姥捨て山に墜ちた星

高木解緒 (たかぎ ときお)

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                               西暦二〇二五年

 負けました――。
 あっさり投了し、鮠川はソファへ深々と身を沈める。駒を木箱へしまいながら、相原老人はからから笑った。
「なんだ、張り合いが無いな」
「すいません」
「いや、いいさ。君みたいな若い人に将棋の相手をして貰えるだけでも、随分ありがたいものだよ」
 相原は見事な白髪頭を掻き上げ、「どうせ暇潰しなんだ」
「そうですか」
 二人は微笑み合った。
 神奈川県丹沢山中にある「丹沢天翔園」は、資金の有り余る老人ばかりが終の住家とする高級高齢者入居施設「天翔園」グループの中でも指折りの設備を誇っている。人里から遠く離れた見晴らしの良い高台に建つ白亜の建物は、紹介パンフレットの写真においても欧州あたりの会員制リゾートホテルめく壮麗かつ豪奢な建築だが、実際に見ると三次元へ描き起こされた重厚な佇まいがそれに一層の華を添え、「高級」の名にこれほどふさわしい施設も無いと思わせる。
 各階の天井を高く取った八階建て建築は贅沢に山肌を削り慣らした広大な敷地の中央に据えられ、晴れた日には入居者が関わる殆どの部屋から相模湾、太平洋の素晴らしい眺めを一望できる。
 天然温泉かけ流しの大浴場、5室を基本に財力や好みに合わせて拡張可能な個人部屋、図書館、庭園、ミニシアター、屋内外プールやテニスコートなどスポーツ施設、健康と美食の双方を突き詰めたメニューが自慢のレストラン、医療施設はもちろん、ドクターヘリ発着場まで備え付けられているのだ。
 贅沢に飽和しつつ天寿の静かな全うを願う人々にとって、人生の最後に辿り着く理想の楽園を具現化した場所と言えるだろう。それまでに費やした時間の代価としておよそ全てが与えられる。
 一ヶ月ほど前に住込みの介護士として働き始めた日の翌日から、本館エントランス脇にある見晴らしの良いロビーで相原老人の将棋の相手をすることが鮠川の日課になっていた。この穏やかなルーチンワークは、当施設の介護の在り方そのものだ。
 丹沢天翔園に体の不自由な老人は一人もいない。元々、そういう客は別の天翔園系列の施設へ入居を勧められる。また仮に、肉体的な問題を抱える人物の入居話が持ち上がったとしても「園の見栄えが悪くなる」等という理由から丹沢天翔園の先住者たちが経営側に強く働きかけ、〝要介護老人〟の入園を防ぐのである。
 そしてさすがに最高の設備と環境が万全のサポートを約束しているだけあって現在の丹沢天翔園には今のところ、老衰を原因とするもの以外の不調を訴える住人は独りもいない。結果、園内は毎日がおっとりした平穏に包まれている。
 こうした理由から、丹沢天翔園の介護職員も極端に少ない。常駐する職員は鮠川を含めて三人だ。その三人の仕事にしても、介護職という肩書きから一般にイメージされる過酷な労働とはまるで異なる。ちょっとした用足しの代役や手伝いの他には、老人たちの退屈しのぎの相手となって勤務時間の専らを費やしているのだ。
 暗く寂しく、どこか不潔、あるいは不自然なほど清潔な介護施設のイメージは、ここには全く当てはまらない。老人の理想郷か極楽への待合所か。どちらにせよ老人ホームと言うより、小遣いさんを共有する有閑老人の贅を尽くした高級シェアハウス、といった方がこの「丹沢天翔園」にはふさわしいだろう。介護作業モデルの電強機動外骼、いわゆるアシストスーツの最新式、最高級機種が早々と導入されたにも関わらず廊下の隅で埃を被り、倉庫奥へ仕舞われ、果ては姿を消してしまったことも、この場所の安穏とした雰囲気を象徴している。肉体労働が存在しないのだから無理もない。
