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一章
メリューエル・メンデルの呪い
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聖女は順調に儀式を進めていく。
慣れない聖女は頑張りすぎて最初の方は倒れてしまうこともしばしばあり、ミュチュスカはそんな彼女を心配する。無理はしなくていいと話す彼に、聖女は言う。
無理なんてしていない、と。そして早く帰りたいから頑張る、とも。そこでミュチュスカは気がつくのだ。
このままだと聖女は日本に帰ってしまう、ということに。
儀式の成功は、聖女の帰還を意味する。
ミュチュスカはだんだん、儀式に対して後ろ向きになっていく。なぜなら、儀式を進めたくないから。儀式が終わるのが遅ければ遅いほど、聖女もまた長くこのレーベルトに滞在することになる。告白する勇気もなく、かと言って割り切ることも出来ず、ミュチュスカは切ない思いを抱えながら日々を過ごした。
そんなある日、事件が起きるのだ。
それは、
それは………?
そこまで考えて、そこから先が全く思い出せないことに気がついた。ハッとして羽根ペンを握りしめる。血の気が引いた。
「それで……そう、なにか……なにか、おきて………聖女は……聖女、は?」
どうだっただろうか。何が起きたのだっただろうか。
……思い、出せない。
思い出せなかった。なぜ、どうして!?
混乱のあまりペン先が乱れ、ミミズが這ったような文字が描かれた。は、は、と呼吸が荒くなる。
「…………」
……ようやく、理解した。
私は既に、物語の記憶を忘れつつある。
それはなぜか。前世の記憶を取り戻したと言っても薄ぼんやりとしていて、あまり覚えていない。そのことに関して何も不満はなかった。
この性格をどうにかするために、多少思い出せればと期待したものの、今更前世の記憶など、思い出したところで情報過多で混乱するのが目に見えている。
前世への執着の薄さがそうさせているのか。
私は物語の記憶を忘れつつあるようだ。
今思い出せた情報は紙に認めた。
紙に書いたのだからもう、これで忘れることは無い。だけど既に思い出せないことについては、もういくら頭をひねらせたところで記憶を取り戻すことは難しいだろうと思った。
懸命に思い出そうとするが、全く分からない。
空白だ。
何か、事件があり──それがきっかけで、ミュチュスカと聖女は結ばれる。
「わたし……私は?」
ミュチュスカと聖女の一番大きな障害である、メリューエル・メンデル。その彼女が、つまり私が、ミュチュスカの婚約者である以上、聖女とミュチュスカは結ばれない。
では、どうしたのか。私はどうなるのか。
身を引いた?婚約を破棄した?
それとも、彼と婚約破談にせざるを得ない状態に陥った?わからない。……なにも、思い出せない。
つい最近までは全て物語の内容を覚えていて、セリフすら諳んじて見せたのに、今やそのどれもがもやがかっている。
舌打ちした。こんなことなら、記憶を思い出した時点で物語の内容を全てメモしておけば良かった。今更後悔しても遅いが、悔やんでも悔やみきれない。
私はしばらく頭を悩ませていたが、やがて体の力を抜いた。
(まあ、いいわ)
どちらにせよ、私のとる行動は変わらない。
ミュチュスカが聖女護衛騎士に選ばれずに済んだなら、私は物語のメリューエル・メンデルのように恋に狂い、愛に飢えた狂女として生きていこう。恋に破滅するのもまた、私らしい。
だけど──もし。
ミュチュスカが聖女護衛騎士に選ばれたなら、その時は。
私は潔く彼の妻という座を聖女に譲り渡し、代わりの席を望むことにしよう。
それは、『彼の心の傷』という唯一無二のもの。
儀式が半分も過ぎれば、ミュチュスカは聖女と互いに想い合うようになるだろう。
口にはしないだろうが、互いに焦がれ合い、同じ空間にいるだけで多幸感を感じる、幼稚な恋に溺れるはずだ。
儀式が半分を過ぎた頃。
一ヶ月のうち、半月が経過した頃を見計らって、私は死ぬことにしよう。
聖女と騎士の恋のために身を引く、哀れな女。
婚約者が聖女と恋に落ちたために身を引き、悲嘆にくれながらもそれでも愛しい婚約者のためにと自己犠牲を働く。
世間は私を悲劇のヒロインと見るだろう。
表向き、聖女であるあの女を悪くいう人はいないだろうがみな、心の中で思うことだろう。
婚約者を死に追いやってまでして、妻の座を求めた残酷な女、と。
そうなれば私の勝ちだ。
(ミュチュスカは譲ってあげる。
だけど決して、幸せな結婚になどさせてやらない)
ミュチュスカもまた、私が死をもって婚約者という席を譲り渡したのなら、真面目で責任感の強いあの男は深く苦しむことだろう。
そして彼は、私のことをずっと忘れない。
私の犠牲の上で成り立った結婚に幸福を感じることなど、ミュチュスカには出来ないはずだ。
幸福を感じる度に、後ろ暗い感情に襲われるだろう。彼が幸福を感じれば感じるほど、私のことを忘れなくなる。それはさながら呪いのようだった。
メリューエル・メンデルという名の、女の呪いだ。
慣れない聖女は頑張りすぎて最初の方は倒れてしまうこともしばしばあり、ミュチュスカはそんな彼女を心配する。無理はしなくていいと話す彼に、聖女は言う。
無理なんてしていない、と。そして早く帰りたいから頑張る、とも。そこでミュチュスカは気がつくのだ。
このままだと聖女は日本に帰ってしまう、ということに。
儀式の成功は、聖女の帰還を意味する。
ミュチュスカはだんだん、儀式に対して後ろ向きになっていく。なぜなら、儀式を進めたくないから。儀式が終わるのが遅ければ遅いほど、聖女もまた長くこのレーベルトに滞在することになる。告白する勇気もなく、かと言って割り切ることも出来ず、ミュチュスカは切ない思いを抱えながら日々を過ごした。
そんなある日、事件が起きるのだ。
それは、
それは………?
