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一章

手の届かない人

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蜂蜜色の癖のある長髪を後ろでひとつに結び、背筋は真っ直ぐに伸びている。
相変わらず綺麗な男だ。
彼を見ると途端、私は愚かな女になりさがる。
もともと賢さとは無縁ではあったが、彼を前にするとさらに私は愚かになる。
欲しい、と思う。
その星空の欠片を散りばめたような紺青の瞳をただ、私にだけ向けて欲しい。
全身が、彼を求めている。

彼が欲しい。
彼に愛されたい、と。

ふと、思った。
これはもはや、私に与えられた業なのではないか、と。

『氷の騎士と常春の聖女』では、メリューエル・メンデルという女は恋に狂い、愛に飢え、異常な愛欲を湛えた女だった。

この世界が誰かの手によって生み出された物語の世界なら、強制力というものも存在するのかもしれない。
そうであれば私は、生まれた時から狂気を強制的に付与されている……という可能性も有り得る。
もっとも、私が狂っているのは何もこの世界のせいではなく、ただ生まれつきの性格のせいかもしれないが。
私は自分の異常さを真正面から認めたくなくて、他責思考に陥った。

ミュチュスカは私をちらりと見たが、声をかけることはしなかった。
存在自体を無視するように私の横を通り、陛下に跪く。
陛下が先程のように聖女にミュチュスカを紹介した。

やめて、見ないで。
彼は私のものなの。

そう言えたら、どれほど良かっただろうか。



しばらく私とライラ、そして五大貴族の子息は王城に滞留することを求められた。五大貴族の子息──中には男子に恵まれなかった家もあるので、実際は四人だが。
ミュチュスカ含め四人の男性は聖女と関わり、互いに人間性を知るために。
そして私とライラは聖女の不安や心配を解消するための話し相手として、残ることになった。

謁見の間を後にした私は、ちらりとミュチュスカを見た。彼は、慣れない様子で戸惑っている聖女と何か話していた。
聖女の部屋に案内するのだろう。
彼は聖女の前に跪き、彼女の手を取っていた。
まるで騎士の誓いのよう。

もうそれ以上は見たくなくて、目を逸らし部屋を出る。

とても、苦しい。
そのまま逃げ込んだ先は、王城の蔵書室。

全国各地から集められた稀有な本が収められている蔵書室に飛び込んだものの、調べ物をするつもりは全くなかった。
どこでもいいので一人になりたいと手近な部屋に飛び込んだら蔵書室だったのだ。
三階まで続く吹き抜けの蔵書室に入った私は、そのまま何を考えることなく最奥を目指した。

「……どうして、ミュチュスカなのよ」

ぽつり。声がこぼれた。
分かってる。
聖女が悪い訳では無い。

聖女が現れなかったところで、どちらにせよ私とミュチュスカの関係は変わりようがない。このまま彼と結婚しても冷えた夫婦生活が待っているのは間違いない。

私は『氷の騎士と常春の聖女』の内容を全て覚えている。

彼は聖女を抱きしめ、切ない思いを吐露していた。
聖女に別れの口付けを贈っていた。

『今世ではあなたと結ばれることは叶わないかもしれない。それでも私の心は、今世も来世も──未来永劫あなたのものだ』

あなたを想っている。
彼はそう言うのだ。

どうして全て覚えているのだろう。
こんな記憶、捨ててしまいたい。
何も知らずにいれば、呑気にただミュチュスカのことを考えているだけでよかった。

まあ、その結果私はミュチュスカが聖女に惹かれていると知ると暴走し、聖女を殺害しようと試み──結果、処刑されてしまうのだが。

だけど知らずにいればこんな苦しい思いをすることはなかった。知らないまま破滅の道に向かうか、知って苦しい思いを抱えるか。その二択なら私は前者を選ぶ。
聖女とミュチュスカの恋を盛り上げる|悪役(ヒール)でしかないと分かっていても、恋に狂い、恋に破滅した方が私らしい。

でも、もうそれは選べない。

なぜか。その理由は簡単だ。

愛してるから。
ミュチュスカを、愛してるから。

聖女を害そうとすればミュチュスカは深く傷つくだろう。自分の婚約者が頭のおかしい女だということを知りながら、警戒を怠った。
その結果、聖女は命の危機に陥るのだ。
彼は深く後悔する。
そして、私を──メリューエルを心から憎むのだ。

彼を傷つけるのも、彼に憎まれるのも嫌だった。
だから、しない。聖女を害することはしない。

その代わり──



ぱたん、と音がした。
ハッとして音のする方向に視線を向ける。
入口の扉が開いた音のようだ。

誰か来たようだった。
蔵書室は、基本的に五大貴族の直系か王族、あるいは国王に許可を得たものしか踏み入ることは許されない。
珍しい書物が揃い、三階まである広い蔵書室だというのに私以外誰もいないのはそれが理由だ。
誰か来たと言っても、その相手は限られる。

蔵書室にわざわざ足を運ぶような人……

宰相あたりだろうか?
それか、本の虫である公爵子息かもしれない。

私が眉を寄せていると、声が聞こえてきた。

「わ!広ーい!めっちゃ本がある!図書館みたいですね!」

ドキリとした。
その声は、今最も聞きたくない女の声だった。
思わず息を詰めて、ドレスの裾を握りしめた。
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