 来たばかりの頃、こんなところがあるのかとよくよく驚きもし、感心もしたことを鮠川は覚えている。彼はここに来て〝労働〟という言葉の意味を忘れかけていた。食事の準備は通いのシェフ、洗濯や清掃など日々のハウスキーピングは出入りの業者が毎日てきぱき済ませてしまうから、年齢は下だが住込み職員としては鮠川の先輩にあたる宗田まゆみにしても、慌ただしく働いているところを見たことがない。今朝なども、飼いウサギである「みこたん」が裏庭に置かれたケージを破って逃げ出してしまったとかで、彼女は入居者の相手そっちのけで迷子探しをやっている。

 一局指し終えた鮠川と相原はしばらく応接間のソファに身を沈め、ぼんやり景色を眺めていた。鮠川がコーヒーをすする横で、老人は悠然とパイプをふかしている。国家安全保障局の局次長を務めたというだけあって、陽に焼けて堀の深いその横顔は老いてなお精悍、遠く相模湾を見やる目つきにも射竦めるような鋭さがあった。
「それはそうと――」
 と、長く煙を吐き出した相原が鮠川へ話しかける。
「まゆみちゃんとはもう寝たかね」
 さばけた性格の彼らしい、無遠慮な言葉だ。鮠川は苦笑して、
「率直なご質問ですね」
「他にどんな訊き方があるんだね? 愛し合ったのか、とでも訊くのかね?」
 軽く嘲るように相原は鼻を鳴らし、唇を歪めた。肩を竦め、否定の答えとした鮠川へ、老人は二服目をパイプに詰めつつ、
「一度寝てみるといいんだ。声はいささか大きいが、ものは、中々の名器だよ」
「そうですか」
 宗田まゆみが男性入居者の性介護を務めていることは、丹沢天翔園における公然の秘密だった。まゆみは頭が足りないので、淫猥なスリルを楽しむ中で快感を与えられるのであれば無料奉仕も厭わないらしい。だが、それでは老人たちも気が引けるのだろう。彼女は小遣いに不自由しないらしく、ウサギの大きな飼育ケージはいつも新品だそうである。
 緩くパーマのかかるショートボブの前髪を可愛らしいウサギのキャラクター付きピンで留め、大きくあどけない黒目勝ちの瞳をくるくると楽しげに輝かせては、へんてこな鼻歌を歌いながら刻みたての富良野産無農薬ニンジンを裏庭へいそいそと運ぶ、毎朝のそんな様子は子ども子どもして幼いまゆみだ。のんびりした人柄が余計にそれをひき立てる。前夜、施設の防音壁をあっさり突き抜ける嬌声を響かせていた人物と同一とは全く思われない。
 だが小柄ながら肉感的な肢体にぴったりしたジャージを着、エプロンをつけたまゆみが楽しげにウサギへ餌をやるその様子を、正確に言えば、給餌のためにしゃがむことで強調される体のラインを、欲望剥き出しの目つきで男性入居者たちが舐めるように眺め、順番で揉めているところを鮠川が目撃したのは短い間で一度や二度ではない。薬剤や器具に頼らず、男根機能のみでまゆみを一夜に何度、絶頂に導けるかへ金品を賭けている老人たちの表情はひたすら醜悪だったが、しかし、すっかり若さを取り戻しているようにも見えた。
 ようするにこれもまた、丹沢天翔園のサービスの一つなのだ。
「もちろん、電話一本で外から呼ぶことだって出来るんだがね」
 以前、オリジナルポルノ制作のための男優役を決めるじゃんけんで大騒ぎする男性入居者たちを横目に相原が言っていた。
「麓の温泉街にはそういう女たちも多いからな」
 エントランスカウンターの隅へ置かれている桃色のノートには、近隣にある出張専門店の番号が全て記されているらしい。かなり昔から存在するらしく、硬くこわばったページにはそれぞれの番号を利用した入居者によって、店の対応から女の評価までつらつら書き込まれているそうだ。しかし、かなり以前から更新が止まっているとのこと。老人たちの関心が移ったのだ。新しい解消方法が来た。
