第1章 いずれ呑舟之魚となるために

東郷春幸

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第10話

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焙煎されたコーヒー豆を挽く音と、香ばしく芳香が、木造の店内に静かに浸透する。
僕が座るカウンター席の横には、吸い殻がピラミッド状にうず高く積まれた灰皿が置かれていて、それがずらりと並んでこの店のインテリアの一部となっていた。
僕は吸い終わった僕のものを、そびえ立つ吸い殻のピラミッドの頂へ神妙な顔つきで突き刺した。こうして吸い殻のツリーは形成されて行くのだ。

「そんなに指先を強張らせなくても、そう簡単にそれは崩れませんよ」

僕の前にいる彼女はコーヒーをカップに注ぎ、腕の関節まである長く綺麗な金色の髪を邪魔にならないよう耳にかけながら、露ほども邪気の無い湿っぽい声で、僕だけに聞こえるようにそっと囁いた。そもそも客がいないのだけれど。

「本当に煙草がお好きなんですね、そのコートもすっかり煙草の匂いが染み付いてますし」

「うん、15歳に時に人から勧められて以来やめられないんだよ」

僕は、いつも以上にトーンを高くした保育園児のような作り声で返事を返す。彼女の前だけだ。こんな甘ったるいギトギトした声で喋るのは。

「不良ですねぇ。せっかく美人さんなんですから、柑橘系の香水でも付けて歩いたら良いのに。モンパルナスさん、煙草の匂いの他に、あなたって色々火薬臭かったり、ピーマンみたいな青臭い匂いがするから、魅力に傷がついてるんですよね」

彼女がコーヒーをことりと僕の前に置く。
モンパルナスというのは僕が普段外で使っている偽名だ。とある小説に登場する残虐で気取り屋の美少年が、自虐的に客観視した僕に似ていたので少し気に入って使っている。
ガラスの壁を挟んだカウンター席にコーヒーを置くにはどうしても身を乗り出して前屈みにならなければいけないので、彼女が着込んでいるベージュのセーターから豊満な胸の谷間が一瞬だけ見えて、小っ恥ずかしくなった僕は目を背けた。
僕は出されたその熱いコーヒーを目をつぶって啜るが、挽いていた時のあの芳しい香りは何処に消え失せたのか、とても痩せた味のコーヒーだった。コーヒーを下品な泥水と言う輩が稀にいるけど、これはそう言われても仕方ない。
よく見るとコーヒー自体の色も薄く、火事の鎮火に使用した水みたいな色をしている。丁度、ここから見える奥の厨房にある調理器具を全部寸胴鍋に入れて煮詰めたら、こんな色になるんじゃないか?  僕は思った。

「まずいでしょう」

膝や腿の部分の布地が破れ、素肌を露わにしているのが特長である最近流行りのダメージジーンズを履いた彼女は、僕のいるカウンター席の方にやってきて、空になった角砂糖の小瓶に人工甘味料であるサッカリンの角砂糖を僕の隣の椅子に座って詰めながら、僕に微笑み問い掛けた。

「コーヒー豆やら砂糖やら紅茶葉やらジャムやら煙草やらお酒やら何やら、嗜好品は全て貴族や軍部に優先して回されますからね。こんな寂れた......風前の灯火を持った背水の陣の喫茶店が扱えるコーヒー豆の量なんて悲しいもんですよ。それに値段が高いから、いよいよ誰も注文しない」

メニューのプレートを掴んだ彼女は、腰に巻いているエプロンの裾で油汚れを拭いながら僕に不満をぶつけた。

「僕は濃い味より薄味の方が好きだよ。砂糖とかで自由に味を調節できるからね」

彼女は目を擦りながら嘆息した。僕は彼女が置いたメニューを見る。コーヒーは確かに一杯2000サラ(この世界に置ける通貨)と、信じられない値上がりを遂げていた。

「客もモンパルナスさん以外には1日に10人も来たら良い方です。店長にはそろそろサラ金に手を出してもらわないと、私タダ働きをしなければならなくなっちゃう」 

「店長が買い出しに行ってるからって好き放題言うね」

僕に向かってちろりと桃色のつやつやした舌を出して笑った彼女は、買ったばかりの子猫のようで壮絶な程に可愛らしかった。
昨日兄貴に向かって言った、僕が片思いをしている子というのは彼女だ。
この細長く続く商店街の片隅に忘れ去られたように橋には苔が生え、どこかジメジメと湿っぽい匂いがする店。
入り口のドアの上にある古びて赤茶けた看板のみが、未だ細々と営業していることを街行く人に告げている喫茶店でアルバイトしているこの子が、僕が執心しつつある人だった。
まず最初に容姿が素晴らしい。水面に写る陽の光を練り込んだような長く綺麗な金髪と、セーターから突き出るのは劣情を煽る立派な胸部。処女雪の如き純白さを称えながらも健康的な肌。
全体的に細くも柔らかそうな体型と扇情的な腰回りには、赤面するのもやむを得ない。蠱惑的という単語の申し子のような、いや彼女のために蠱惑的という単語は生まれたと言っていいくらいいじらしい子だ。それでいて純朴なところもいい。
それに気立てもいい。偽名だけど僕の名前もしっかり覚えてくれていつもそれで呼んでくれるし、世は戦争の爪痕が深く残っているというのに、普通ハタチの健康体の若者が真昼間から喫茶店に入り浸るなんて目くじらを立てそうなもんだけど、この子はそんなこともなく明るく僕をもてなしてくれる。