そこまで考えて、そこから先が全く思い出せないことに気がついた。ハッとして羽根ペンを握りしめる。血の気が引いた。
「それで……そう、なにか……なにか、おきて………聖女は……聖女、は?」
どうだっただろうか。何が起きたのだっただろうか。
……思い、出せない。
思い出せなかった。なぜ、どうして!?
混乱のあまりペン先が乱れ、ミミズが這ったような文字が描かれた。は、は、と呼吸が荒くなる。
「…………」
……ようやく、理解した。
私は既に、物語の記憶を忘れつつある。
それはなぜか。前世の記憶を取り戻したと言っても薄ぼんやりとしていて、あまり覚えていない。そのことに関して何も不満はなかった。
この性格をどうにかするために、多少思い出せればと期待したものの、今更前世の記憶など、思い出したところで情報過多で混乱するのが目に見えている。
前世への執着の薄さがそうさせているのか。
私は物語の記憶を忘れつつあるようだ。
今思い出せた情報は紙に認めた。
紙に書いたのだからもう、これで忘れることは無い。だけど既に思い出せないことについては、もういくら頭をひねらせたところで記憶を取り戻すことは難しいだろうと思った。
懸命に思い出そうとするが、全く分からない。
空白だ。
何か、事件があり──それがきっかけで、ミュチュスカと聖女は結ばれる。
「わたし……私は?」
ミュチュスカと聖女の一番大きな障害である、メリューエル・メンデル。その彼女が、つまり私が、ミュチュスカの婚約者である以上、聖女とミュチュスカは結ばれない。
では、どうしたのか。私はどうなるのか。
身を引いた?婚約を破棄した?
それとも、彼と婚約破談にせざるを得ない状態に陥った?わからない。……なにも、思い出せない。
つい最近までは全て物語の内容を覚えていて、セリフすら諳んじて見せたのに、今やそのどれもがもやがかっている。
舌打ちした。こんなことなら、記憶を思い出した時点で物語の内容を全てメモしておけば良かった。今更後悔しても遅いが、悔やんでも悔やみきれない。
私はしばらく頭を悩ませていたが、やがて体の力を抜いた。
(まあ、いいわ)
どちらにせよ、私のとる行動は変わらない。
ミュチュスカが聖女護衛騎士に選ばれずに済んだなら、私は物語のメリューエル・メンデルのように恋に狂い、愛に飢えた狂女として生きていこう。恋に破滅するのもまた、私らしい。
だけど──もし。
ミュチュスカが聖女護衛騎士に選ばれたなら、その時は。
私は潔く彼の妻という座を聖女に譲り渡し、代わりの席を望むことにしよう。
それは、『彼の心の傷』という唯一無二のもの。
儀式が半分も過ぎれば、ミュチュスカは聖女と互いに想い合うようになるだろう。
口にはしないだろうが、互いに焦がれ合い、同じ空間にいるだけで多幸感を感じる、幼稚な恋に溺れるはずだ。
儀式が半分を過ぎた頃。
一ヶ月のうち、半月が経過した頃を見計らって、私は死ぬことにしよう。
聖女と騎士の恋のために身を引く、哀れな女。
婚約者が聖女と恋に落ちたために身を引き、悲嘆にくれながらもそれでも愛しい婚約者のためにと自己犠牲を働く。
世間は私を悲劇のヒロインと見るだろう。
表向き、聖女であるあの女を悪くいう人はいないだろうがみな、心の中で思うことだろう。
婚約者を死に追いやってまでして、妻の座を求めた残酷な女、と。
そうなれば私の勝ちだ。
(ミュチュスカは譲ってあげる。
だけど決して、幸せな結婚になどさせてやらない)
ミュチュスカもまた、私が死をもって婚約者という席を譲り渡したのなら、真面目で責任感の強いあの男は深く苦しむことだろう。
そして彼は、私のことをずっと忘れない。
私の犠牲の上で成り立った結婚に幸福を感じることなど、ミュチュスカには出来ないはずだ。
幸福を感じる度に、後ろ暗い感情に襲われるだろう。彼が幸福を感じれば感じるほど、私のことを忘れなくなる。それはさながら呪いのようだった。
メリューエル・メンデルという名の、女の呪いだ。
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