「同じ屋根の下に暮らす、孫ほどに若い娘と、というのがそそるんだよ」
 最初にまゆみの話をした時、相原はどこか得意気に言ったものだ。
 鮠川はその時のことをぼんやり思い出しながら、   
「相原さんはまだ寝ておられるんですか。まゆみちゃんと」
「そりゃあ、な」
 相原老人は詰め終えた煙草へ火を付けながら、にんまり笑った。
「瑞々しい肌は白いし、滑らかに肉厚でな。抱き心地は悪くない。さっきも言ったようにそれなりの名器だ。体は文句なしだ。だが、少々飽きが来てる」
「そうですか」
 鮠川は白々した気分で聞いている。
「まゆみちゃんは気持ちが好くて楽しければ率先して何でもするんだ。じじいのしなびたナニでも音を立ててしゃぶる。だが、白痴は白痴。セックスには恥じらいも重要な要素だからな。それが無ければ結局いつか飽きてくるさ。それにだ、じじいを三人まとめて相手しながら涎垂らしてよがるのを見たりなんかしていると、喰ってるんじゃなくて、こっちが喰われてる気になる。寿命を吸われてる気になるんだ」
「へぇ。珍しく、弱気な御意見じゃありませんか」
 まあな、と相原は素直に認めた。
「性欲処理のはけ口と考えれば充分過ぎるほど充分だがね。世間にはババアの手こきすら受けられないホームがあるそうじゃないか」
「むしろそっちの方が多いと思いますが」
 若い娘を当てがわれるだけでもありがたいってものか、と相原。
「まあ、まゆみちゃんには感謝しているさ。チェンジの手間も省けるし――」
「はぁ」
「それに、向坂先生よりはずっとましだからな」
 鮠川がハッとして相原を見やると、老人は何事か含む目つきで彼を見返していた。これが言いたかったのか、と鮠川は理解する。
「向坂先生の場合はまゆみちゃんの五倍払わされて、人形を抱いてるようなもんだ。ウンともスンとも言わない。背も高いし体はのびやかでな、まゆみちゃんにも負けないくらい良いはずなんだが、あれぐらいつまらないセックスもないぞ。冷たい肉まんを撫でている感じだ。がめつい上に不誠実な処理係だ。今時珍しい保温便座無しの洋便器だよ。鮠川君もどうせ抱くならまゆみちゃんの方が良い。びらびらを整えたりなんぞしてる割には、先生のとりえと言えば汗の味ぐらいだ」
「――そうですか」
 向坂珠子は丹沢天翔園住込みの女医である。年齢は鮠川と同じくらいだと彼の歓迎会で言っていたが、二つ三つ上だろう。まゆみがノホホンふっくらした可愛らしい感じであるのとは正反対に、運動の得意そうな健やかで肉付きの良い長身と、それへまとった清潔な白衣、さらさらと長い黒髪がよく映える凛とした美人だ。
 有能な医者らしいリーダーシップや理知的ではきはきした物言い、きっぱりした態度などから、彼女についてそれなりの常識人と見ていた鮠川は、打ち砕かれたのがささやかな幻想であったとは言え、少々落胆せずに居られなかった。珠子もまた、金で老人に身を許す女なのだ。そしてまゆみ以上に、商売としてそれを行っているらしい。そんなものか、と鮠川は思った。
「がっかりしたかね」
 相原老人は半分嘲笑い、半分同情した調子で彼へ語りかける。
「まあ、少し――」
「君もまだまだ甘いな」
 老人は煙を輪にして吐き出し、にんまり笑う。弟子をたしなめる師の口ぶりで、
