原初の魔女

緑茶 縁

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第一朝、違和感

1日目 02

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 ここで、僕が着替えすら満足にできないタイプのニートだった、などのオチは決してないと明言する。断じて違う。
 僕は学校にこそ行っていないが、ある程度の労働はしている。一介の高校生にもできる労働……すなわちバイトである。僕は、日々家事とバイトをこなしているのだ。
 ちゃんと家に貢献している。
 ではなぜ、部屋で着替えるという行為に疑問を持ったのか。答えは簡単。
 僕達の家、、、、では、服を仕舞う場所が別のところにあったからだ。服はベッドの下に設置されていたタンスに詰めてあるのを発見。つまり、ここは自宅じゃない。
 そう結論づけるのと同時に思い出す。
 僕達は今、拉致監禁されているのだった。現在進行形で。あまりにも現実味がないけれど──夢か何かだったのかと勘違いしてしまいそうなものだけれど、それは間違いなく現実なのだった。服の位置、窓の外、姉さんの態度、全てが物語っている。
 なぜ、覚えていなかったのだろうか。こんなにも重要なことを。不思議だ。
「……まあ、自分のことなんだけど」
 自分のことは、一番解らない。
 いつから解らなくなったんだっけ。思い出せない。
 それはもう昔からだった。
「凪沙、着替えた?」ドアの向こうからくぐもった声が。姉さんだ。
 その問いに時計を見れば、姉さんが出ていってから五分も経過している。部屋を無駄に観察しすぎたみたいだ。因みに、服が入った箱と、洗面所やトイレの追加以外は僕の部屋と変わりはなかった。
 パーカーのチャックを上げて、僕はドアを開ける。
「着替えたよ、姉さん。おはよう」
「うん、おはよう」
「…おはようございますわ。凪沙さん」
 幼女も居た。金髪の幼女だ。僕の記憶が正しければ、昨日僕の隣に座っていた。それだけだったはずだ。
「……僕の名前、知ってるんだな」
「私が教えたんだよ」姉さんが間に入った。「そんなに敵意を剥き出しにしないの」
「なんで教えたんだ?」
「そりゃあ、教えて欲しいって言われたからだよ。ねっ」
 姉さんの視線を追うと、幼女はあからさまにそっぽを向いた。牡丹色のリボンが揺れる。
「そうでもなさそうだぞ」
「……急に話を振っちゃったからびっくりしたんだよ、きっと」
 そうかなあ……。
「凪沙がずっと仏頂面だからいけないんじゃない」
「冤罪だ」
「ほら、行くよ二人とも」姉さんは会話を打ち切った。
 僕は手を引かれるまま進む。広間の扉を抜ける。幼女を盗み見ると、彼女は姉さんをまっすぐに見て、僅かに頬を紅潮させていた。少なくとも僕にはそう見えた。
「……ところで、どこへ行くんだ?」言いながら、姉さんの横に並んでみた。勿論右手は繋いだまま。うん、後ろをついていくよりもいい感じだ。
「うーん……わかんない」姉さんはこっちを向いた。
 目が合う。つい、今日も綺麗な新緑の虹彩に見入る。すると、姉さんは照れたように目を細める。唇が柔らかく弧を描く。姉さんの周りの色彩が、鮮やかに彩られる。
 そうして、姉さんはいつも僕を優先するんだ。「凪沙は行きたいところ、ある?」
 まるで僕が姉さんを独り占めしているみたいで、満たされた気分になった。
「……ない、かな」とはいえ、その期待に応えられるかは全くの別問題である。僕は優柔不断なのだ。「何があるのか知らないし……」
 姉さんは小首を傾げて言った。「まあ、それを知りに行くんだものね」
「鴒ちゃんは、どこの扉から行きたい?」
「えっ……えっと……」幼女──もとい、鴒ちゃんは困惑した目で僕を見た。そんな目で見られると僕も困る。
「……ところで、れいちゃんとは誰だ?」
 少し不憫に思えてきたので、考える時間を与えてやることにした。こんなものは直感でいいと思うのだが、このレイとかいう幼女は、如何せん意見を訊かれるのに慣れていない様子だった。
 と、それっぽいことを予測してみても、たかが逢って数時間の関係なのだけれど。どこまでいっても所詮予測の域を出ない。
 実際、僕は別段人見知りというわけでもないが、直感での選択を他人に迫られるのは嫌いだ。
「あ、そっか。凪沙は聞いてないんだっけ」姉さんはときどき、僕と記憶も共有していると勘違いするふしがある。
 だいたい常に一緒に行動しているからだろうか。それを姉さんも無意識に意識してくれていると思うと、また少し満たされた。
「この子、小鳥遊たかなしれいちゃんっていうらしいの。命令のレイに、鳥編で鴒」
 レイ──鴒。
 セキレイ──縄張り意識が強い、鳥。
 それは果たして益鳥か、害鳥なのか。
「……珍しい名前だな」