「そろそろ紅茶のみの営業に切り替えるんじゃないですかねぇ。ちゃんと私、紅茶も淹れられますから、来てくださいね」

「......うん」

一度など、雪が降った時に僕に傘を貸してくれたことさえある。それは骨が何本も折れていて使えなかったけど。だが、そういう少しネジが一本抜けたところすら魅惑的だ。
天真爛漫でありながら礼節も弁えており、差別や侮蔑もしない。おまけにジョークも面白い。
それに明らかに僕より年下でありながら、高校か大学に行かずに働いているのもいい。僕と同じで学歴が無いのも高評価、ニジュウマルだ。
今、こんなに近くにいて、周りには誰もいない。窓際のレースのカーテンも閉まっている。

「本当に綺麗な顔してますよね。それでノーメイクなんだからもう反則ですよ」

彼女が無防備に僕の近くに寄って来る度に僕は彼女の腕を掴み寄せ、無性に抱きしめたくなる。それはもう、柔な腰をへし折るくらいの強さで。
いっそ付き合ってくれって告白してみようかな?  今彼女が言ったように、僕ほど恵まれた容姿で、尚且つ毎回大金を落とす太客を無下に振るようなことはしないはずだ。
だが、万が一断られたら僕はもう恥ずかしくてこの店に二度と近づけないだろう。
僕だって例外という言葉は知っている。メロンや子猫を嫌いな人がいるように、僕の顔をオカマ臭いと言って嫌う連中も世界に数百人くらいはいるだろう。
現に僕は小学生の頃にそう言われていじめられた。

「モンパルナスさん?  ボーっとしないでくださいよ」

その時、僕ははっと我に返って目の前のコーヒーを全部飲み干した。まただ、僕は昔から自分の世界に入りやすい悪癖があるのだ。作戦行動中のあの緊張状態から来る反動だと僕は思っている。 
そうだ。僕は彼女にだけは必ず成功する形で無いと愛を打ち明けることなどできない。勝てる自信はあるけど、チップを全賭けする勇気は流石に無い。
腰の拳銃を口に咥えさせ、無理矢理了承を得るやり方なら確実であるが、そんな兄貴か強姦魔みたいなやり方で勝ち取った愛など紛い物より汚らわしい。
彼女なら僕は一生大切にする。手も上げないし、皿も洗って洗濯物も代わりに干す。
だけど、僕は彼女のことを何も知らない。僕は彼女の名前すら知らない。名札をつけていない彼女に名前を聞くことは、何か深行ったことを聞くようで気が引けるんだ。
他にも住む家も知らないし家族構成も知らない。好きな食べ物を始めとして彼女の趣味嗜好も知らないからデートで喜ばせても上げられない。
それにこんな可愛い子なんだ。もしかしたらもう彼氏がいるかもしれない。こんな純真な子が、夜は頬を紅潮させ、唾液を垂らしながら獣欲を貪っている......それは...それで興奮するな。
それに、彼女もまた僕のことを何も知らないんだ。
言ってみようか?  今ならこの老舗と言えば立派なうらびれた喫茶店、聞く者は誰もいない。僕の正体はアンドレイ・アリーフ。過激派玲瓏残党部隊の幹部ですってな。
お互い無知な関係だが、彼女にだけは嫌われたくない。親しく接してくれている彼女がある日突然僕に牙を剥くことだってあるんだ。恐慌状態の彼女が、僕を痛罵してコップや椅子を投げつけてくることもあるかも分からない。
そもそも、彼女が僕の本当を知りたいという確約は存在しない。僕のことを「華やかな容姿の常連」というだけの認識で、それ以上でもそれ以下でもない可能性も否めない。
僕は何だか凍土に佇んでいるような寂しく辛い気分になった。何で僕は邪推しか出来ないのか。何で虐殺面に立っていない時の僕は、こんなにも軟弱なのか。まるで中学生の頃の自分と変わらない。
もっと強さが欲しい。横のものを縦にもしない強大な力が。金なんかよりももっともっと強さと愛が欲しい。
今は機会を伺えアンドレイ・アリーフよ。大局を見て冷静かつ悠然と行動するのだ。耐え難きを耐えて初めて勝利はやって来る。
と、自分を鼓舞したところで何も変わらないのが悩ましく、もどかしい。せめて手くらい握ってみたい...。うなじとかどんな匂いがするのかな...。というか、あっちから来てくれるのが1番楽だ。僕の座右の銘は他力本願だ。僕はそう、肉に塩を揉み込むような感じで自分に強く言い聞かせる。
僕はそんなことを思いながら、彼女とは目を合わせずに彼女が僕に語りかける取り止めのない雑談に適当に相槌を打った。
両耳にいつのまにか地下壕でも作られたのかと思えるほど、全く耳に入らなかった。
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