「ここにいる人間は皆、どこかしらおかしい。職員も入居者も、皆だ。入居者からして、下界でもて余されて、だが金だけはあるためにここへ落ち着いた者ばかりだ。他の、一般の年寄りに比べて社会的なパワーになまじ余力があるだけに、自分たちを山へ追い払った年下たちへより一層、遺恨がある。だから若さで溌剌とした職員なんかいた日にゃ憎しみあり、羨ましさありで仕方がない。いびりもするさ。結果として普通の若者たちは見切りをつけて出て行ってしまう。残るのはまゆみちゃんのような抜けきった白痴や向坂先生のような、肉体は若くても、心がどうしようもなく年老いて、全てを諦めてしまっている者ばかりになる。――いや、そういう人間しかいられないんだ、ここは」
 そうだろ? という念押しに、鮠川は無言で、浅く頷いた。
 老人は頷き返し、
「贅を尽くした姥捨て山なんだ、ここは。姥捨て山に居て良いのは年寄りと獣ばかりだ。君はまだ、どちらにもなりきれていないようだな」
「そうかもしれません。……自分自身では、もうそのつもりだったんですが……」
 遠くを見やる鮠川に憐憫が湧いたものか、相原はずいとこちらへ身を乗り出してきた。
「解決方法を考えようじゃないか。君が下界から持ち越してきた色々を思い切る解決方法をだ。わしが思うに、先生と一度寝てみたらどうだ? それで目が覚めるはずだ。惰性に身を任せる好いチャンスだ。金が無いなら、前借りさせてやるぞ?」
 鮠川はまた苦笑いして首を振った。
「やめておきますよ。女性を買うのは僕の趣味じゃありません」
「理想主義者だな。――いや、ここだけの話、君にリベンジを果たして欲しいんだ。あの無表情な顔つきが未だに腹立たしくてならん。君にハメ撮りをお願いして、あの顔が色っぽく歪むのを後で見て、大いに溜飲を下げたいというわけだよ。シアターで上映会でもやれば他の入居者も喜ぶし、先生ももう少し、素直になるかもしれん」
「誰が素直になるのかしら?」
 ふと後ろから涼しげな声がして、鮠川と相原は振り返った。
 向坂珠子が立っていた。
「まゆみちゃん、見なかった?」
 朝の挨拶もそこそこに、珠子は鮠川へ問いかける。
「いえ。まだウサギが見つかってないみたいですね。ずっと見てませんよ。お急ぎなら探してきましょうか」
 腰を浮かせる鮠川を白衣の女医は片手を上げて制し、
「いいわ。ここで待ってれば、そのうち通るでしょ」
 気まずさゆえに逃げ出そうとしたのを見咎められた気がして、
「そうですか」
 再び腰を下ろしつつ、鮠川は自分の動きが僅かにきしむのを感じた。手近にあったスツールを引き寄せて、珠子が二人のそばに座る。長い髪を両手を使って背後へ払い、ふう、と一息入れた。
「ちょっと貰うね」
 鮠川のコーヒーカップへ彼女は何気なく手を伸ばす。そしてカップを取り上げる代わりに、それまで持っていた白い紙製の処方袋を卓上へ置いた。
「誰か病気なんですか?」
 鮠川の問いかけに首を振る彼女。
「強化ピルよ。まゆみちゃんに」
「ああ……」
 こちらの表情の変化を珠子は意に介さない。
「前に渡してた分がそろそろ切れるころなの。取りに来いって何度も言ってるんだけど、すぐ忘れちゃうのよ、あの子」
「そうですか」
「まゆみちゃんにはしっかり飲んでてもらわないと。もしもあの子が妊娠して手術のために山を降りるなんてことになったら、冷えた便器の前にでも行列ができかねないでしょ」
 女医は悪戯っぽく微笑んだ。鮠川はとっさに相原を見たが、彼は聞こえなかったふりをして紫煙をくゆらせている。我関せずという面持ちだ。どうしたものか鮠川があぐねいていると、こちらへ身を乗り出し、彼の耳元へ口を寄せた珠子がそっと囁いた。
「がっかりさせて、ごめんね」
「いえ……」
 口調が違った。珠子はじっと彼を見ていた。優しい静寂があった。
 しかし、それはすぐに破られてしまって、
「まゆみちゃん、見ぃへんか」
 玄関から入るなり三人に声を掛けたのは、北見という入居者だ。関西で不動産売買を基盤とするグループ会社を経営していた男で、訛りのある甲高い声がよく響く。