「うん。聞いたことない」
 かわいらしい名前だよね、そう言って姉さんは物憂げに小鳥遊を見た。
 小鳥遊の、平均より大きな瞳がこちらを見上げる。
「……一度、昨日の廊下に戻りたいですわ。何か発見できるかもしれませんし」
 確かに、昨日はしっかり観察しなかった。少なからずパニックに陥っていたからだ……情けない。姉さんを護るならば、僕は常に冷静でなくてはならない。
「じゃあ、そうしようか」
 小鳥遊は、姉さんのその笑顔に安心したみたいに頷いた。
 姉さんが手を離さなくてもいいように、僕が扉を開ける。
 広間の右隣の扉だ。そこは確実に廊下である──はずだった。尤も、それは僕の記憶が正しければ、の話だが。
「おはようございますぅ、お三方」
 どうやら僕は、自分の記憶能力を買い被りすぎていたらしい。
 そこには廊下など無く、三十畳程度の部屋と、椅子に座った参番がいるだけだった。
 微かにエタノール臭がする。
「どうしたんですかぁ。怪我でもされましたかぁ」
 彼女の声は……なんというか、ねっちょりとしていた。昨日から変わらず、陰湿そうだ。
「いえ……あの、ここって廊下じゃありませんでした?」
 その声に、思わず小鳥遊を見た。彼女もこくこくと首を縦に振っている。どうやら僕の記憶違いではなかったみたいだ。
「えぇ?ここは医務室ですよぉ。このとおり」
 このとおり、と言われてしまっては何の反論もできない。だって、ここは今、間違いなく白い箱なのだから。
 そういえば、扉は昨日ほど重くはなくなっていた。
「……ごめん、開けるのは左のほうだったかな」
「……うん、そうなのかも」
「あらぁ、ワタシとお話はしたくありませんかぁ?……しくしく」
 何故か泣き出した参番は放っておいて、次は広間の左隣を開けに行く。絶対に廊下があるはずだ。学校にしては信じられないくらい長い廊下が、絶対に……!
 ふわりと、柔らかい空気が頬を撫でた。
「…………ない」
 そこにファンタジーみたいなあの廊下はなく、代わりにあったのは恐ろしく現実味のあるダイニングだけ。陽だまりがさし、暖かい雰囲気の……昨日のあれとはなにもかも正反対の。
 ここは、もしかすると、生きているのか……?馬鹿馬鹿しいとは思うが、これはどうしたって説明がつかない。それこそ、この城が意志を持っていて、形を自在に変えることでもできなければ。
 足音がした気がして振り向くと、いつの間にか参番が医務室を出てきていた。
「どうされましたかぁ?」彼女は屈託なく笑った。「そんなに──綺麗な目をして、、、、、、、
 ぞっとした。
 姉さんは、当然途方に暮れた目をしていた。であれば、きっと僕も同様なのだろう。実際そういう気分だ。
 それを、綺麗と。そう言ったのか。
 小鳥遊に至っては、参番から顔を逸らしている。……じっと床を見つめている。何かが不快だったかのように顔を歪めて。
「……どうもしませんわ」暫くして、小鳥遊が呟いた。「行きましょう、皆さん」
「ワタシ、そんなに不快なこと言いましたかぁ?」
「……いいえ。解らないのなら、いいんですのよ」
 今度は小鳥遊が先導して、ずんずん進んでいく。
 かと思えば、広間に戻ってきてしまった。バタンと音を立てて扉が閉められた──小鳥遊の手によって。
「……どうしたの?鴒ちゃん」
「どうもしませんわよ」
 小鳥遊は明るく答えた。が、無理がある。努めて明るくしているのは火を見るより明らかだった。
「……そう」姉さんは深追いしない。
「次、どこ行くんですの?」
「どこ……」
 不思議そうにした小鳥遊と目が合う。声に落胆が滲んでしまったのか。
「……続きは、明日にしないか」流石に、今から楽しく調べに行ける自信がない。空気を良くしようとしてくれた小鳥遊と姉さんには申し訳ないけれど……。「ごめん」
「ううん、いいよ。疲れたもんね。もうお昼だし……食べるものってあるのかな」
「さっきの部屋の奥、もう一つ扉がありましてよ。ダイニングっぽかったし、お台所でもあるのかも」
「そっか! でかしたよ鴒ちゃん! ……行こっか、凪沙」
 微笑んで、姉さんは手を差し出す。手は離れてしまっていた。
 自分だって辛いだろうに、僕の為に気を回してくれている。本当に思いやりのある人だ。小鳥遊も、幼いのに気丈に振舞って。僕だけが何もしていない。
 なら、せめて普通を装おう。ここでうじうじしていたところで、姉さんは護れない。
 そう、たとえ──脱出の希望がほとんど閉ざされたとしても。
 僕は姉さんの手を取った。
「うん。お腹空いたな、僕」
「やっぱり? 私もだよ」
「何を食べますの?」
「うーん、どうしようねえ……」

 弾んだ笑い声が広間に響く。パタン、という控えめな音と共に、それは途絶えた。
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