万雷の拍手喝采も欲しい。わがままだ。どうしよう。精神的向上心の無いものは何とやらだが、僕は正にそれなのだ。
いや、あるか。人の為の目的なら一応僕もあった。
僕はそれに気づくと、途端に安心して化石のように眠ってしまった。

彼らは今、地上を易々と見下ろす雲海を越えた遥か上空にいる。
飛行基地マインカンプ。玲瓏残党部隊唯一にして最大の根城。ブラウンカラーの迷彩色に塗装され、農村一つ分ほどの全長と要塞と言っても過言では無いほどの高さと、大量の機銃がチェスの駒のように美しい等間隔を開けて上下左右に並べられている。
機体先端には、兵器廠にそびえ立つ煙突を凌駕する太さと長さを備えた、冗談じみた馬鹿馬鹿しい主砲が深淵をこちらに覗かせている。
暴力団に過ぎない彼らが、世を臆面も無くのさばることが出来るのはこの居丈高な戦艦と、指揮官である十重二十重の修羅場を切り抜け、無数の功績を残した稀代の奸雄、クランストロ・サルディニアの威光が大きい。
彼らは一体何を目指しているのか。それは語るに一つだけ、復讐である。
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