「あんたら、まゆみちゃん見ぃへんか、なぁ」
 ひょこひょことこちらへ歩み寄り、再び同じことを訊いた。
「おやおや、北見さんもまゆみちゃんを御探しか」
 相原老人の言葉に北見が目を剥き、
「まゆみ探してる奴、他にも居りまんのか」
 ねめつける視線を彼から向けられ、鮠川は慌てて首を振る。
「向坂先生がお探しなんですよ」
「ああ、先生だっか」
「北見さんは、まゆみちゃんに何か御用なんですか?」
 珠子の問いかけは無意識のうちに出た自然なものらしかったが、鼠のような面構えの老人は気まずい表情で口ごもった。手を振ってその場を離れようとし、
「え、まぁ、野暮用ですわ。ちょっと頼みたい思いましたんや」
「今日は久賀たちが街へ降りてるからな」
 したり顔で相原が笑った。
「いつもの引き留め役やライバルが帰ってくる夕方まで、独り静かに、存分になぶりたい、というところだな」
「相原さん!」
 北見は目を剥いて抗議しようとしたが、立ち上がった珠子に遮られてしまう。
「北見さん、まだまゆみちゃんに暴力的な性交を強要しておられるんですか?」
「そんな、暴力的な、やなんて――ちびっと激しいだけですがな」
「夜這いをかけた上で縛り上げて、本人の嫌がる打擲や拡張プレイをするのがかね?」
「相原さん、言わんとって!」
「最近は本番より御喋りの方が楽しくてな。色々聴かせてもらっているんだ。お前さんがプレイを強要したプールだの非常階段だのはおろか、最近は七階に行くだけでも寒気がするらしいぞ。口の中に溜めこまされた疑似ザーメンで窒息しかけるのを、苦しいことが何より嫌いなあの子が喜ぶとはとても思えんよ」
「なあ、相原さん!」
「――北見さん」
 相手を見据える珠子の声は冷え冷えとしており、
「再度、御忠告申し上げておきますが――まゆみちゃんは確かに、そうした介護をも目的として連れて来られた子かもしれません」
「ほんなら、ええやないですか……」
「ですから、彼女はいわば、本園の公共物なんです。個人の嗜好による損壊は認められません。あの子に何かあって、他の入居者の皆さんの御機嫌を損ねてもよろしいんですか?」
「それは……」
 北見はたじたじとなった。〝ただの〟元経営者という点で、財力的には入園資格に申し分ないとしても、彼のヒエラルキーは入居者の中でごく低い。発言権も弱かった。
「仮にここを出られても、また天翔園系列に御入園できるか分かりませんよ」
「わかりました。わかりましたがな」
 背を向け、そそくさと立ち去る北見。
「――あの男はまたやるぞ」
 醜欲を持て余した貧相な後姿が曲がり廊下の向こうへ姿を消すのを見送ってから、相原老人が警告した。
「警察庁へ出向していたころに扱った広域指定の快楽殺人者と同じ目をしているよ。嗜虐趣味が行き過ぎて、産婦人科の手術室みたいに改造した自宅地下室へ若い娘を拉致してはなぶり殺しにしていた奴だ。本物の、開花したサディストだった」
 北見の奴もエスカレートすれば――、と相原は言う。
「現役時代は商売敵を金銭的にいたぶることで宥められていた本性が、ここにきて本格的に動き出したのかもしれん。まゆみちゃんには確かに、嗜虐趣味をそそるところもあるしな」
「どうしたものかしら」
 腕組みする珠子を、老人は下卑た含み笑いとともに見上げ、 
「いっそ先生の方で北見を引き受けたらどうかね」
「御冗談でしょう」
「奴の熱血が勝つか、先生の冷血が勝つか。よしんば先生が負けたところで、新しい世界が開けるかもしれん。損得無しだ」
 珠子は無言のうちに冷えた目で相手を見下ろし、相原はおどけて肩を竦める。
「ところで、巌谷さんはどうなりましたか?」
 雰囲気を変えようと、鮠川が珠子に訊ねた。
「やはり自殺ですか?」
「そうね。十中八九、自殺と見ていいと思う」
 凛と落ち着いた声で、珠子ははっきり答えた。
 巌谷、というのも丹沢天翔園の入居者である。いや、だった、と言うべきか。
 彼は昨日の夕方、自室で首を吊っているところを発見されたのだ。
 ベッドのヘッドボード中央の突起へ輪にした手拭いをぶら下げ、横たわった姿勢で輪の中へ首を入れて体重を掛けるやり方だった。
 我が国初の民間軍事会社を経営して財をなし、国家防衛に睨みを利かせる有力者であったばかりでなく、二十代の大半を海外で傭兵として費やすことで現場を知り、会社設立後も壮年期を過ぎるまで本人自身、実戦指揮を豊富に経験したという巌谷老人の巨躯は老いてなお頑健、なお肉厚、鮠川よりも一回り以上大きい筋肉質の体は丈夫過ぎるほど丈夫な彼自身を窒息させる「おもり」として一番、都合が良かったろう。
 発見当時、部屋の鍵は締まっており、鮠川が相原の指示を受けてドアを破った。発作的な自殺――。状況から、相原と珠子の二人がそう判断を下していた。
「今は霊安室かね?」
 相原の問いに珠子は一応頷いたものの、少し眉根を寄せ、訝しむ表情をしてみせる。
「御家族からそろそろ連絡があるはずなんですが……」
 丹沢天翔園は特に入居者の死について、実質的に司法の圏外にある。老人たちの誰かが不審な死を遂げても、警察への通報より先に遺族の判断を仰ぐことが暗黙の了解となっていた。遺族が望めば、と言ってもほとんどの場合は問答無用で望まれるのだが、住込みの医師、つまり珠子が死亡診断書をあっさりと書いて、それで終わりになるのである。
 鮠川は寡黙な巌谷老人の生前をぼんやり思い出していた。
 いつも黙って本を読んでいたり、深く考え事をしたりしているようで、話をする機会はあまり無かった。他の入居者との交流も少ないらしく、例えばまゆみを巡るやりとりなどにもまるで加わらない。しつこく彼女へ絡み、誘いたがる北見を一喝して黙らせたこともある。一種超然としたその様子に、鮠川はどちらかと言えば好ましい印象を抱いていた。
「巌谷さん、どうして自殺なんかしたんでしょう?」
 鮠川は呟き、問いかけるように相原と珠子を見比べる。
 しかし、ふと、二人の瞳には疑念の色が無いことに気付いた。
「――お二人は何か御存知なんですか?」
「なんだ、鮠川君は気が付いていなかったのか?」
 少し驚いた顔で相原が問う。
「それとも今時の若い者はネットニュースにすら触れんのかね?」
「私はニュースと、あと、外山さんから聞きました」と珠子。
「そうか。そう言えば、外山さんはそれで一本書いたらしいからな」
 相原の言葉に珠子は頷き、
「巌谷さんには安定剤も出していましたし。最近は効き目が薄れていたみたいですけど」
「安定剤? 巌谷さん、どういう方だったんです? 有名人なんですか?」
「有名と言えば、有名だなあ。さっきわしが言った広域指定の殺人鬼なんぞより、よほど有名かもしれん。現代日本が輩出した世界的有名人だな。しかし、五年前と言えば鮠川君だってもう立派な大人だろうが? それが巌谷の名前を知らんとは、少々世間に疎すぎやせんか。この国の未来が不安なはずよな」
「なんで有名なんです?」
 あの男が――、と相原が口を開きかけた、その時だ。
 鋭い電子音が館内に鳴り響いた。緊急用のコール端末をどこかで誰かが押したのだ。


     ※


 三人が通報の発信源である裏庭へ駆けつけてみると、二人の老女が棒立ちに硬直していた。入居者の外山婦人と菅野老嬢で、こちらを振り返った二人の顔は死蝋のように蒼白だ。彼女たちがそれまで見ていたものを認め、三人の動きも止まる。めいめいに息を呑む。
 しばらく、そのままだった。うわん、とハエが散ったのは、意を決した相原と珠子が同時に一歩踏み出したからだ。
 もっとも蠢くベールが晴れる以前から、死体、という直感は皆にあったろう。周囲に飛び散るどす黒い飛沫は乾いた血痕と思われ、辺りに立ち込める鉄臭さは生臭く鮮烈な風となって鼻腔に流れ込んで来る。四肢の残る人間の胴体だ。胸から腹にかけて肉や内臓ごとこじ開け、剥がされるように引き裂かれており、虚ろな体腔の向こうに脊椎が見えた。頚部より上は見当たらない。残った四肢には深く切り刻むような裂傷が所々あって、裂け目から骨が覗いている。
 理解した途端、鮠川は猛然と吐き気を覚えた。隅へ走り、吐いた。
 それがきっかけだったのか菅野老嬢がついに卒倒し、外山婦人がうろたえながら手当を試みる。珠子が走り寄ってそれに代わった。
「こりゃ、まゆみちゃんだ」
 死体の検分に当たっていた相原が声を上げると、ああ、やっぱり、という雰囲気が周囲に流れた。それが老人のものでも、男のものでもなさそうだということくらいは皆、すぐに分かったのだ。赤黒くこびりついた血痕の間に、血の気を失った柔肌が白々と光っていた。残る脚部に独特の丸みがあった。
「どうして断定できるんです?」
 口元を拭いながら鮠川が問うと、相原は無言で死体の両脚を広げ、彼へ示した。内股、ぽやぽやした陰毛の右脇にほくろが三つ、小さな三角形状に並んでいる。
「このほくろに見覚えがある。おまんこの形にもな」
「私も覚えてるわ」
 菅野老嬢の介抱を終え、近づいてきた珠子が髪を束ねながら言った。
「慰め合いっこでもしたのかね? どうりで男に冷たいわけだ」
「カンジダの診察をしたんです」
 軽口をあっさり切り返した珠子は老人の股間へ、一瞬だけ視線を滑らせて見せる。相原老人が珍しく落ち着かない顔つきになった。
「熊ですかね?」
 携帯端末で現場写真を保存しつつ周囲の検分を始めた珠子へ鮠川が訊ねる。彼女は首を傾げ、
「ツキノワグマはこんなことしないと思うけど」
「いつ襲われたんでしょう?」 
「かなり損壊しているから断定は難しいけど、死亡推定時刻は二時間から三時間ほど前、ってところかしら」
「二時間弱くらいだろうな」
 気を取り直し、電子拡大式の万能ルーペで体腔内を観察していた相原が顔を上げた。「気温劣化と、単位面積あたりに産みつけられたニクバエの幼虫侵入孔数からの、おおよその試算だがな」
「今が十時十五分ですから、確かに、それくらいですわね」
 外山婦人が後から声を掛けた。
「八時ちょっと過ぎに、みこちゃんをおびき寄せるんだって、刻んだニンジンを山盛りにしたお皿を持って台所を出るまゆみちゃんを館内で見ました。きっと、そのままここに来たんでしょう」
 そう言って婦人は、金網が広がって変形し、庭の隅へ転がっている飼育カゴや、辺りに散乱する干乾びた富良野ニンジンの切れ端を目で示す。上品な銀髪が映える海老茶色のガウンを羽織り、厳しい顔で証言する彼女は「日本のクリスティ」と誉れが高い往年のベストセラー推理作家だ。最近では筆を執ることも少なくなり、莫大な印税と知名度を背景にこの天翔園でのんびり引退生活を過ごしているのだが、冷静な分析力は相変わらず健在なようだ。
 自説を補強された相原が強く頷いた。彼もまた、現役時代の血が騒ぐのか、より一層鋭い目つきとなって、油断の無い眼差しを四方八方へ注いでいる。
「そして殺されたというわけか。外山さんはどうしてここに?」
「菅野さんの御付き合いで」
 外山婦人はその腕の中へ全身を預け、息も絶え絶えになっている菅野老嬢へ視線を落とした。二人は同じくらいの年齢で、同じような痩せぎすの体つきをしている。だが雰囲気は全く対称的だった。若者めいた派手な部屋着から強い香水の匂いを漂わせる菅野老嬢は、けばけばしい化粧の仕方も相まって普段は齢古く経た妖狐を連想させる外見をしている。だが、今はすっかり呆けていた。紫に染めてパーマをあてた頭髪がシュールなユーモアさえ感じさせる。自らを抱えた外山婦人の「ね、菅野さん」という呼びかけにもまるで返事をしない。婦人が再び顔を上げ、
「菅野さんがまゆみちゃんにお使いを頼みたいとかで、一緒にまゆみちゃん探して、って言うもんですから。屋内に居ないのならまだ、裏庭かしら、と思って来てみたら――」
「ああ、もう結構」
 相原が制した。それから携帯電話を取り出したが、顔を顰める。
「鮠川君、館内に戻ったら有線電話を使って警察を呼んでくれ」
「どうしたんですか?」
「電波障害だそうだ」
 相原が見せた最新型携帯端末のディスプレイには確かにそう表示されていた。確認すると機種や通信会社の異なる鮠川や珠子の端末も同様で、「どうしたんでしょう?」
「昨日の地震のせいかも」
 鮠川の言葉を受けて、珠子が呟いた。
「あれですか?」
「岩盤の破砕で発生した電磁波が一時的に電波障害を起こすことがあるそうよ。夕べのは震源が近いみたいだったし」
「そうかもしれん」
 相原も頷く。
 昨日深夜に起こった地震は一度、腹底へ響くような大きい揺れをもたらしてすぐに止んだ。その興奮は中々のもので、毎夜浅く眠る老人たちはもちろん鮠川や珠子といった若者も、ただでさえ巌谷の自死で眠りの浅くなっていたところを、さらに眠気を覚まされた。
 それで皆、何をするでもなくロビーに集まり、しばらく御喋りに興じたのだ。丹沢天翔園の朝が今日は普段より幾分遅めに始まったのも、その刺激的な夜更かしが原因だった。シャワーの最中に揺れが来たとかで、バスタオル一枚だけ体へ巻きつけて飛び出してきたまゆみを珠子がたしなめる様子を鮠川は覚えている。盛んに女医へじゃれた後で彼の視線に気づいたまゆみは、悪戯っぽく微笑む珠子の横で一々気取ったポーズを取って見せてはころころ、笑い転げていたのだ。その彼女が今、目の前に全く違う形で存在している……。
 珠子が小さく唸り、
「野々村さんが、揺れの直後に山奥の方が青白く光るのを見たって仰っていたから、案外断層そのものが近いのかもしれない。それでここが、異常磁場に入ってしまったとか」
「シェフの無断欠勤もそのせいでしょうか? ここへ来る道がふさがれてるんですかね」
「それなら久賀さんたちが町へ降りられずに戻って来てるはずじゃない? それに、自分で言っておいてなんだけど、地震由来の電波障害がそんなに長く続くものかしら?」
「なんにしても、このままにはしておけんさ。さっき言った通り、鮠川君は館内に戻ったら大至急、警察に連絡を頼む」
 鮠川と珠子のやりとりを遮って相原が言った。
「巌谷のことも知られてしまうかもしれんが、そこはわしがなんとかしよう」
 傍の物置小屋からブルーシートを出してきて遺体へ被せ、珠子に手伝わせて布地が飛ばされないように石を並べながら彼は続ける。
「他三人はまずわしや鮠川君と一緒に一階ロビーへ行く。それから向坂先生、館内放送を使って非常招集をかけていただこう。園内の全員をすぐ、ロビーに集めるんだ」
「招集? 何のためにです?」
 問いかけた鮠川を、そんなことも分からんのか、という目付きで老人は睨んだ。
「この犯人がまだ、そばに居るかもしれんということだ。ツキノワグマなんかであるものか。丹沢にいる動物でこんなことができるのは、わしの知る限り、人間だけなんだ」

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